人間が二本の足で立ち上がることは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を与え合う行為である。
みんながいっせいに立ち上がることにカタルシスがある。そうやって人類の直立二足歩行がはじまった。ここに、人間的な集団性=社会性の基礎がある。
四足歩行の動物がたがいに体をぶつけ合って行動しているときに、自分が二本の足で立つことの不自由を引き受ければ、他者に体を動かす自由がもてる「空間=すきま」を与えることができる。そのとき人類は、誰もがいっせいに、その「与える=捧げる」という姿勢をとった。これが、直立二足歩行の起源であり、埋葬をはじめる契機になった心の動きなのだ。人類学者の言うような「シンボル思考ができるようになったから」とか、そういう問題ではない。僕は、「シンボル思考」などというわけのわからない言葉をいい気になって振り回している研究者を軽蔑しているのだ。
しかしこのレポートがその結論にうまく着地できるかという勝算もあるわけではない。とにかく、書いてみるだけだ。
「与え合う=捧げ合う」ということ、ここから人間の歴史がはじまっている。埋葬の起源もまたしかり。
原始人の社会は、そういう人と人の関係の上に成り立っていた。そうした「与える=捧げる」行為の醍醐味はわれわれ現代人でも知っているし、原始人ならなお切実に、そしてなお豊かにそこから生きてあることのカタルシスを汲み上げていた。
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しかし、このことを、レヴィ=ストロースをはじめとする人類学者のいう「贈与と返礼」という考え方と一緒にしてもらっては困る。「返礼」などというものはない。あくまで同時に与え合うのだ。他者に「与える=捧げる」という行為のカタルシスによって原始社会が成り立っていた。
共同体や貨幣経済が発生し、そうした「捧げ合う」という関係が壊れていったところから、それを補完する行為として「返礼」が生まれてきたにすぎない。
原始人は「返礼」なんかしない、ひたすら「捧げ合う」だけだった。
そしてこのような関係が発展して、ネアンデルタール人の群れは、大きく密集した集団になっていった。そういう関係のそういうカタルシスがなければ、限度を超えて大きく密集した集団など成り立つはずがない。これが、人間の「社会性」の基礎である。
彼らは、人類で最初に「社会性」に目覚めた人々だった。そこから「埋葬」という行為が生まれてきた。
現在の人類学者たちは、あまり本格的に「人類はなぜ埋葬することをはじめたのか」ということを問うていない。ただもう安直に「知能が発達して<シンボル思考>ができるようになったから」ということですませてしまっている。
こういう安直な言い回しで問題を解決したつもりでいる思考の程度の低さは、本当に腹が立つ。埋葬をするようになったからそのことに関する「シンボル思考」をするようになってきただけのこと。彼らの考えることは、いつだって順序が逆なのだ。
僕はもう、世界中の人類学者を敵にまわしている気分だ。
ネアンデルタール人は、死者を洞窟の土の下に埋めようとした。なぜ洞窟なのか、なぜ埋めるのか、そのことが問われなければならない。それは「シンボル思考」と言っただけではすまない。シンボル思考というだけですむのなら、山の中に置いてきても川に流しても、あるいは現在のチベット人のように鳥葬にしたっていいのだ。
彼らの悲しみに推参できなければ、そのことの説明はつかない。
頭がよくなったから埋葬をするようになったのではない、悲しみが深くなったから埋葬せずにいられなくなったのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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