命をなだめる・「漂泊論」84

     1・人間は、「キャンプ」をする生き物である
サッカースタジアムとかコンサートとか、街の雑踏とか市場(バザール)とかお祭りとか、例を上げたらきりがないが、人間は、どこからともなく人が集まってきてひとつの集団になる、という生態を持っている。
これを、英語で「キャンプ」という。
人間は、「キャンプ」をする生き物である。
軍隊の基地のことや、スポーツ選手が練習のために集まってくることや、国際会議のことも、「キャンプ」といったりする。
まあ、近所の奥さんが集まって井戸端会議をするのも、ひとつの「キャンプ」であろう。
そのとき人々は、日常の衣食住のことを忘れて(あるいは捨てて)集まってきている。
そして一か所に集まってくるのは、同じテーマを共有しているからだ。
サッカー観戦とか、買い物とか、練習や演習とか、会議とかおしゃべりとか、五穀豊穣とか。
人間が根源において共有しているテーマとはなんだろう。
つまり、この生の主題。
そのとき衣食住のことを忘れて集まってきているのだから、衣食住のことではない。
誰もが衣食住のことにわずらわされて生きているとしても、人間は、衣食住=身体のことを忘れようとする生き物なのだ。
衣食住=身体のことを忘れてしまうたのしみがなければ、われわれは生きられない。その楽しみでわれわれは遊んだりセックスをしたり学問や芸術に夢中になったりしている。
それぞれの個人がみずからの身体において衣食住の問題を抱えて生きているとしても、みんなで共有しているのはそういう問題ではない。
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      2・命を見つめる
もっとも原初的なキャンプのかたちを考えるなら、ネアンデルタール人が洞窟の中で焚き火を囲みながら語り合っていた光景が浮かぶ。
原初の人類は、どこからともなく人が集まってくるということを繰り返しながら北へ北へと拡散してゆき、とうとう氷河期の極北の地に住み着いていった。それがネアンデルタール人である。
彼らは、当時の人類の中で、「同じテーマで集まる」という「キャンプ」の生態をもっとも色濃く持っている人たちだった。
そのとき彼らがたき火を囲んで何を語り合っていたか。
凡庸な歴史家なら、「明日の狩について相談していた」というようなことを考えるのだろう。
男たちだけなら、まあそんなことかもしれない。しかしそんな話はすぐすむのだから、それだけではあるまい。
極北の地の冬の夜は長い。
それ以外のことを語り合っているときの方が長いのかもしれないし、まあ話が盛り上がるのなら、女のことだったりするのかもしれない。
そうして、女子供が混じっている場なら、さらに話題は違うものになるだろう。
この場合、何が話題かということは、あまり重要ではない。とりとめもない話がほとんどだったのかもしれない。
そこでみんなが共有していたのは、話題ではなく、みんなが集まっているというそのことに対する感慨であり、あえて具体的なものをいうなら、みんなの中央にある焚火の炎を共有していた。
センチメンタルないい方になるが、そこで彼らは、その炎の向こうに、自分たちがいまここに生きてあるという命のことを見つめていた。
命を見つめる、ということを共有していたのだ。おそらくこれが、人間のキャンプが共有している根源的なもののかたちではないだろうか。
ネアンデルタールによってはじめられたその熾(おき)火を前にして命を見つめるという習性は、キャンプファイヤーとか暖炉とか囲炉裏というかたちで、現在にも引き継がれている。
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     3・生きられない命を生きている
人間は、「命」というものを自覚している。ほかの動物は、こんなことはほとんど意識していないだろう。
人間が意識している第一義的なものは、衣食住のことではなく、じつはこのことではないだろうか。この、「命」というものを第一義的に自覚しているところに、人間の人間たるゆえんがあるのではないだろうか。
人間がなぜ命を意識するのかといえば、生きられない命を生きているからだろう。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、そういうことだった。それは、とても不安定な姿勢で俊敏に動くこともままならず、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらして、仲間と順位争いをすることも敵と戦うこともできない姿勢だった。そうやって自然界で生きてゆくための能力を喪失(放棄)したのだが、そのときの彼らにとってのいちばん大きな問題はその密集し過ぎた群れで他者の身体と折り合いをつけてやっていくことにあったわけで、自然に避けがたくその姿勢になっていった。そうやっていったん猿よりももっと弱い猿になったのだが、それでみんなとうまくやってゆけるのならそれでよかった。
人間の二本の足で立っている姿勢は、他者の身体と折り合いをつけながら仲間のみんなとうまくやってゆくための姿勢であって、第一義的には、「手を使うため」とか「敵と戦うため」とか、そういう「衣食住」のための姿勢ではない。
