歴史の偶然といっても必然といっても、たぶん同じなのだ。
われわれがこの世に生まれてきたことだって、偶然といえば偶然だし、必然といえば必然で、そういうひとつの運命だったと思うしかない。
5〜3万年前の氷河期にネアンデルタールがアフリカのホモ・サピエンスネオテニーの遺伝子を体の中に取り込んでしまったのも、それはそれでひとつの偶然であり必然でもあった。
そのころ、氷河期の中だるみの時期で、一時的にいくぶん寒さが緩んでいた。といっても、アフリカのホモ・サピエンス北ヨーロッパに移住して生き残る能力はなかった。ゆっくり成長するというネオテニーの形質が特化すればもう、そういう地で生まれた子供は乳幼児の時期を生き延びることはできない。ネオテニーが進化の袋小路であるというのは、そういうことだ。そのときアフリカのホモ・サピエンスは、理想的な温暖な環境の下でしか生き残れなくなってしまっていた。それ以前の7〜5万年前の氷河期のそういう理想的な環境の下でそのネオテニーの形質はいっそう特化して、もはや赤道直下でしか暮らせない体になっていたのだ。
それくらい氷河期の赤道直下は、暮らしやすい気候環境だった。
たとえば、いったん贅沢に慣れてしまったものは、なかなか元の貧乏暮らしには戻れないだろう。それと同じこと。アフリカのホモ・サピエンス北ヨーロッパに行けば、カード破産の状態に陥ってしまう。80年代のバブルを体験したこの国だって、貧乏暮らしができなくなって国債というカード破産寸前ではないか。
氷河期の赤道直下の、一年中15度から20度くらいの気温の温暖な環境で暮らすことに慣れてしまった生き物が、シベリアやグリーンランドのような気候の地に移住して生きてゆけるはずがないし、移住してゆこうとするはずがない。
そのネオテニーの遺伝子は、北ヨーロッパに長く住み着いてきたネアンデルタールの体の中に取り込んで、はじめてその地での生存が可能になる。
現代のヨーロッパ人だって、世界中のほかの地域の人種以上に、早く成長して早く老化する体質である。それは、彼らがネアンデルタール人の子孫だからだ。
ともあれ、アフリカのホモ・サピエンスネオテニーの遺伝子が世界中のどこにでも住みつけるオールマイティの遺伝子だと考えているとしたら、とんでもない間違いのはずである。彼らは、生まれ育った故郷以外のどこにも住み着くことができない体質になってしまっていた。
その遺伝子は、北アフリカからヨーロッパまで、ネアンデルタールの集落から集落へと手渡されながら伝播していった。そしてこれは、たんなる僕の憶測ではない。考古学の発掘資料がそのような結果になっている。
そしてそのころ、氷河期の過酷な寒さが一時的に緩んで、その寒さを通過してきたネアンデルタールの体はいくぶん余裕があった。
また、それなりに寒さの中で生きてゆく文化文明も持っていた。
だから、ホモ・サピエンスの遺伝子を体の中に取り込んでも、なんとか生き残ることができた。
それはもう、歴史の偶然であると同時に必然でもあった。
そのとき、ホモ・サピエンスが赤道直下でしか生きてゆけない体になってしまっていたから、ネアンデルタールの遺伝子がアフリカ北部まで伝播していった。そうして、そこでホモ・サピエンスの遺伝子を拾ってしまい、それが北ヨーロッパまで伝播していってしまったのは、たまたま氷河期の寒さが緩んでいたという歴史の偶然であり必然でもあった。
こうして、50万年前にいったん混じることをやめてしまっていた二つの血脈が、再び混じり合った。現在の遺伝子学のデータも、そのようになっているはずである。
つまり二つの血脈が混じり合わなくなっていったのは、赤道直下のホモ・サピエンスがどんどん赤道直下でしか生きられない体になっていったことと、ネアンデルタールとその祖先たちが、赤道直下の人間にはとても住めないところに住み着いてしまったからである。
そうして最後にこの二つを合流させたのは、人間的な文化だった。つまり、ネアンデルタールとその祖先たちが50万年かけて育ててきた文化によって、進化の袋小路に迷い込んでいたこのアフリカの血を掬い上げたのだ。
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ホモ・サピエンスの遺伝子は、もっとも進化した遺伝子だった、と人類学者たちは言う。その通りだ。しかしだからこそ、進化の袋小路に迷い込んで、赤道直下以外のどこにも住み着けない体になってしまっていた。
そんなホモ・サピエンスが数万年前の氷河期に世界中に植民していったなんて大嘘なのだ。
