たかが放射能の1ミリシーベルトにおびえちゃってさ。
しかしそれだって、それほどに人間は「ぎりぎりの状態」で生きているということの証明でもある。
われわれが生き物としていかに「ぎりぎりの状態」でこの世に存在しているかということを、ここらでもう一度思い知ってもよい。他者を生かそうとする衝動は、そこから生まれてくる。みんなが幸せで余裕しゃくしゃくで生きているのならそんな衝動なんか生まれてくるはずもない。しかし人間は根源においてそうした衝動をそなえており、それが生きるいとなみの根源のかたちになっている。
人間存在の根源のかたちは、「この世のもっとも弱いもの」としてある。
だから人は、他者を助けようとするし、プレゼントをしたがりもする。「この世のもっとも弱いもの」として生きているものこそもっとも尊いのだ。だから人は、障害者をけんめいに助けようとするし、今にも死にそうな患者をけんめいに看病する。人間の医学が進歩したことの根源的な契機は、そういうところにある。
人間は「この世のもっとも弱いもの」として存在している。
何が万物の霊長か。アホどもめ。
人間は、生き物のなかでも最低の存在なのだ。人間は、「この世のもっとも弱いもの」として生きようとする衝動を、誰もがどこかしらに抱えている。だから、1ミリシーベルトにもおびえてしまうし、勉強したがらない子供だって生まれてくる。
たくさん収入のある人間はそれだけたくさん努力してそれだけ優秀なのだから当然だ、という思想がある。だったらおまえらが貧乏人の僕よりも深くものを考える能力があるところを、だれでもいいから言ってこいよ。大学教授だろうと大文豪だろうと、誰だって相手になってやる。
べつに、誰が優秀だとか人格が高潔だとか、そんなことはないのだし、そんな比較などどうでもいいことだ。
人間には、「この世のもっとも弱いもの」として生きようとする衝動が誰の中にも潜んでいる。だから、貧乏人が生まれてくるのだ。貧乏人が存在することは、人間社会の宿命なのだ。そういう「この世のもっとも弱いもの」が存在しなければ、人間は他者を生かそうとする衝動を失ってしまうのであり、それは人間ではなくなってしまうということだ。
おまえらが優秀だからでも貧乏人が愚かだからでもないし、子供たちが勉強したがらないことを否定できる根拠もない。
勉強したがらないことにも、それなりに深く純粋な人間性の基礎が潜んでいるのだ。
逆にいえば、知性とは、つねに「この世のもっとも弱いもの」として「なぜだろう」と問い続けることにほかならない。それは、おまえらの、知識の収集だけが能で何かがわかっているつもりの半端の知性のことではもちろんない。
人間は「この世のもっとも弱いもの」として生きようとする。
人間にそういうことを思い知らせる対象として、放射能の存在意義がないわけでもない。
放射能と真剣勝負をしながらつねにぎりぎりの状態で懸命に生きてゆくのか、それとも安全安心のところに身を置いて心も体も退化してゆくのか。
原発反対を叫ぶのもけっこうだが、あなたたちの精神や知能や感受性がわれわれより進化しているかどうかはわからない。
生き物は、ぎりぎりの状態に身を置いたところで進化する。進化しないと生きられないから進化するのだ。安全安心を確保しているなら、進化する必要はない。そのままでいい。
安全安心を確保しながら生きている人間は進化しない。そんな人間が、あなたのまわりにもたくさんいるだろう。
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誰だって、それなりのものを支払って進化しているのだ。
たとえば、酒場とかのフーゾク世界は、恥をかくところである。その体験が、遊び人を進化させる。いつも泥酔して次の日には忘れてしまっているということばかりしていたら、一流の遊び人にはなれない。そのとき「忘れる」ということは、単なる生理的な現象だけともいえない。忘れたくて忘れてしまっている場合も多い。
いつも安全安心のところに身を置こうとする傾向が強い男は、都合の悪いことはすぐ忘れてしまうという習性を持っている。べつにそのときは「へべれけ」になっているわけでもないのに、次の日になるとすっかり忘れてしまっている。そういう男は、しかし酒場ではもてない。どんなに遊んでも、半端な遊び人でしかない。どんなに女を口説くことにまめでも、そういう男は、根本的に人間としての愛が薄い。ふだんの社会生活の中でもそういう人間がときどきいて、そういう人間は概して愛が薄い。自分を守ることばかりに熱心で、他人に対する関心が薄い。
恥をかいたことを忘れないで噛みしめた男が、一流の遊び人になれる。その恥が、遊び人を進化させる。彼は、「この世のもっとも弱いもの」としてぎりぎりの状況を生きている。
まあ、そんなようなことだ。原発という恥(=ぎりぎりの状況)を抱えて、その恥を忘れないのなら、それは悪い社会ともいえない。その恥が人間を進化させるし、人間的な生きてあることのカタルシスはそこにこそある。
ただし、原発を抱えているくせに、原発は安全だといって恥を忘れていることが、半端な遊び人と一緒でいちばんたちが悪い。
原発なんか、危険に決まっている。だからこそ値打ちがあるのだ。
ぎりぎりのところでこそ、生きてあることのカタルシスが生まれてくるのだ。だから人は、死と背中合わせの冒険にあこがれる。人間は、そういう状況に身を置こうとする習性を持っている。そういう状況こそが人間を生かしているともいえる。
人間にとって「神」とは、そういう状況を与えてくれる対象だともいえる。
冒険者ほど、神を身近に感じている。それは、死を身近に感じていることと同義なのだ。
そういう意味で、放射能は現代の神であるともいえる。人間は、そうかんたんに原発を手放さないだろう。そうやって「この世のもっとも弱いもの」としてぎりぎりの状態に身を置いて進化してゆくのが人間の業であるし、それを否定したら人間ではなくなってしまう。
原発は、相対的に人間を「この世のもっとも弱いもの」にする。そこに立ってこそ、進化と生きてあることのカタルシスがある。
ネアンデルタールが氷河期の北ヨーロッパで生きていたことも、まあ、原発を抱えて生きていることとある意味で同じで、生き物は不可避的に「この世のもっとも弱いもの」としてぎりぎりの場に立ってしまう。そうして彼らは、たくさんの仲間の死を体験しながら「埋葬」という行為を覚えていった。
生き物の世界に、このままでいい、などということは通用しない。進化してゆくことは、生き物の根源のかたちであり、生き物の業である。われわれは、つねにぎりぎりの場に立って進化してゆくしかないのだ。
都合の悪いことは忘れて「このままでいい」などということは通用しない。人間はもう、放射能を知ってしまったのだ。
同様に、「集団的置換説」にしがみついて、「このままでいい」というわけにはいかない。人間は真実を知ろうとする。あなたたちの錯誤は、いつかかならず白日のもとにさらされる。
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