ネアンデルタール人といえば「埋葬」、この問題は何度かここで書いてきたし、書けばネアンデルタール人や埋葬の起源についての何か新しい面も見えてくるような気がする。
それは、人類学者の言うように「知能が発達してシンボル思考ができるようになったから」とか、一般の俗物の知識人が言うように「死者の霊魂を発見して死者との対話ができるようになったから」とか、そういうことではない。
ただもう他者の死を深く悲しんだからだ。そこのところで僕はもう、世の人類学者たちやそういう類の言説に対して「どいつもこいつもくだらないことばかりほざきやがって」と思っている。反論がある人はどうか言ってきていただきたい。できるだけ誠実に返信するつもりです。こんな低脳で愚劣な言説を並べ合って人類学のコミュニティをつくっているなんて、ほんとにくだらないと思っている。
あなたたちは、人間に鈍感で、人間をなめているんだ。少しは自覚しろよ。現代人とは、こんなにも薄っぺらな思考しかできない人種ばかりなのか。何か社会の構造がそういう安直な思考をさせてしまうようになっているのだろうと思う。「シンボル思考」だの「霊魂の発見」だのと言えば何か複雑な思考をしているかのように見えるが、そういうタームというかパラダイムにもたれかかっているということ自体が安直でろくにものを考える能力がない証拠なのだ。
親しい人が死ねば悲しいに決まっている。そういうもっともシンプルなところから歴史の法則を見出していけるかどうかということこそ、ものを考えることの困難さであり醍醐味でもあるのだ。
われわれ現代人だって、つまるところ「悲しい」という心の動きを基礎的な動機にして葬送儀礼をしているのだ。そしてそういう心の動きにおいては原始人も現代人もないのであり、むしろそういう悲しみにおいては原始人の方がもっと深かったともいえる。なぜなら彼らの方がもっと困難な生を生きていたからだ。
「知能の発達」などと安直にいうものじゃない。生物学的には、現代人の知能も原始人の知能も同じレベルなのである。そしてそれはつまり、5万年前のアフリカのホモ・サピエンスの知能も、ヨーロッパのネアンデルタールの知能も、アジアのホモ・エレクトスの知能も同じレベルだったということだ。
ホモ・サピエンスの遺伝的なアドバンテージは、「長生きする」ということにあったのであって、「知能が進化していた」ということではない。
学会のことなど何も知らないが、マスコミの出版世界では、『人類がたどってきた道』の著者である海部陽介氏がいちばん声高に「ホモ・サピエンスの知能の優秀性」などということを主張しているし、人類学関係のジャーナリストも、そんな学者たちの尻馬に乗って同じような安易な言説を垂れ流し続けている。
まったくこのアホどもはどうにかならないのかと思う。
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ロシアのスンギール遺跡は、2万8千年前の豪華な埋葬の跡が見つかったことで一躍有名になった。それは無数のビーズなどの装飾品やたくさんの槍や短剣で死体を飾って木棺の中におさめられてあった。いちおうクロマニヨン人のものだということになっているが、われわれはネアンデルタール人がそのままクロマニヨン人になっただけだと考えているから、ネアンデルタール人の遺跡だともいえる。
とくに10歳と12歳の少女と少年を一緒におさめた棺の副葬品はじつに壮麗で、海部陽介氏はこれを「身分制度があって特定の富が一部に集中していたのだろう」と推測している。
それくらい物質が豊かな社会だったんだってさ。アホだよね、そこから1万3千年前までの最終氷河期の過酷な環境の下で彼らが絶滅の危機に瀕していたのはどう考えても確かなことで、身分制度なんかつくっている余裕などなかったのだ。みんなで助け合っていかないと生き残れない環境で、家族などというものはなかった。子供は集団のみんなで育てた。
まあ現在のエスキモーなどの社会構造から類推すればそう考えるほかないし、原始時代の氷河期なのだから、現在のエスキモーよりももっと人間にとって過酷な環境であったにちがいない。
何をくだらないことを言っているのだろう。この人は、身分制度がどのように生まれてくるのかということを本気で考えたこともないのだろうね。
それは、共同体(国家)のもとに文字が生まれて法が整備され、家族の区分がはっきりし、私有財産制が確立して初めて成り立つことだ。現在のエスキモーだって、そこのところはじつにあいまいであり、2万8千年前なら、さらにそんな制度などあるはずがないだろう。
物質が豊かで知能が発達すればとうぜん身分制度も生まれてくるとか、そんな簡単なものじゃないんだよ。人間はなぜ身分制度という厄介なものを生み出してしまったのか、人間の歴史の宿命として、それはいったいどこからどのようにして生まれてきたのか、そこのところをもっと切実に考えろよ。脳みそが薄っぺらな連中はこれだから嫌になってしまう。
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集団が絶滅の危機にあえいでいた氷河期の北ヨーロッパに、身分制度なんかなかったのだ。しかもスンギールは、モスクワの北の平原である。原始人にとってどれほど過酷な環境であったかは、想像に難くない。
身分制度だなんて、ガキが無邪気におもちゃをいじくりまわしているんじゃあるまいし、そんな言葉を安直に持ち出してきたりするなよ。
まったく、人類学者なんて、どいつもこいつも頭悪いんだから。
縄文時代にも身分制度はあった、といっているこの国の歴史家もいる。身分制度を持つことが、何か知能や文化が発達していることの証しのように思っているアホがたくさんいる。
