祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」32・森ガール

みんな、いずれは死んでゆく。それが、人間に与えられた現実だ。人間の現実なんかひどいだけだ。そのことから上手に逃げ出すことができなければ誰も生きてゆけない。そのことから上手に逃げ出すことができて、はじめて生きてゆける。
「命の大切さ」とか「生き延びようとする意欲」とか、そんなスローガンとともにちまちまと現実に耽溺して生きてゆけというのか。
それが人間の「精神」というものか。
人は、そんなスローガンから追いつめられてうつ病になったり、インポになったり、ボケ老人になったりしている。
おまえらのそのスローガンが、弱いものや貧しいものや子供や若者たちを追いつめているのだぞ。
今どきの大人たちのそうやって自分のアイデンティティを守ろうとする態度は、ひつのエゴイスティックなサディズムである。子供や若者たちは、そういうものにうんざりして、学ぶ意欲も働く意欲も失ってゆく。
子供や若者が劣化しているのではない。大人たちのそうしたえげつない心の動きやスローガンが、子供や若者から拒否されているというだけなのだ。
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現実に耽溺してゆく者は、現実から裏切られる。
人間の精神は、「逸脱」してゆく。人間からも、自分からも、現実からも逸脱してゆく。
人間も、自分も、現実も、ひどいだけだ。
誰かかに抱きしめてもらったら、一瞬にして現実から逃げ出すことができるのか。
誰かの笑顔にときめいたら、一瞬にして現実から逃げ出すことができるのか。
誰もが、そんな体験を願いながら生きている。
もう死んでもいいや、と思えるなら、現実から逃げ出すことができる。
もう死んでもいいや、と思えなければ生きて行くことはできない。だって、誰もが必ず死んでゆくのだもの。
もう死んでもいいや、と思えるほどの美しい体験をわれわれはまだできていない。われわれは、そんな体験を願っている。そんな体験をできなければ、生きていられない。
誰だって、「楽になりたい」と願っている。
楽になる体験ができなければ、生きていられない。
現実から逃げ出して楽になれなければ、生きていられない。
リラックスできなければ、生きていられない。
つらければつらいほど、現実から逃げ出してリラックスできる瞬間が必要になる。
われわれは、リラックスできなければ、生きてゆくことも死んでゆくこともできない。
生きてある体力に余裕のある者たちは、どうしても肩に力が入ってしまう。
まだ死なないと思っている者たちの心は、どうしても横着になってこわばってしまう。
この世のもっとも苦しんでいる人だけが、リラックスのその瞬間を体験できる、その光を見ることができる。
われわれは、その瞬間を、その光の差す方角を、見つけ出すことができるか。
人間の精神は、「楽になりたい」と願っている。
リラックスしなければ、生きてゆけない。こわばった目をして現実に耽溺して生きていれば、やがてその現実から裏切られる。
われわれは、現実から逸脱して死んでゆかねばならないし、現実から逸脱してリラックスしなければ、この世界にときめくことはできない。
現実から逸脱してリラックスしてゆくトレーニングは、生きてあるためにも死んでゆくためにも必要だ。
自分は幸せだと現実に耽溺しているものが、この世界の輝きを体験できるのではない。この世のもっとも貧しい人、もっとも弱い人、もっとも苦しむ人が、それを体験しているのだ。
自分の現実なんか、やがてくすんでゆき、最後には真っ暗になってしまうだけだ。その現実はもう、確実に誰にもやってくる。そして誰もが、それがやってくることを知っている。
だから、現実に耽溺しているものたちは、ちっともリラックスしていない。
リラックスしているものにしか、世界にときめくという体験はできない。
現実から逸脱してリラックスしているときにしか、世界にときめくという体験できない。
内田樹先生、レヴィナスのいう「外部にある精神」とは、あなたがたらしこんでいる他者の精神のことじゃないんだぜ。自分から逸脱したもうひとつのリラックスした自分の精神のことをいうのだ。それによってあなたのちんちんは勃起するんだぜ。
あなたは、リラックスしているかい?ちんちんは勃起しているかい?
自分から逸脱したもうひとつの自分の精神を体験できなければ、われわれは生きてゆけない。
社会の共同性に閉じ込められてこわばり穢れてしまっているわれわれの精神は、「楽になる(リラックスする)」ことを願っている。
「辺境」である日本列島の住民にとっての「みそぎ」とは、そういう自己否定の心の動きことであり、そうやって「社会」からも「人間」からも「自分」からも、そして大人たちのくだらない「スローガン」からも逸脱した今どきの若い娘が「かわいい」とときめいているのだ。
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「森ガール」ということばが近ごろひそかに流行っているらしい。
森にいるような女の子、そういうファッションとか生きざまのこと。
とすれば、90年前後に登場した「やまんばギャル」は、その先駆者だということになる。
「森ガール」は、「やまんばギャル」の遺産なのだ。
ただ、「やまんば」は「森ガール」というより「森女」という感じで、「森ガール」というときは、七人の小人と暮らす「白雪姫」とか、幸せの青い鳥を探す「ヘンゼルとグレーテル」というようなイメージかもしれない。
どこか浮世離れしたゆったりまったりとしたファッションや生きざまをしているギャルのことを「森ガール」という。
そしてこれもまた「かわいい」現象のひとつであり、ゆったりとしたAラインのファッションとかカメラを抱えて散歩をするのが好きだとか、そういう「森ガール」のイメージを列挙してゆけば、今どきの若い娘なら、どこかしらにそうした要素のひとつやふたつは持っているのだろう。
この「ガール」ということばは意味深で、「森ガール」は、むやみな婚活はしない。「森ガール」でいられなくなったときに、婚活をはじめる。
「森ガール」は、社会から人間から自分から逸脱してゆく。「かわいい」というときめきは、そこにある。社会から人間から自分から逸脱した森の中にある。
「森ガール」は、「楽になる=リラックスする」ことを願っている。
「森ガール」は、自分の中の、社会や人間や自分の「外部にある精神」と出会う。
人間は、人間から逸脱してゆかなければ生きられない。だから西洋人は「神」になろうとするが、日本列島では、身をやつして人間の「にせもの」になってゆく。
「人間になる」とは、「人間から逸脱してゆく」ことだ。そうしないと、われわれは楽になれない、リラックスできない、「かわいい」とときめいてゆくことができない。