ネアンデルタール人の正体』という本の中で、西秋良宏という東大の研究者が、「ネアンデルタールは埋葬するとき、とくに深く悲しんだのではなく、ただなんとなく埋葬していただけだった」と言っておられる。そして「ネアンデルタールの生活は、何万年も毎日同じことの繰り返しで退屈なものだった」とも言う。
この国の研究者のレベルなんかこの程度のものかと、ほとほと情けなくなる。
「ただなんとなく」で、何も知らない原始人が、人類史におけるまったく新しいエポックである埋葬という行為をはじめられるはずないじゃないか。そういう行為をせずにいられない何かがあったに決まっているじゃないか。人類の歴史において「ただなんとなく」で先駆的な事態が起きてきたことなど一度もない。いつだって先駆者こそ、もっとも狂おしい体験をしているのだ。そういう劇的な歴史の流れがあったのだ。
なぜ遠くに捨ててくるだけではすまなかったのか。べつに捨てたらたたりがあると思ったのではない。いつも埋葬しているならそういう疾しさも起きてくるが、捨ててくるのが当たり前なのに、捨てられなくなっていったのだ。つまり、捨てたらたたりがあると思ったのではなく、捨てたくなかったのだ。
では、霊魂の存在を感じて、死者と対話をしたくなったのか。そんなはずがない。そんなことは、迷信深い現代人の観念の世界ででっち上げられていることであって、原始人には無縁の世界だ。対話ができなくなることを「死ぬ」というのであり、彼らには、そういう事実認識以上の邪念などなかった。
彼らは、ただもう死者のことが忘れられなかったのであり、忘れたくなかった。そういう気持ちが極まって、いちばん身近な洞窟の土の下に埋葬するという行為がはじまったのだ。
そのように、埋葬せずにいられない彼らなりの激情があったわけで。べつに知能がどうのという話ではない。
何が「数万年、毎日同じことの繰り返しの退屈な日々だった」か。そんな日々の中で、どうして人類が誰も体験したことのない埋葬という行為が生まれてこようか。ろくな文明を持たない原始人が氷河期の極北の地で暮らして、退屈でのんびりした日々なんか得られるはずもないじゃないか。暇を持て余した現代の専業主婦じゃあるまいし。
退屈な日々なんか得られなかったから、「埋葬」という切羽詰まった行為が生まれてきたのだ。
彼らは、それなりに切羽詰まっていた。人が死ぬことなんか日常茶飯事の、絶滅の危機を生きていた。彼らの心は、人が死ぬということに、しだいに追い詰められていった。そういう歴史の流れがあったのだ。
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