「かなしみ」という言葉をひとまず置いてみる。
今日は、ここから書きはじめようと思う。
人間を生かしている根源的な心の動きとは何か、ということがいつも気になっている。
それは食欲・性欲・睡眠欲である、とか、そんなふうにあっさりと片付けられたら困るのだ。
人間は、生きようとする欲望で生きているのではない。そんな衝動が根源にあるのなら自殺する人間なんかいない。そんな衝動を前提にして自殺者を裁くべきではない。この世に自殺者が存在するということは、人間はそんな衝動で生きているわけではない、ということを意味する。
人間は、いざとなったら自殺してしまえる生き物なのだ。そういう自然を抱えている存在なのだ。
生きようとする衝動など持っていないことが、人間の自然なのだ。
それでも生きているのは、生きようとする衝動を持っているからではなく、気がついたらすでに生きてしまっている存在だからだ。
生きてあるから意識がはたらく。意識は、生きてあることの上に発生する。したがって、生きようとする衝動は論理的に成り立たない。意識は、生きてあることに気づく装置であって、生きようとする装置ではない。
いったい何がわれわれを生かしているのだろう。
われわれは、生きてあることに気づきながら生きている。
しかし、生きてあることに気づくことは、身体の存在に気づくことではない。なぜならわれわれは、身体のことを忘れているときに、もっとも確かな生きた心地を体験する。身体のことなど忘れて世界や他者にときめいているときこそ、豊かな生きた心地が体験されている。
生きてあることに気づくことは、世界や他者に気づくこと。身体に気づくことではない。
「生きている」と自覚しなくても、世界や他者に気づくというかたちで、すでに生きている。そしてそのあとにやっと、生きてあること(=身体)に気づく。
われわれにとって身体は、熱いとか寒いとか痛いとか苦しいとか、生きてあることの緊急事態として知らされるにすぎない。それは、生きてあることの「結果」にすぎない。われわれはそれを苦痛として体験する。それを癒そうとするのは、生きようとするからではなく、ただ単に苦痛がいやだからだ。そういう「拒否反応」によって生きているのであって、生きようとしているのではない。
恐怖や身体の苦痛がやってきたとき、われわれはこう言う。「生きた心地がしなかった」、と。
生きた心地は、あくまで身体の存在を忘れているときにある。
この生は、「すでに生きている」というところからはじまる。
われわれを生かしているのは、「拒否反応」であって、生きようとする衝動によるのではない。もしも苦痛とともに身体に気づくことが生きてあることの証しであるのなら、この生は、生きてあることに対する拒否反応の上に成り立っていることになる。そういう逆説の上にこの生が成り立っているのだ。
生きてあることは、苦痛であり、かなしいことだ。そういう心の動きが、われわれを生かしている。
この生の仕組みは、ややこしい。かんたんに「生きようとする本能」などと言ってもらっては困るのだ。
生きようとするスケベ根性の強い現代人ほど、身体の苦痛に敏感である。
原始人は、そういう苦痛をあまりおおげさに感じなかった。では、彼らには「生きてある」という実感は希薄だったか。そうではない。彼らは身体のことを忘れてしまう心の動きを豊かにそなえていたのであり、そこから「生きた心地」を汲み上げていたからだ。彼らは、身体に対する「拒否反応」とともに、世界や他者に深くときめいて暮らしていた。
現代人は、身体(=自己)にばかり意識が集まって、世界や他者に対する反応が希薄だから、必要以上に身体(=自己)に敏感になってしまっている。
身体(=自己)にこだわっても、生きた心地は得られない。それでもそれにこだわってゆくのが、現代社会を生きる作法になっている。現代人は、多かれ少なかれ、そういう流儀で生きている。
冷暖房は整っているし、歩かなくてもバスや電車で移動できる。そんな文明の中で生きていれば、いやでも身体(=自己)に敏感になってしまう。この仕組みをいちいち挙げていけばきりがないことだろう。
原始人が身体の苦痛をあまり感じなかったのは、鈍感だったからではなく、身体の苦痛を感じることに対する拒否反応が強かったからだ。それを持たなければ、ろくな文明を持たない彼らが氷河期の北ヨーロッパで暮らしてゆくということはできない。
