この一文を、先日亡くなられたh119228さまにささげます。
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人間が「神」という概念を発見したのも、神の助けなしに生きていられない存在だったからだろう。誰もが助け合って生きているのだから、誰に助けられているかということはわからない。ただ「助けられている」という感慨だけがあった。そしたらもう、「神に助けられている」と思うしかなかった。
人間は、環境に対してぎりぎりの状態で生きている弱い存在だったから、「神」を発見した。
5万年前の原始時代に、べつの環境の土地に移住して生きてゆける人類など、どこにもいなかった。
アフリカのホモ・サピエンスの優秀な知能は世界中のどんな土地にも住み着いてゆくことができた、などとほざいている集団的置換説の学者たちのその薄っぺらな脳みそにはほんとにうんざりさせられる。現代文明の助けなしには、人間はそんなことができる存在ではないのだ。だから「神」を発見した。
だから文明が発達した現代社会では、神のありがたみが薄れた。
集団的置換説だなんて、おまえら、ほんとにアホだなあ。そんなのうてんきなおとぎ話をいじくりまわして、よく平気な顔をしていられるものだ。おまえらのその低脳ぶりは、100年後200年後の人々が証明してくれるだろう。
いやここで議論したって、大歓迎だけどさ。
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何はともあれ人間は、助けられて生きている存在なのだ。
よくいう「自立の思想」なんてくだらない。おまえらのそのうすぎたない自己愛と自己満足を他人に押し付けるな。子供とか病人とか障害者とか、自分ひとりでは生きられない存在こそ尊いのだ。彼らは、死を親密なものとして生きている。その心模様こそ尊いのだ。人間がそんな心模様で存在できることこそ、人間の希望なのだ。
そしてそれこそがネアンデルタールの希望だったのだ。彼らは、そういうことを、われわれよりはるかによく心得ていた。そういう心模様から、埋葬という行為が生まれてきたのだ。
おまえらの小賢しい大人の知恵とか知能などというものが人間の希望になるなんて、われわれはぜんぜん思わない。自立がどうの大人がどうのとほざくおまえらの、その死にたくないという悪あがきが、そんなに立派か。笑わせてくれる。お前らのそのはた迷惑な悪あがきよりも、まさに今ここで死んでゆく人の、その「自立できない」ということのほうがはるかに尊いのだ。
人間は、誰もが他者を助けようとしているから、誰もがどこかしらに「助けられている」という意識を持っている。そういう共通認識から「神」という概念が生まれてきた。
ネアンデルタールのような大きな集団では、誰を助けているとか誰に助けられているというような関係を特定することができない。もうみんな「おたがいさま」で生きていた。「助けられている」という漠然とした意識は、そういうところから生まれてくる。
やまとことばの「かむ」は、「関係する」というニュアンスの言葉である。その名詞形というか体言形が「かみ」である。この世の森羅万象と関係している何かのことを、この国の古代人は「かみ」と呼んだ。狭い日本列島でひしめき合いながら「おたがいさま」で生きていたから、「かみ」を設定しないと、「助けられている」とか「生かされている」という、このなんとなくの意識の落ち着きが悪かったのだろう。
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生き物の生は、他者を生かす、というかたちの上に成り立っている。だから、「生かされている」という意識を持ってしまうし、生物多様性が成り立つ。生き物は、余裕持って生きられる身体など持っていない。みんながそのようにして生きてあるならもう、神に助けられている、と思うしかない。他者を助ける能力があるのではない。ぎりぎりの状態で生きてあるという、その存在そのものが「他者を生かす」というかたちになっているだけのこと。
つまり、誰もがぎりぎりの状態で生きて他者の「邪魔にならない」ことこそ人間存在ほんらいのかたちであり、おまえらのように人より余分に空気を吸ってその余りを分けてやるというような余裕しゃくしゃくの態度が尊いのではない。こういう俗物どもが、「集団的置換説」などという愚にもつかないへりくつを大合唱しているのだ。文句があるなら、言ってこいよ。この国には、僕に文句を言える人間がひとりもいないのか。情けない。
生き物は根源的にぎりぎりの状態で生きてある存在だから、他者を生かそうとする衝動がどこかに先験的に備わっている。
他者の死とは、他者を生かすことの挫折であり、すなわちそれはそのままみずからの生の挫折でもある。その挫折感として、人は悲しむ。
彼らにとっては、ひたすら死者のことを思い、悲しむことだけが、死者を生かそうとする行為だった。死者は蘇らないということはわかっている。それでも死者を生かそうとせずにいられなかった。その狂おしさが、ネアンデルタールの埋葬という行為になっていった。
言いかえれば、そのとき彼らは、死者は蘇らないという事実に深く驚いた。それが、埋葬をはじめる契機になった。
だからネアンデルタールは、死んでしまった赤ん坊を氷河期の寒空の下に置いたらかわいそうだと思い、暖かい洞窟の土の下に埋めた。
埋葬の起源は、単純にそれだけのことだともいえる。
人類の埋葬の起源は、知能の問題ではない。感情・感慨、すなわち人間的な心の動きの問題なのだ。そういうアプローチのできない頭の薄っぺらな連中が「シンボル思考」がどうのと合唱してやがる。われわれの思考が人間の根源=普遍に迫ろうとするなら、そういう「知能」とか「経済原理」とか「シンボル思考」といった後付けの表層的なファクターは取り除いてからにしないと誤る。
知能が歴史をつくったのではない。歴史という「状況」から知能が育っていったにすぎない。
歴史を考えることは、そこで人がどのように生きていたかという「状況」を考えることであって、知能が「状況」をつくっていたのではない。誰もが「状況」から生かされていたのだ。
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よかったら。

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