彼らはなんにもわかっていない。ただ進化すればいいというものではない。進化したからこそ、生まれ育った故郷以外の地に住み着く能力を失ってしまったのだ。
遺伝子に「文化」などというものは刷り込まれていない。それは、その土地に歴史として刷り込まれてあるのだ。
『人類がたどってきた道』の著者である海部陽介氏は、人類はみなホモ・サピエンスだから根源的には同じ文化を共有している、と言う。まったく、アホじゃないかと思う。人類学者というのは、こんな低脳ばかりなのか。
どうしてこんな安直極まる思考が蔓延してしまうのだろう。人間とは何か、という問いが変なのだと思う。
現在のアフリカ以外の人類は、けっして純粋なホモ・サピエンスではない。と同時に、すべての人類がホモ・サピエンスの遺伝子を取り込んでしまって、もはや文化文明の助けなしには生きられない体になってしまっているし、文化文明によって世界中のどこにでも住み着けるようにもなっている。
だから、進化した知能で住み着いていったという話になってくるのだが、知能とはもともと文化文明から生まれてくるものであって、知能が文化文明を生み出すのではない。
文化文明は、その土地の歴史から生まれてくるのであって、知能から生まれてくるのではない。
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われわれがこの世に生まれてきたことも、このように生きてきたことも、偶然であり必然であるところの運命であって、自分の「作為=知能」が成し遂げたのではない。「作為=知能」それ自体が、われわれに与えられた「運命」にすぎない。
あなたの知能も知性も、なんの値打ちでもない。
ある似非脳科学者が、現代の日本人は知性に対するリスペクトがない、と嘆いておられた。アホらしい。先人の知性をリスペクトせよ、てか?何を貧乏たらしいことをほざいていやがる。
われわれはもはや、知能も知性も信じていない。人間が共有しているのは、知性へのリスペクトなどではない。この世に生まれてきてしまったことの悲しみなのだ。その偶然であり必然であるところの運命に対する悲しみなのだ。そこから人間社会の生成がはじまる。そのようにしてネアンデルタールの社会が成り立っていた。
先人のどんな知性よりも、今ここにあなたとともに生きてあるということ、すなわち今ここに生きてあることの悲しみを共有しているということの方がもっと大切なのだ。
言いかえれば、先人の知性など、すでにわれわれの中に血肉化してある。歴史として、風土として、われわれは先人の知性の上に生きてある。
われわれにとってもっとも切実であるのは、今ここに生きてあるという事実であり運命なのだ。そういう事実=運命に対する「感慨」を共有できるかということこそ切実なのだ。
何が知性に対するリスペクトか。そんなものは必要ない。ただもう、今ここに生きてあるという事実と運命と和解できればいいのであり、そこからこの生がはじまるのだ。
知性などというものは、すでに誰の中にも血肉化してあるのだ。いまさら知性をリスペクトしたり欲しがったりして何がうれしいのか。
そんなものはすでにわれわれは持っている。だから、欲しがりもしないしリスペクトもしない。
今ここにこの世界があり、あなたがいるということ、それがわれわれの知性だ。おまえらみたいなリスペクトしたがりの俗物にはわかるまいが、ひとまずそういうことだ。
この世界、この土地(風土)が、知性=文化なのだ。
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文化は、その土地の歴史によってつくられている。だから、土地によって言葉が違う。原始時代なら、人は今よりもっと深く土地と結び付いて生きていたはずである。人がその土地に住み着くということは、かんたんに知能でなんとでもなるというわけにはいかないのですよ。
歴史は、人間の作為によってつくられてきたのではない。知能などという安直であいまいな概念で人間や歴史を語ってもらっては困るのだ。中学生の昼休みの雑談じゃないのだから。
集団的置換説を信じているなんて、みんなアホだと思う。それは、真実ではない。あなたたちに未来はない。ホモ・サピエンスの「出アフリカ」などという思考は、どうしようもなく愚劣だ。あなたたちの歴史観や人間観は、じつに薄っぺらだ。いずれそれが証明される日が来るだろう。
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