ネアンデルタール人の埋葬については、まだまだもっと問題がありそうに思うのだけれど、これ以上浮かんできません。このへんが議論をする相手のいない人間の悲しさで、しょうがないから、最後に未練がましい蛇足を書いておきます。
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ネアンデルタール人の埋葬の想像図が描かれるとき、必ずといっていいくらい家族だけで埋葬している絵柄になっている。
これは、嘘だ。ネアンデルタールに家族などなかった。乳児期を終えた子供は、集団のみんなで育てた。そうして女たちは子を産むことに専念していった。そうしないと、集団の人口は維持できなかったし、女たちは30数年の生涯で7〜10人の子を産んだといわれている。しかもその半数以上は、乳幼児のうちに死んでいった。
その厳しい環境に耐えられる赤ん坊でなければ生き残れなかったということは、赤ん坊は体内でできるだけ体力をつけてから生まれてきたということだ。ネアンデルタールの妊娠期間は現代人よりも1カ月長かったといわれている。そしてネアンデルタールの赤ん坊は現代人の赤ん坊よりも頭が大きく、産道を通りにくかった。そのため女たちの胎盤かなり変形してしまっている。つまり、それだけ困難なお産だった、ということだ。産む方の女たちだって命がけで、若い初産で死んでしまう女だって少なくなかったにちがいない。
しかも、やっと産み落とした赤ん坊だってすぐ死んでしまうということも多かったのであれば、彼らにとっての人の死がどれほど身近で切実なものだったかということはもう、われわれの想像を越えるものだったのかもしれない。
乳幼児の死亡率は女の方が高い。しかもお産で死んでゆく女も多いのであれば、ネアンデルタールは女の方が少ない社会だったはずだ。だから、レディーファーストの習慣が生まれてきたのだろう。
つまり女のわがままが聞き入れられる社会だった、ということだ。
ネアンデルタールが洞窟に死んだ子供を埋葬したことは、おそらく女のわがままによるところも大きかったはずだ。女は、死んだ子供を離したくなかったし、寒い戸外に置きたくなかった。
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ネアンデルタールの社会は、誰もが他者を生かそうとする衝動を持っていなければ成り立たなかった。それぞれが家族をつくって閉じてゆくという余裕などなかった。
ひとりの死は、集団のみんなの悲しみになった。彼らは、自分たちの悲しみを癒すすべを語り合った。それはつまり、誰もが相手の悲しみを癒そうとした、ということだ。
忘れてしまうことなんかできない。思い出して語り合ってやることがそのすべだったはずだ。
彼らにとって洞窟は、そこで焚き火をしながら語り合ったりする共有の場所であり、その土の下に埋めることが誰もが死者を思い出す最善の方法だった。そうやって誰もが、たがいの悲しみを慰め合った。
洞窟の土の下に埋めたということは、それが個人的な行為ではなく、集団全体の社会的な行為だったことを意味する。彼らにとって洞窟は、個人の所有でも家族の所有でもなかった。集団が共有している場所だった。
ヨーロッパの都市は、集団が共有している建物と広場を町の中心に置く。これはおそらく、ネアンデルタールが洞窟を共有して暮らしていたことの伝統なのだろう。
葬送儀礼の本質は、社会的な行為である。ネアンデルタールの埋葬も、社会的な行為だった。そのとき、他者の死に対する悲しみが共有されてゆくということが起きた。そのダイナミズムから、埋葬という行為がはじまった。家族だけでひっそりやっていたのではない。彼らには家族という単位がなかったから、そういう集団的な行為が起きてきたのだ。
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どんな生き物も、生き物であるかぎり「この世のもっとも弱いもの」でしかないのだ。だからこそ、さらに弱いものを生かそうとする。人間の他者を生かそうとする衝動も、そういうところから発している。だからわれわれもプレゼントしたがるし、他者に献身しようとする。
他者の死が悲しいということは、他者を生かそうとする衝動の挫折として体験される。そこにおいて人間はもっとも深く悲しむ。人間を生かしているのは、自分を生かそうとする衝動ではなく、他者を生かそうとする衝動なのだ。だから、埋葬という行為が生まれてきた。
「シンボル思考」がどうのというようなことではない。人類学者がよく言うそんなことは、後付けの表層的なへりくつでしかない。
原始人が極寒の北ヨーロッパに置かれれば、たくさんの他者の死を見つめながら生きてゆくほかなかった。そのような体験を通して、彼らの、他者を生かそうとする衝動が深化していった。誰もがそういう衝動を持ち寄りながら、大きく密集した集団をつくっていった。
ネアンデルタールにとって、集団の成員の死は、集団の悲しみだった。彼らにとって、死と向き合って生きることが集団を成り立たせているもっとも大きなコンセプトだった。他者を生かし合い、他者の死に対する悲しみを癒し合う行為として、氷河期の北ヨーロッパを生きたネアンデルタール=クロマニヨンの集団が大きくなっていったのだ。
