集団的置換説の提唱者のある東大の研究者は、人間は知能が発達したから親しい他者の死を悲しむようになった、と言っておられる。ネアンデルタール人は、声を上げておいおい泣くということはしなかったんだってさ。
まったく、集団的置換説の提唱者なんか、こんなアホばかりなのだ。この研究者の名前を書いてもいいけど、面倒だからやめておく。
人間は、知能で悲しむのか。
ふだんはクールな東大教授が長い間世話になった恩師の葬式の席で人目もはばからずおいおい泣いていたら、それは彼の知能か。そうじゃないだろう、それは彼の人生の「歴史」の問題なのだ。
人類は、そういう悲しみが生まれ育ってくる歴史風土を歩んできた。知能なんか、関係ない。
極寒の地のネアンデルタール人は、たくさんの他者の死を体験していた。彼らは、今にも死にそうな弱いものをけんめいに看病し、いつもみんなでその死を看取るという歴史体験を繰り返していた、その果てに、いつのまにかみんなで泣くという現象が生まれてきたのだ。
泣くという行為は、集団においてもっともダイナミックに起きる。そのクールな東大教授だって、みんなで悲しんでいるというその集団性に浸されていったのだ。
そういう泣くという行為の集団性と悲しみの深さが、ネアンデルタールの埋葬になっていった。
アフリカのホモ・サピエンス北ヨーロッパネアンデルタールと、どちらに他者の死を深く悲しんで泣くという契機があったかといえば、ネアンデルタールの方に決まっている。
人類の埋葬は、ネアンデルタールがはじめたのだ。そこにしか埋葬がはじまる契機はなかった。
知能が発達して埋葬するようになったのではない。悲しみが極まったからだ。
人間が生きられそうもないような厳しい環境のもとで暮らし、他者を生かそうとする思いが切実になっていったから、他者の死を深く悲しむようになり、そういう歴史の果てにやがて埋葬という行為が生まれてきたのだ。
ネアンデルタールの埋葬は、死者に対する献身としてはじまった。そしてそのクールな東大教授だって、泣くという行為を死者に捧げているのだ。
人類は、埋葬をはじめたことによって、他者に対する「献身性」を進化させていった。そのことの歴史的な意義も忘れるべきではない。まあ、集団的置換説をのうてんきに信じ込んでいる連中にわかる話ではないんだけどさ。
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このところ「ネアンデルタール人」で検索してこのページに飛んでくる人が多くなっている。
だったら、このページに触発されて、「集団的置換説」を唱える大学教授の講義に対して「それじゃあ納得できない」という感想を抱く大学生がいるかもしれない。そういう学生が増えてきて、教授と学生のあいだに活発な議論が生まれてくればいいのに、と思う。
知識は知識、そのデータをどう解釈するかはまた別の問題で、たくさん知ってりゃえらいというものでもない。それに、人生の先輩だから人間のことをよく知っているとも限らない。
憶することなく、どんどん議論してほしいと思う。知識が足りないことなんか、なんにも恥ではない。それよりも、「ほんとにこれでいいのだろうか?」と問うことができない方がずっと恥ずかしいことだと思う。
世の集団的置換説の研究者たちがいかにずさんな人間考察しかしていないかということは、このページで何度も言ってきた。どうせアホばっかりなんだから、なんにも遠慮することも憶することもないと思う。
われわれはまだ何も知らない。問うたものだけが知ることができる。問うということをしないで知識だけで生きてきた連中が、集団的置換説を大合唱している。
僕にとってここで書くことは「問う」という作業であって、見せびらかすことのできる知識など何も持っていない。そのつど、問いながら書いているだけだ。もしも議論する相手がいたら。僕の考察はもっと深く広く豊かになるに違いない。それがちょっと残念だし、悔しい。しかし、世の凡庸な人類学者たちが問うたことのない問題を俺は問うている、という自信がないわけではない。
教授だろうと学生だろうと、じつはどちらもまだ知らないのだ。だから議論して未知の真実に迫ろうとする。それが本来の学問というものだろう。そして、議論の種は、いくらでもある。
知識なんか、本を読めばそれですむ。教師が伝えるべきは、問うことであり、議論をするという体験であるに違いない。すなわちこれは愛の問題であり、人と人の関係の根源の問題でもある。
ちゃんと人と議論ができない教師なんて、しょせんたいしたことないのだ。
議論ができないのなら、学問に進化も発展もない。
そのクールな東大教授だって、恩師と議論した思い出がどっとよみがえってきたんだと思うよ。そうしてその悲しみを、「泣く」というかたちで亡き恩師に捧げた。
人類の葬送儀礼の根源は、「悲しみ」と「献身性」にある。知能の問題なんかじゃない。
そして議論をすることだって、愛の問題なのだ。自分と対等に議論のできる生徒を育てることは大学教師の務めだろうし、それこそが彼らのよろこびにちがいない。
しかしねえ、いまどきの文科系の学問の世界なんか、自分もその道に進みたいのなら先生と同じ立場をとらなければならないのだろうし、ただの教養として学んでいる生徒は下手に先生を怒らせたらいい点が取れないと思うのだろうし、それで先生と同じ意見の大合唱になってしまうのだろうね。
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