現代人でも、男と女とどちらが身体の苦痛に耐えられるかといえば、女の方だろう。それは、女が、男よりもはるかに身体の苦痛とともに生まれ育ってきた歴史を持っているからだ。鈍感だからではない。むしろ女の方が敏感なはずだが、それでも女の方が絶えることができる。それは、自分の身体のことを忘れてしまう心の動きをラディカルにそなえているからだ。そうして女は、世界や他者に熱くときめいてゆく。
生きようとなんかしたら生きていけない……女をはじめとして現代でもそういう状況を生きているものたちはたくさんいるが、ろくな文明を持たなかった原始人は、なおラディカルにそういう状況を生きていたのだ。
生きた心地は、生きてあること(=身体)を感じることに対する拒否反応の上に成り立っている。
人は、生きてあることに対する拒否反応を持っている。だからこそ、「生きた心地」を体験できる。
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生きてあることがつらくかなしいことであるから、世界や他者にときめいて生きた心地が体験される。
「かなしみ」は、よろこびと苦痛の中間のところから湧いてくる微妙な心の動きである。それは、生きてあることに対する「ひそやかな拒否反応」ということだろうか。
それは、われわれが生きてあることの通奏低音のようなもので、ふだんはあからさまに意識することはない。しかしその感情は、「泣く」というかたちでいっきょに噴出することがある。
「泣く」ことは、人間だけの行為だろうか。それは、人間が最初に発する「言語」である。生まれたばかりの赤ん坊は、新しく出現したこの世界に驚き震えているみずからの身体に対する「拒否反応」とともに、泣き声を上げる。それは、意識を身体から引き剥がして、この世界と和解していこうとする行為である。そのとき赤ん坊は、意識が身体に貼りつくことの居心地の悪さをはじめて体験している。
胎内世界のように、身体と世界の調和が保たれているのなら、身体も世界も、とりたてて意識することはない。そうして、この世界に出てきて、身体と世界の関係の異変に気づく。それは、世界に驚いているのではない。身体の異変に驚いているのだ。そのあと母親のおっぱいにしゃぶりついているとき、世界の存在を確認しながら、みずからの身体に対する意識が消えてゆくのを感じている。
生き物は、世界と和解しても、みずからの身体とはけっして和解しない存在である。和解したら、この生は成り立たない。
生き物は、身体に対する拒否反応として声を上げる。それは、声とともに身体に貼りついた意識を引き剥がす行為だ。
捨て猫が寒さや空腹で鳴いているのは、鳴けばその苦痛が和らぐからだろう。ライオンが威嚇のために吠える声は、怒りで震える身体の異変から出てくるのだろう。
生き物は、身体に異変が起きると、声を出す。そうやって、身体に貼りついた意識を引き剥がそうとする衝動を持っている。現代人は、そういう衝動が希薄だから、必要以上に痛がるし、寒がるし、死ぬことを怖がる。
原始人は、身体のことを忘れ、世界や他者にときめいて暮らしていた。つまり氷河期の北ヨーロッパに住み着いていたネアンデルタールは、その当時の世界中のどの地域の人々よりも、そして人類史上もっとも切実かつラディカルにそうした暮らしをいとなんでいたのだ。
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身体(=生きてあること)に対する拒否反応が人間を生かしている。そうしてその拒否反応こそが、この生の通奏低音としての「かなしみ」にほかならない。
「かなしみ」は、微妙な感情である。人間以外は、この感情をうまく表現できない。
人間はこの「身体に対する拒否反応=かなしみ」を意識化(自覚)している。だから、「泣く」という表現を持っているのだろう。
人間の赤ん坊が生まれてくるとき、脳は猿や犬よりも発達しているが、身体ははるかに虚弱である。この落差の大きさが、身体の異変に気付かせる。
