人類の歴史の起源においては、まず他者に何かを「与え」ようとする衝動を共有しながら集団が成り立っている、という時期があった。「献身」の衝動、と言い換えてもよい。
何かを「所有」しようとするところから歴史がはじまっているのではない。
歴史のあけぼのを「身分制度の萌芽」というパラダイムで説明しようとするのは、ほんとに愚劣だと思う。
個人の所有するものに差が生まれる身分制度が発達して共同体(=国家)になっていったのではない。共同体(=国家)から身分制度が生まれてきたのだ。
そういう身分制度を確立する手段として国家が生まれてきたのなら、国家など存在する必要はないし、とっくに消滅していることだろう。そういう身分制度を否定する「自由」とか「平等」というスローガンを掲げても、それでもまだ共同体(=国家)は成り立つのだ。それはつまり、共同体(=国家)が、根源において身分制度の上に成り立っているものではないということを意味する。
よく「国家は幻想だ」といって、何かがわかったようなつもりでいい気にになっている知識人がいる。吉本隆明とか丸山健二とか、まあそういった左翼系知識人がいっぱいる。
国家は、幻想でもなんでもない。
それは、歴史の事実としてわれわれの目の前にげんに存在するものだ。歴史の運命、と言い換えてもよい。
国家とは、限度を超えて大きく密集した集団のことだ。人間は、不可避的にそういう集団をつくってしまう習性を持ってしまっている。
国家は幻想でもなんでもない、げんにそこに存在するという事実であり、それこそがわれわれの実感なのだ。
スタジアムに10万人の観客が集まっていることだって、それはそれでひとつのプチ国家なのだ。そういうことは、誰もがナショナリズムむき出しになってしまうサッカー・ワールドカップのあの熱狂ぶりでよくわかることではないか。
国家とは、限度を超えて大きく密集した集団のことだ。その混乱を収拾するように身分制度が生まれてきたのだ。身分制度が国家をつくったのではない。限度を超えて密集してもなおそういう混乱が生じないような歴史の前段階があったのだ。
そうした前段階として、氷河期の北ヨーロッパで、ひたすら人々が寄り添い集まっていった50万年の歴史があったのだ。人類は、そういう長い歴史のトレーニングを積んだ果てに、現在のような無際限に膨らみきった国家という集団を形成するようになってきたのであり、そこから身分制度や一夫一婦制の家族制度が生まれてきたにすぎない。それは、氷河期が明けたあとの、せいぜい1万年前以降のことである。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
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よかったら。

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