人類の歴史における埋葬の起源の意味は、「社会性=共同性」に目覚めたことにあるのであって、知能が発達して霊魂を発見したとか、そういうことではない。
もちろん無意識の習性としての社会性なら、猿にだってある。しかし猿以上の大きく密集した集団をつくり、言葉などの文化が生まれてくるような人間的な「社会性=共同性」は、氷河期の北ヨーロッパに住み着いたネアンデルタールのところから本格化してきたのだ。
この「社会性=共同性」とともに「埋葬」という行為がはじまった。
人類の葬送儀礼は社会的な行為として生まれてきたのであり、それが現在もなお変わらないその行為の本質である。
まあ、直立二足歩行の起源そのものが、「社会性=共同性」の起源だともいえなくもない。
・・・・・・・・・・・・・・・・
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、それによってそのときの集団の限度を超えた密集状態の鬱陶しさを緩和してゆきながらその状態と和解し、そこから生きてあることのカタルシスを汲み上げてゆく行為であった。
限度を超えて密集した集団をつくってしまうことは、直立二足歩行の開始以来の人間の属性である。
人間はけっして共同体(=国家)をなくしてしまおうとはしていない。その状態とひとまず和解し、そこから逸脱してゆくことからカタルシスを汲み上げてゆく。その状態は、幻想でもなんでもない、リアルな鬱陶しさとしての実在感なのだ。
そのようにわれわれは、共同体=国家を実在として実感する運命を背負って生きている。
その実在感とは、鬱陶しさのことだ。しかしわれわれは、その鬱陶しさを触媒にして生きた心地としてのカタルシスを汲み上げてゆく。そこから、人間としてのこの生がはじまる。
体と体がぶつかりあうこの密集状態の中で二本の足で立ち上がることは、みずからの立っている身体スペースをできるだけ小さくし、他者に「空間=すきま」をプレゼントする行為である。たがいにプレゼントし合う行為である。
だから観衆は、感動すればスタンディングオベーションの姿勢をとる。それは、人間のもっとも原初的な行為であると同時に、究極の生きた心地の表現でもある。
共同体(=国家)とひとまず和解し、そこから逸脱しながらカタルシスを汲み上げてゆくことは、ひとつのスタンディングオベーションなのだ。
共同体(国家)に潜り込んでゆくのではない、そこから逸脱してゆく。そこがミソだ。
われわれは共同体(=国家)をつくるのでも、そこに潜り込んでゆくのでもない。それは、われわれの運命として「すでに存在する」ものである。「すでに存在する」ものとして、そこから逸脱してゆくことにカタルシスがある。
・・・・・・・・・・・・・
クリックよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/