祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」42・消えてゆく

「かわいい」と「美しい」はちょっとちがう。
「かわいい」は、ときめいている心の動きをあらわすことばで、「美しい」は、対象を概念的・分析的に表現している。
だから小林秀雄は「花の美しさというようなものはない、美しい花がある」といわねばならなかったわけで、それはもう「美しい」という概念を否定している言い方だともいえる。
「美しいものなどないが、人間の心はときめくようにできている」といいたかったのかもしれない。
まず「かわいい」というときめきがあり、その体験の蓄積の上に「美しい」という概念がつくられていった。
日本列島の美意識の根源には、「かわいい」とときめいてゆく体験がある。
「かわいい」というときめきは、美以前の体験だから、美の基準などない。気味悪いものでも「きもかわいい」とときめいてゆくことがあるし、にせものくささがかわいかったりする。
この世界やこの生からの「逸脱」の気配を、「かわいい」という。ある意味でそれは、この社会が合意している美の基準から逸脱してゆく体験であり、社会の美の基準が生まれる以前の根源的な体験でもある。
そのようにして二十年前のバブルのころに「やまんばギャル」が登場してきたのであり、彼女らは彼女らなりに、仲間のそうした「きもかわいい」姿にときめいていた。
それは、当時の社会的な価値観や美の基準からの逸脱・反逆であると同時に、根源的な「かわいい」というときめきの表現でもあった。
「きもかわいい」といえば、縄文人のあの奇妙なかたちをした土偶が想起されるが、彼らもまた、それに「きもかわいい」とときめいていたのだろう、「やまんばギャル」のように。
彼らのその「ときめき」に推参することができなければ、「やまんばギャル」のかなしみも土偶の謎も解けない。
人間は、「自分はここにいてはいけないのではないか」と問いながら生きてあることのいたたまれなさを抱えている存在だから、そういう「逸脱」した「きもかわいい」対象にときめいていったりしてしまうのだ。
古墳時代のはにわだって、いわば土偶の延長上にある表現である。古墳時代ともなれば、リアルなものをつくろうと思えばいくらでもつくることができたのである。それでも彼らの信仰や祈りの心は、そういう「きもかわいい」かたちにときめいていたのであり、それほどに生きてあることのいたたまれなさを抱えて暮らしていた。
生きてあることの閉塞感やいたたまれなさから、「小さきもの」や「きもかわいいもの」にときめいてゆくのは、海に閉じ込められた日本列島で暮らしてきたものたちの伝統的歴史的なな心の動きである。
中世には、出雲阿国を中心とした河原乞食の集団が、歌舞伎という芸能を生み出した。それだってたぶん「きもかわいい」踊りだったのであり、その「逸脱」したさまのあざやかさに民衆がときめいていったのだろう。
それ以前の一遍上人が率いる集団の念仏踊りだって、まあそのようなものだったにちがいない。
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海に閉じ込められた日本列島では、この「いたたまれなさ」を外の広い世界に出てゆくことによって癒すということができない。
その癒しはもう、今ここから逸脱した「かわいいもの」にときめいてゆくことによってしか得られなかった。
大陸の人々は、「オー・グレイト」などといって偉大なものや広い世界によって癒されてゆくが、それに対してこの国では、現在の若者だって、偉大なものや広い世界を捨てて(=断念して)、小さきものや奇妙なかたちをしたものに「かわいい」とときめいてゆこうとしている。
それは、日本列島独特の感性であるらしい。
今ここの裂け目からかわいいものが出現することのときめき、そういう今ここの「裂け目」に気づくタッチが大陸の人々は希薄だから、「かわいい」に憧れても、いまいち「かわいい」を見出してゆくタッチが板に付かない。
ともあれ「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いは誰の中にもある。それが、生きものが生きてあることの根源のかたちである。
生きものは、この生から逸脱してゆく。この生から逸脱してゆくことが癒しであり、この生から逸脱してゆくことによって、生きてあることができる。
だから、生きものの体は動く。それは、今ここのこの生から逸脱してゆく現象である。
生きものを生かしているのは、「生き延びようとする衝動(本能)」などではなく、今ここのこの生から逸脱して「消えてゆこうとする衝動」である。そうやって、生きものの体は動いているのだ。
生き延びようとする衝動がどうとかこうとかとほざいている鈍くさい運動オンチにはわかるまいが、とにかくそうなのだ。
それは、女のオルガスムスに聞いてみるのがいちばんかもしれない。その「消えてゆく」心地が、どれほど深く根源的であるかということは、われわれ男にはわからない。
そのとき彼女らは、「もう死んでもいい」という。そうやって、生き延びようとする制度的な幻想から決別する。
男にはそういう潔さはもてないが、「癒し」とは、とにかく「消えてゆく」タッチなのだ。
「かわいい」というときめきは、「消えてゆく」タッチなのだ。