生きようとする衝動、などというものはない。
われわれのこの生は、他者を生かそうとする衝動の上に成り立っている。
この生は「すでに生きている」という自覚の上に成り立っているのであれば、生きようとする衝動は原理的に成り立たない。
生きようとなんか思わないでも、すでに生きてしまっているのだ。これが、この生のかたちなのだ。ここからこの生がはじまる。
すでに生きてある存在を、「生き物」という。
生きるという行為は、人形に命を与えて生き物にしてゆくというような行為ではない。最初から命を持っているのが、生き物なのだ。
したがって、生き物に「生きようとする衝動」などというものはない。人形じゃないのだから。
生き物が生きようとするなんて、言語矛盾なのだ。リンゴを手に持ってリンゴが欲しいと言っているのと同じなのだ。生きている生き物が生きようとするはずがないじゃないか。
そして、自分の死は誰も体験できない。死ねば意識がないのだから、死んだという自覚なんか持ちようがない。
死は、「他者の死」として体験される。生きることだって同じだ。われわれは、他者が生きているのを見て、はじめて自分が生きていることに気づく。
この世界が存在することとの出会いによって、はじめてみずからの存在に気づくのだ。
意識は、世界の存在に気づく装置である。
この生は、世界(他者)の存在に気づく、というかたちでしか成り立ちようがない。だから、他者を生かそうとする。
僕がここで何度も「人は他者を生かそうとする」といっているからといっても、べつに愛だとかやさしい心とか、そういう問題ではない。生きることは不可避的にそういう仕組みになっている、というだけのこと。
人は、他者を生かすことによってしか生きるということを確かめられないのだ。
そういう普遍的な命の仕組みとして、ネアンデルタール人は誰もが他者を生かそうとしていたのだ。
ネアンデルタール人の社会の基礎的なコンセプトが「与える」とか「ささげる」とか「献身性」にあるといっても、つまりそういうことなのだ。そんなことをしたからといって心やさしいのでもえらいのでもないし、あり得ないことでも困難なことでもないのだ。
人間は誰だって自分が一番かわいいのだ、といって居直るものじゃない。自分を磨いて自分を確立するのが人の道だとえらそうに言われても、アホかと思うばかりだ。
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ネアンデルタールの乳幼児は、半分以上が死んでしまった。だからといって彼らは、その確率をはじめから計算に入れていたわけではない。計算していたなら、ひとりふたり死んでもどうということもないだろう。しかし彼らは、ひとりひとりの死を、全身全霊で悲しんだ。生まれてきたかぎりには、全員を生かそうとした。
目の前に存在する他者、それが人間のすべてだったのだ。われわれだって、そういう気持ちになることはあるだろう。だから人は深く傷つくのであり、だから深く「あなた」を好きになってしまったりするのだ。
ネアンデルタールたちが、ひとりふたり死んでもどうということはないというような思想なら、まちがいなくとっくに絶滅してしまっていたことだろう。どんな弱いものも、けんめいに生かそうとしたのだ。
現代医学の進歩だって、もっとも弱いものを生かそうとしたことによって実現したのであり、それが人間のいとなみの普遍的なかたちなのだ。
そしてそのように人間が他者を生かそうとするのは、生きようとする衝動なんか持っていない存在だからだ。生きようとする衝動を持っていないから、べつのものが生かそうとするのだ。
ネアンデルタールの置かれた環境は、人間が生きていられるような環境ではなかった。だからこそより切実に目の前の他者を生かそうとする衝動が湧きあがってくる社会だった。そういう状況から、人類初の「埋葬」という行為が生まれてきたのだ。
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