すでに最低限の身体能力を持って生まれてくる猿や犬には、生まれおちたときの恐怖はない。身体的には無力で、しかも発達した脳を持って生まれてくる人間の赤ん坊だけが、この恐怖を体験する。生まれおちた人間の赤ん坊は、世界と関係してゆく身体能力を持っていない。にもかかわらず、そのことに気づくだけの発達した脳を持っている。これ以後人間は、身体の無力性におびえるというトラウマを抱えて生きていかなければならない。これがたぶん、この生の通奏低音としての「かなしみ」のかたちなのではないだろうか。
身体に対する拒否反応はどんな生き物でも持っているこの生の根源的なシステムであるが、人間だけがこれを意識化している。これが、「かなしみ」である。
人間は、「身体=自己」の無力性を嘆いて泣く。
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ネアンデルタールのように、原始人の身で氷河期の北ヨーロッパに置かれていれば、誰だってみずからの「身体=自己」の無力性を意識するほかないだろう。
力があるとかないとかそんなこととは関係なく、その激烈な寒さの前では、誰もが無力だった。寒さに対する耐久力なら、むしろ女の方があったのかもしれない。
男たちは勇敢な狩りをして女子供のもとに運んでいたが、精神的には、女がリードする社会であったに違いない。寒さに対しては、女の方が弱音を吐かなかった。死ぬことも、女の方が恐れなかった。
女の方が、その激烈な寒さに立ち向かっていた。それが。男たちを励ました。過酷な環境では、女が弱音を吐いていたら、集団は成り立たなかった。
男は、弱音を吐く生き物である。そのとき女も一緒になってそんなことをしていたら。集団の活力は生まれてこない。
女の方が、弱い生き物であることのかなしみは深い。だからこそ、身体のことを忘れて世界や他者に熱くときめいてゆく心の動きもそなえている。女の方が、身体に対する拒否反応をラディカルにそなえている。
ネアンデルタール=クロマニヨンの集団は、そういう女の激情が支えていた。
弱い生き物であることのかなしみ、これが、人間性の基礎である。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、猿よりももっと弱い猿になった。直立二足歩行は、不安定で危険で、基本的にはそういう姿勢なのだ。
その弱い猿であることの悲しみが、世界や他者に熱くときめいてゆく心の動きを生み、それによって人類の進化がもたらされた。原初以来人類は、弱い猿として歴史を歩んできたから、進化していったのだ。
何はともあれ7〜1万年前の氷河期においては、地球上でネアンデルタール=クロマニヨンが、もっとも深く弱い生き物であることのかなしみに浸されていた。そしてだからこそ、もっとも熱く世界や他者にときめいてゆく人々だった。そこには、そういういわば命のはたらきのダイナミズムがあった。ネアンデルタール=クロマニヨンの文化は、そこから生まれてきたのであって、凡庸な人類学者たちがとくとくと解説する「知能」がどうのというようなことが契機になったのではない。
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人類を進化させたのは、弱い生き物として生きてあることのかなしみであり、それは、生きてあることに対する拒否反応なのだ。
かなしみとは、拒否反応である。その拒否反応が、人間を生かしている。
かなしみこそが人間を生かしている心の動きであるからこそ、人間はどんな住みにくいところにもけんめいに住み着いていった。
そして人類最初の集団性や芸術文化の本格化がそこで起きてきたのは、生きてあることのかなしみの上に成り立った社会だったからだ。彼らは、絶滅の危機にあえぎながら、あくまでも弱い生き物として生きた。人類の進化は、そこからしか生まれてこない。
生き物は、単純に「生きようとする本能」で生きているのではない。
生きてあることに対する「かなしみ=拒否反応」がわれわれを生かしている。
生物学的にいえば「拒否反応」、人間的にいえば「かなしみ」……この生はそういうところに成り立っているからこそ生きにくく、ときには死にたくなったりもするのだが、この世界や他者に対する熱いときめき(感動)もまた、そこでこそ豊かに体験されている。
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