人類の集団を大きなものにさせている根源的な要素は、「他者を生かそうとする衝動」にある。大きな集団にしようとする目的があったのではない。大きな集団など、鬱陶しいだけなのだ。それでも人間は、大きな集団をつくってしまう。それは、根源において他者を生かそうとする衝動を持っているからだ。たんなる他者ではない、「この世のもっとも弱いもの」である他者を生かそうとする衝動を持っているから、もうやみくもに大きな集団になってしまう。
人間は、他者の悲しみをなだめようとする。それは、この世のもっとも弱いものを生かそうとする衝動だ。そのときネアンデルタールの集団は、誰もが深く悲しむものであり、誰もがこの世のもっとも弱いものだった。そうして、誰もがこの世のもっとも弱いものを生かそうとするものだった。
この世のもっとも弱いものがひとりだけなら、べつに大きな集団など必要ない。しかし、すべてのものがこの世のもっとも弱いものになるのなら、その集団は無限に膨らんでゆくことができる。
つまり、人間の集団が無限に膨らんでゆく傾向を持っているということは、人間性の基礎として、誰もがこの世のもっとも弱いものとして生き、もっとも弱いものを生かそうとする衝動をそなえている、ということだ。
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また、現代社会になぜ「階層化」が起きるかということにしても、最下層の「この世のもっとも弱いもの」たちの集団において、もっとも根源的な人と人の関係が生まれてくるからだろう。そこにこそ、人間性の基礎がある。因果なことに、そういうことなのだ。人間は、根源において、「この世のもっとも弱いもの」として悲しみや嘆きを共有しながら集団をつくってゆく生き物であり、その関係に生きてあることの深いカタルシスが潜んでいるからだ。
最下層のところでこそ、生き物の自然としての「生物多様性」が成り立っている。
もともと人間の知能にそれほど大きな差はない。ただ、それぞれが生きてきた人生の歴史と文化に隔たりがあるだけのこと。そうして、最下層には最下層の歴史と文化がある。
人類の歴史は、何度自由と平等を掲げて革命を起こしても、いつの間にか階層化してしまう。それは、最下層の「この世のもっとも弱いもの」になることにこそ人間性の根源があるからだ。
障害者として生まれて来たものは、その理不尽な運命を死ぬまで呪い続けて生きていかねばならないのか。そうではあるまい。その「この世のもっとも弱いもの」として存在することを受け入れてしまう心の動きは、人間であれば必ず持っている。人間の心は、もともと受け入れてしまうようにできている。なぜなら、受け入れることに生きてあることのカタルシスがあるからだ。
「この世のもっとも弱いもの」としての自覚と、「この世のもっとも弱いもの」に対する心の動き、そういうところから人類の「埋葬」という行為が起きてきた。
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人間はできるだけ楽して生きようとする。そのようにして文明が生まれてきた。それはつまり、この世のもっとも弱いものとして生きようとしていることであり、もっとも弱いものを生かそうとしていることだ。
そのために犯罪や人をだますということが起きてきたとしても、人間のしていることは、つまるところ、この世のもっとも弱いものとして生き、もっとも弱いものを生かそうとする行為なのだ。
楽して生きようとか、いい思いをしようとか、そんなことはようするに弱い生き物の考えることだ。
ただ、弱い生き物であることを受け入れて弱い生き物として生きるか、弱い生き物であることから逃れて生きようとするのか、そういうセンスの違いはある。進化する人間は、何はともあれ「この世のもっとも弱いもの」として生きている。人間的な魅力とかセックスアピールというのも、まあ、そういうタッチというかセンスのことであり、知性とか品性といっても、やっぱりそういう問題なのだ。
弱みを見せることのできない人間は、人に好かれない。いいかえれば、他人に対して優越感を持とうとしてばかりいる人間の前では、こちらも弱みを見せることができなくなってしまう。この世の中がそんな相手ばかりなら、まともな人と人の関係なんか生まれてくるはずもない。
まあ、嫌われ者というのは、どの世界にもいるんだよね。じつは、そういうことをずっと考えながらこの「埋葬」というテーマを書いてきただけなんです。
ホモ・サピエンスの知能の優越性を土台にして「集団的置換説」を語ろうなんて、しんそこ下品な考え方だと思う。他人に対して優越感を持ちたがって生きているやつらが、そういう考えに飛びつく。おまえら、脳みそが腐ってるよ。
根源的には、人間の知能なんてたいして変わりはないのだ。ただ、それぞれの生きてきた人生の歴史に違いがあるだけのこと。
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