この国でも、戦前までは、子供が乳幼児のうちに死んでゆくことは、そう珍しいことでもなかった。
そうして母親たちは、「わが子に先立たれることほど悲しいことはない」と、口をそろえて言う。
埋葬の起源の契機が「悲しみ」にあったとすれば、最初に埋葬されたのは乳幼児だったのかもしれない。
子供の骨は溶けてしまったりして後世まで残りにくい。しかも埋葬されたネアンデルタールの骨が発掘される割合は1000体に1体だといわれている。よほどしっかりした骨でないと残りにくい。
それでも、発掘される骨の半分は子供のものなのだとか。
つまり、いかにたくさんの子供が死んでいったか、ということだ。大人の何倍もの子供が死んでいった。そうでなければ、そういう発掘結果にはならないはずだ。そして、いかに子供が丁重に埋葬されたか、ということでもある。
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お産に失敗して子供と一緒に死んでしまった母親もいただろう。そういう事故は江戸時代になってもいくらでも起きていたのだから、ネアンデルタールの社会ではなおさら頻繁に起こったに違いない。
そういうときは、当然母親も一緒に埋葬されただろう。
そういう事故でなくても、子供を失った悲しみを引きずって生きている女が死ねば、子供のそばに埋めてやろうとするのが人情だろう。
そのようにして、死後の世界が意識されていったのだろう。死者に対する悲しみが深くなれば、死者の記憶だってなかなか消えなくなる。
彼らには、遺影の写真も仏壇も文字で記録しておくという方法もなかった。そういう方法を持っている現代人は、それでひとまず決着をつけることができるが、それがない時代の方がかえって何かにつけて思い出しみんなで語り合うということをしていたのではないだろうか。そういう記憶力は、昔の人の方が豊かだった。われわれは、いろんな方法で「記録する」ということを覚えたために、そういう豊かな情感を失ってしまったのではないだろうか。
彼らは、消えない悲しみの記憶をなだめるために、大人も埋葬するようになっていった。それはあくまで「死者を悼む」という心の表現だったのであって、まだ死後の世界を信じていたわけではない。
記録するすべを持たなかった原始人の記憶力は、われわれより豊かだった。
現代人は、脳に「記録する」というかたちの記憶力はたしかに進化しているが、「思い出す」というかたちの記憶力は退化してしまっている。思い出さなくても記録してあるのだから。そして思い出せなくなったから、「記録する」という文明がどんどん進化した。
死者をせつなく思い出す、というような心の動きは、われわれより原始人の方がずっと豊かにそなえていたのだ。
原始人の文化や文明が進化したのはホモ・サピエンスの「未来を見通す計画能力」によるのだといっている人類学者は多いが、少なくとも埋葬という人類史のメルクマールはそういうところから生まれてきたのではない。死者の記憶が消えなかったからだ。
原始人を生かしていたのは「未来を見通す計画能力」ではないし、そういう能力によって原始時代の文化や文明が進化していったのではない。それはもう、クロマニヨンの時代だってそうなのだ。
原始人を生かし、原始人の文化や文明を進化させたのは、嘆きの情感であり豊かな記憶力だったのだ。クロマニヨンの洞窟壁画は、最終氷河期の激烈な寒さの中で絶滅の危機を生きる嘆きの情感と、たとえば頭の中にバイソンが走っている姿をありありと思い浮かべることのできる記憶力から生まれてきたのであって、「シンボル思考」がどうのという話ではない。
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ともあれ、洞窟にばかり埋葬していたら、たちまちスペースがなくなってしまう。ネアンデルタール時代の後期からクロマニヨン時代にかけては、洞窟のほかに決められた墓地を持つようになっていった。
ひとつの洞窟の下の地層からネアンデルタールの骨が出てきて上の地層からクロマニヨンの骨が出てくるということも珍しくない。置換説の研究者はこれを、クロマニヨンが追い出したからだといっているのだが、これこそネアンデルタールがクロマニヨンの骨格に変わっていったことの証拠だと考えてどうしていけないのか。
個人プレイで小動物の狩をしていたアフリカのホモ・サピエンスと集団でマンモスなどの大型草食獣の狩をしていたヨーロッパのネアンデルタールが戦ったら、圧倒的にネアンデルタールの方が強かったのだ。組織力においても、ファイティングスピリットにおいても、体の頑丈さにおいても、すべてネアンデルタールの方が勝っていた。ホモ・サピエンスが勝っていたのは、逃げ足の速さだけなのだ。
アフリカのホモ・サピエンスネアンデルタールを追い出したなどということがあるものか。
ネアンデルタールからクロマニヨンへの連続性は、埋葬の仕方にもちゃんとあらわれている。
ネアンデルタールの段階からすでに洞窟の埋葬と外に墓地を設けることははじまっていたのであり、このことは、人類学フリークならアマチュアだってみんな知っているはずだ。
それなのにどうして墓地をつくることがクロマニヨンの専売特許のようにいいたがるのか。どうしても両者のあいだに連続性がないことにしたいからだろう。