まあ、何かの目的意識で立ち上がったのではない。気がついたら立ち上がっていたのだ。
あえてきっかけをいうなら、群れが密集し過ぎて他者の身体とおしくらまんじゅうの状態になってしまっている、そういう「生きられない状況」にせかされて立ち上がったのだ。
人間は、生きられない命を生きている存在だから「命」というものを意識する。
べつに知能が高いからとか、そういうことではない。
というわけで、原初の人類が直立二足歩行をはじめたいきさつを考えるなら、人間は、生きられない命を生きようとする習性を持っている、といえるのではないだろうか。
そうやって、地球の隅々まで拡散していった。
人類が北へ北へと拡散していったとき、生きられない命を生きようとする衝動がはたらいた。そうやって氷河期の極北の地にたどりついたネアンデルタールは、もっとも生きられない命を生きようとする人々だった。
たいした文化も文明も持たない原始人が氷河期の極北の地に住み着いていったのだもの、生きられない命を生きようとする衝動がなければそんなことができるはずがない。
だから彼らの寿命は、ほとんどが30代で尽きていた。
また乳幼児の死亡率は、50パーセントをはるかに超えていた。たぶん、三人に一人くらいしか成人できなかった。
彼らは、人類史上もっとも生きられない命を生きた人々だった。
そういう状況に置かれていたら、大人も子供も、どうしたって「命」というものを意識するだろう。
その、生きてあることのいたたまれなさ。どうして生まれてきてしまったのか、という絶望。誰もが、そういう思いを抱え、そういう思いをなだめながら生きていた。
まあ人間は、直立二足歩行の開始以来、多かれ少なかれ誰もがそういう思いを抱えて生きている存在になったのであり、そういう思いをなだめようとしてどこからともなく人が集まってくる生態がつくられていった。
そういう思いが極まったところに、ネアンデルタールという集団があったのだ。
おまえら、かんたんに「ネアンデルタールは滅んだ」などというなよ。彼らこそ、現在の人間存在の基礎をつくった人々だったのだぞ。
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     4・誰だって「命をなだめる」というテーマを抱えている
その人間存在の基礎とは「命を見つめる」という心の動きである。
人間に与えられたその心の動きのために、鬱病になったり、がんを宣告されて半狂乱になったり、歳をとって認知症になったりする人がいる。
いずれにしても人間は、「命を見つめる」存在なのだ。
現代人はちゃんと生きられる環境を持っているといっても、生まれたときは誰だって自分が生きられない存在であることを骨身にしみて知らされる。現代人だってこの体験を終生引きずって生きている。
何はともあれ、誰もが、いずれ必ず死ぬ。
生きられない命だから、見つめずにいられないのだ。
そしてその命が、他者との関係の上に成り立っているところに、人間であることのややこしさがある。
他者と向き合っていないと命がはたらかない。われわれは、他者と向き合っているところから生きはじめる。
二本の足で立つという不安定な姿勢は、他者と向き合っていることによって、はじめて安定する。
根源的には、そういう契機で人が集まってくる。
しかし「命を見つめる」といっても、べつに命のすばらしさを賛美するということではない。
もともと「生きられない」不具の命なのだ。そのいたたまれない命をどうなだめるかということこそ、人間が生きてあることのテーマにほかならない。
われわれの命は、他者の存在によってなだめられる。人間は、そういう存在の仕方をしている。
べつに、他者の命をなだめてやるために集まってくるのではない。
われわれは、自分で自分の命をなだめることはできない。それはまあ、他者の命をなだめることもできない、ということだ。
ただもうこの命は、他者の存在によってなだめられるということ。
この命は不具の命だ。必ず死ぬということだけでなく、苦しいとか痛いとか鬱陶しいとか、つねにぎくしゃくしてしんどい事態に陥りながらはたらいている。この命は、そういう「受苦性」の上に成り立っている。
身体に気づくとは、身体の苦痛に気づく、ということだ。
だから人間は、身体を忘れたがっている。
身体を忘れるとは、意識がこの世界や他者に向いている状態である。そうやってこの世界や他者にときめいてゆくことによって、身体を忘れ、この命がなだめられる。
人間は、どうしても命をなだめないと生きられない事情を抱えて存在している。
命をなだめるとは、身体を忘れることであり、身体を忘れるためには、意識は世界や他者に向いていなければならない。
そうやってネアンデルタール人たちは、生きられない氷河期の冬の夜に、みんなして焚火の炎を見つめ、命をなだめ合っていた。それこそが人間にとっての第一義的な問題であり、どこからともなく人が集まってくるとき、根源的には、誰もがその「いまここに生きてあることのいたたまれなさをどうなだめて生きてゆくか」というテーマを持ち寄ってきているのだ。
そのへんの凡庸な人類学者の語る衣食住の欲望や目的追求の論理では、人間の行動原理の説明はつかない。
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