そんなものは、共同体(国家)が生まれてきてからの話なのだ。
ネアンデルタール人クロマニヨン人のころには、大きな集団で暮らしていたからみんなで選んだリーダーはいたかもしれないが、身分制度などなかった。そんな悠長なことをして生きてゆける環境ではなかった。
200人か300人の集団で、しかも極寒の空の下で誰もがあえぎあえぎ生きているのだから、身分制度もくそもないじゃないか。彼らの社会に必要なのは、身分制度でではなく、誰もが寒さに震えるものとして身を寄せ合ってゆくことにあった。そんなことくらい、ちょっと考えればわかることじゃないか。アホだなあ。
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この豪華絢爛に埋葬された少年と少女は、大金持ちの貴族の息子と娘だったんだってさ。
まあ、文字による埋葬記録がないのだから想像するしかないのだが、ほかに想像しようもないというわけでもあるまい。
それらのビーズや短剣などの副葬品が、集団に共有されていたものではないとはいえない。
長い棺をつくってなぜわざわざ二人を一緒に埋葬したのか。
とても仲が良かったのだろう。
伝染病か何かで一緒に死んだのか。それとも事故か。事故の可能性の方が大きい。
この娘は先天的な足の骨の欠陥があって、あまりうまく歩けなかったらしい。
この時代は、五体満足な子供でもなかなか生きられなかったのだから、この娘はとても大事に育てられたのだろう。この娘が生きていることは、集団の希望だった。こういう障害者の子供を宝物のように思うことは、原始人の属性であり、日本列島でも昔からそのような子を神の子だとする風習があった。
いや、現代でも、障害者の子供は、まわりに特別な感慨を抱かせる。
人間は、「この世のもっとも弱いもの」を生かそうとする。そしてその意識は、厳しい環境を生きる原始人なら、なおさら切実だったに違いない。
男の子は、もしかしたら彼女を守って付き添う役割を負っていたのかもしれない。そしてあるとき何かの事故が起き、彼女を守ろうとして一緒に死んでしまった。
であれば、二人の死は、集団のみんなの悲しみになった。そうして、みんなしてビーズや短剣などを持ち寄ったり、特別豪華な服をつくって着せたりして一緒におさめた。
それが、ことさらたくさんのビーズで飾られていたということは、この子供たちやその親がそれだけたくさんのビーズの所有者だったということを意味するのではなく、それだけたくさんの人が持ち寄ってきた、ということではないだろうか。
それだけたくさんの人がその死を悲しんだ、ということ。そのとき、村じゅうのビーズがそこにおさめられたのかもしれない。それくらい華やかな埋葬だった。
その華やかさの意味が「身分制度」だなんて、まったく、なんて下品な発想をするやつらなんだ。
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僕の想像が正解だと主張するつもりはない。ただ、そういう想像も成り立つ、ということだ。
いったい何のために個人がたくさんのビーズを所有しなければならないのか。売って金になるわけではないし、民衆につくらせてまきあげていたとでもいうのか。
原始人は、自分で所有するよりも、他人に与えることの方が好きだった。狩の獲物は、自分が食うためではなく、女子供に食わせるためだった。
弱いものを生かそうとすること、この衝動がなければ成り立たない社会だった。最終氷河期の北ヨーロッパがそれほどに過酷な環境だったことは、発掘証拠としていくらでも出てきている。
過酷な環境だったからこそ、豪華な埋葬や洞窟壁画などの文化が、その生きにくい生をなだめる装置として生まれてきたのだ。
人類の歴史のはじまりは、「所有する」ことではなく「与える」ことにあった。そこから人間の歴史がはじまっている。
「献身する」よろこび、と言い換えてもいい。まずそういう歴史の過程があった。かんたんに「個人が多くのものを所有する身分制度が生まれてきたところからはじまっている」などといってもらっては困るのだ。
あなたたちは、人間という存在に対する思考が安直すぎるのだ。自分のスケベ根性を当てはめて人類の歴史の起源を語ろうなんて、ほんとにくそ厚かましいにもほどがある。
何が「身分制度が生まれてきた」だ。そのまえに、人々が「あたえる=献身する」ことをよろこびとして生きる長い過程段階があったのであり、その衝動を契機にして文明や文化が生まれ育ってきたのだ。
われわれだってプレゼントしたがるではないか。それは、われわれの中の原始の記憶であり、人間の根源的な衝動でもある。
プレゼントする余裕があるからそうするのではない。弱いものを生かそうとする衝動を根源に抱えているから、人間はそういうことをしたがるのだ。そこのところを学ぼうとしないで、稚拙ながらも身分制度の萌芽があっただなんて、そんな上から目線で原始人の歴史を眺めて何がおもしろいのか。
原始時代の埋葬は、身分が高いから豪華になったのではなく、集落のみんなの悲しみの深さに合わせて豪華になっていったのだ。
埋葬すなわち葬送儀礼は、みんなでするものである。起源においても、そういう社会的な行為として生まれてきたのだ。
埋葬の起源は、親しいものの死を深く悲しんだこと、そして社会的な行為に目覚めたということにある。死者の霊魂を発見したとか、そんなことは関係ない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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