そんなことを言っても、両者の連続性の証拠は、これからいくらでも出てくるに違いない。言葉の本格化も洞窟壁画も楽器をつくることも首飾りなどの装飾品をつくることも、これまではクロマニヨンの時代からはじまったように言われていたが、いまや、すべてネアンデルタールの時代からはじまっているというのが常識になりつつある。
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洞窟の土の下がいっぱいになればもう、「外は寒いじゃないの」という女の感情的なわがままも通用しなくなる。
墓地として別の場所を設ける必要はどうしても出てくる。それが、ネアンデルタールの時代だった。
何はともあれ人類は、死者を土の下に埋葬するということを覚えた。土の下に埋める、ということが大事で、やがて、それなら何も洞窟の中でなくともよい、という流れになってくる。これは、「記録する」ということの起源かもしれない。そうやって死者は記録されたのだ。
現代人は、墓参りに行くことによって死者を思い出す。これは、「思い出す」という心の動きが退化しているからで、四十九日だの一周忌だの盆だの彼岸だのと、どうしてもそうした儀式が必要になる。
しかし原始人は、土の下に埋めた、という記憶だけで、何かにつけて思い出す契機になった。つまり、埋葬するという行為の意味は、原始時代の方がはるかに重かった。
現代のヨーロッパ人がなぜ死体をそのまま土葬にするという非効率的な行為にこだわるかといえば、ネアンデルタールの時代の埋葬することの重みをいまだに引きずっているからだろう。それが、原始的な未熟な知能で「ただなんとなく」やっていただけのことなら、どんどん効率的なかたちに変わってきたことだろう。でも、ネアンデルタールの子孫である彼らは、どうしてもそれがでない。世界でいちばん合理的な思考ができる人種のはずなのに。
ヨーロッパ人は、保守的で伝統にこだわる。中世そのままの町の景観や生活習慣をいくらでも残している。それは彼らにとって歴史とはそれほど重いもので、ネアンデルタールの時代だって、ただ発展途上の歴史の通過点ではなく、現代人と同じ知能の人々が現代人以上の重さと切実さで歴史の痕跡を刻んでいたからだ。その埋葬という行為が今よりもはるかに切実で重いものだったからこそ、その記憶を引きずっていまだに土葬の習慣が捨てられないのだ。
それはもう、人類がはじめてヨーロッパに住み着いて以来の百万年の記憶であるともいえるし、少なくとも現代人と同じレベルの知能に達したネアンデルタール以来の二十万年の歴史の記憶は、そうかんたんに消せないのだ。
三つ子の魂百までとか、どんな作家も処女作を超えることはできないとか、いうではないか。まあ、そんなようなことだ。
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三万年前にアフリカからやってきたアフリカ人がヨーロッパの歴史をつくったなんて、そうかんたんに言ってもらっては困るのだ。
三万年前にヨーロッパにやってきたアフリカ人などひとりもいない。このことは、何度でも言う。この点において、世界中の人類学者はみんな間違っていると僕は思っている。
ネアンデルタールがクロマニヨンに変わっただけだという「多地域進化説」の学者だって、「少しはヨーロッパにやってきた」などと中途半端なことを言っているから、「集団的置換説」の連中をつけ上がらせるのだ。そのへんで、「少しは」から置換説の「移住してきたアフリカ人の方が10倍くらい多かった」という説までのグラデーションで議論しているから、いつまでたってもやつらがのさばるのだ。
繰り返し言う。
ひとりもいない、のだ。
文句があるなら、だれでもいいから言ってこいよ。おまえらのアホさ加減が、そのままでいいはずはない。とくに、世界でいちばん有名な置換説論者のひとりである「クリストファー・ストリンガー」というアホに抗議してきてもらいたいものだと思っている。べつに抗議してくるはずがないからそう言っているのではない。何はともあれ置換説をかんたんに信じてしまうことの、思考の幼稚さとか想像力の貧困とか制度性といったものがあるわけで、その愚劣さに対する批判は、世界でいちばん有名な彼が引き受けるのは当然だと思えるからだ。
しかし僕は、ストリンガーを研究している暇などない。研究すればいくらでもやつのアホさ加減をえぐり出しみせるという自信はないわけでもないけど、とりあえず今はあくまでネアンデルタールについて考えたいのだ。
べつにこの国のネアンデルタール学の権威である赤澤威先生でもその他もろもろの置換説の研究者でもいいのだけれど、僕よりもネアンデルタールについて深く遠くまで考えているという自信があるのなら、どうか言ってきていただきたい。
何度でも言う。三万年前にヨーロッパに移住していったアフリカ人など「ひとりもいない」のだ。そこにおいて、僕はあなたたちと議論がしたいと、せつに願っている。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
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