ネアンデルタールに埋葬という行為をはじめさせたのは、べつに知能が発達したからというようなことではなく、そういう環境になっていたからであり、彼らがそこに住み着いてきた歴史の問題なのだ。
言いかえれば、彼らはすでに現代人と同じレベルの知能を持っていた。それはもう生物学の常識で、人類学者はそうは思いたくないらしいが、本格的な生物学者はみんなそう思っている。
30万年前のネアンデルタールの洞窟の土の中からまとまったかたちで人骨が出てくるらしい。50万年前、という報告もある。おそらくこれらは、「埋葬」の跡だろう。
ただ洞窟の奥に放り込んでおいただけさ、といっている人類学者も多い。そんなことがあるはずないじゃないか。そんなことをしておいたら、まわりの肉食獣がどんどん集まってくるに違いない。なんでわざわざそんなことするものか。
そんなことをしたら、ものすごい腐臭が立ち込めてくる。そうなったらもう、そこで暖をとったり寝泊まりしたりすることはできない。彼らにとって洞窟は、死体を放り込んでおくただの倉庫かゴミ捨て場みたいなものだったのか。まさか、そんなはずはあるまい。
ちゃんと、土の下に埋めたのだ。
人間にとって洞窟は親密な場所である。寒さから逃れてそこで火を焚いてみんなで語り合ったらしい痕跡は、いくらでも残されている。そういう場所に、死体をほったらかしにしておくはずがないじゃないか。
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それは、なぜ洞窟の中でなければならなかったのか。それが、死者を記憶し思い出すための最善の方法だったからだろう。そうせずにいられないくらい深い悲しみがあったからだ。
人は、死者を記憶し思い出すために埋葬する。原始時代には、仏壇も遺影の写真もなかったのだから、もう洞窟の土の下に埋める以外の方法は考えも及ばなかった。
事故ではないかぎり、だいたいだんだん体が弱って死んでゆく。それがもし赤ん坊なら、母親は付きっ切りで看病する。集団のみんなも集まってくる。
そうして死んでしまえば、母親はその子を抱いて離すまいとするかもしれない。こういうことは、猿の世界でもよくあるらしく、死んだ子を何日も抱いたまま行動している母猿がいる。
人間ならなおさらだろう。それまで付きっきりで看病してきたから、悲しみも深い。看病する、という行為を覚えたことも、埋葬の契機のひとつになっているかもしれない。
それに、みんなでそれを一緒に体験すると、よけい悲しみが深くなる。また、自分ひとりでは泣かないのに、みんなの前だと泣かずにいられなくなってしまう、ということもある。人間はそういう生き物だ。みんなと一緒にいれば、みんなと共有したくなってしまう。ひとり泣き、ということもあるが、基本的に泣くという行為は、その感情を共有しようとする衝動の上に成り立っている。それは、ひとつの「表現」行為なのだ。
そのようにして彼らは、「泣く」という行為を死者にささげた。もうこの時点で、人類の葬送儀礼の起源が起きているのかもしれない。
人間社会の共同性は、みんな一緒に「泣く」というところからはじまっているのかもしれない。これは、一考に値する。それは、ひとつの事件として、集団の歴史に刻まれるだろう。そこから、みんなで歌ったり踊ったりということが生まれてきた。これが共同性の原形ではないだろうか。
まあ一般的な人類学が考える共同性の起源は、食糧生産の共同性などがいわれたりするのだが、たとえばネアンデルタール=クロマニヨンの狩に女子供は関係なかった。
共同性とは、みんな一緒に何かをしたり思ったりすることである。直立二足歩行は、女子供も巻き込んで起きてきたことだ。言葉だってしかり、女子供を含めてみんな一緒に何かをしたり思ったりすることの高揚感が共同性になっていったのだ。
みんな一緒に「泣く」という体験をしたことによって、人類は新しい共同性の歴史を歩みはじめた。みんな一緒に泣くという体験を持っていたから、言葉が発達し、やがて歌や踊りを覚えていったのだ。
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とはいえ、母親がいつまでも悲嘆にくれていたら、母親自身の体力が弱ってゆく。それに子供を抱きかかえているかぎり、母親はセックスしようとしない。それは、男たちも困るし、母親自身も生きた人間と抱き合うということをしなければ、どんどん体温が低下してゆく。
というわけで、「でももう死んでしまったのだから、今まで通り山に捨てに行こう」と誰かが言う。
そこで母親はこう言う。
「そんなことをしたら、子供が寒いじゃないの。かわいそうよ」
で、それもそうだ……とみんなが思う。
それはもう、理屈ではない。誰かが泣き出せば誰もがつられて泣いてしまうように、自然にみんなが同意してしまうというのは、人間の世界ではよくあることだし、それも共同性の原型にほかならない。
そうして、じゃあ寒くないように洞窟の下に埋めてやろう、ということになっていった。
彼らにとってそれが、死者に対する最後の「献身」だった。
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ネアンデルタール=クロマニヨンの社会とは、人が次々に死んでゆく社会だった。ことに子供は、半数以上が乳幼児の段階で死んでいった。彼らにとって生きることは、そういう悲しみと同伴することだった。
そういう状況から埋葬するという行為が生まれてきたのであって、何度も言うが、「知能が発達してシンボル思考ができるようになったから」とか、そういうことでない。仏壇も遺影の写真もない時代であれば、それが死者を思い出すもっとも有効な方法だったのであり、思い出して語り合うことが彼らにできる唯一の死者への「ささげもの」だったからだ。
死者とは、最も根源的な「他者」であるともいえる。その死者に、ネアンデルタール人は「与える=ささげる」というかたちで埋葬していった。「他者性」とは、そういうことだ。われわれの普段の人間関係においても、根源には、この「与える=ささげる」という衝動がはたらいている。そしてこの衝動を共有してゆくことが、根源的な「社会性=共同性」なのだ。
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