「漂泊論」・33・進化という漂泊

   1・人間は猫よりも自分のことを知らない
人間ほど自分を忘れて世界や他者に向けてときめいてしまう生き物もいない。
世間的には、「他の動物と違って人間だけが自分を知っている」という人間理解が通り相場なのだろうが、じつは、猿や猫の方がずっとよく自分を知っているのではないだろうか。
世間の人々がなぜそんなことをいうのかといえば、人間は自分のことを知ろうとするほどに自分のことを忘れてしまっている存在である、ともいえる。
自分を忘れることが人間の生きるいとなみなのだ。
人間にとって自分のことを忘れてしまうことは、ひとつのカタルシスであり、快楽である。
そういう体験がなければ、人は生きられない。
人間の赤ん坊は、あんなにも無力な存在として生きて、よく発狂しないものである。彼らを生かしているのは、身体に気づく体験ではなく、身体のことを忘れてしまう体験であり、そこにこそ人間が体験するカタルシス=快楽の根源的なかたちがある。
身体のことを忘れてしまう体験なしに、赤ん坊という仕事などやってられるものじゃない。そしてその体験こそがわれわれのカタルシス=快楽、すなわち「生きた心地」の原型になっている。そういう体験の上に、人間の生きるいとなみが成り立っている。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、猿としての身体能力やメンタリティを失って、猿よりももっと弱い猿になることだった。しかしそれによって、身体のことを忘れてしまうカタルシス=快楽を猿よりもはるかに深く体験した。それが、直立二足歩行である。そのとき人は、身体=足のことなど忘れてしまっている。だから、いつまでも歩いていられるようになり、どこまでも歩いてゆけるようになった。
また意識は、身体のことを忘れているぶんだけ、より深く世界にときめきくことができる。
人間は、歩きながらまわりの景色をたのしんでいる。それは、歩きながら身体=足のことを忘れているからだ。ほかの生き物には、こういう芸当はできない。動物がまわりの気配をうかがおうとするとき、必ずじっと立ったままでいる。
人間が旅をするのも、歩きながら身体のことを忘れてまわりの景色を鑑賞する能力を持っていることによるのだろう。
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   2・自分を知っていることの「けがれ」
自分(の身体)を忘れてゆく作法を持っていることが、人間の生の基礎的なかたちになっている。
つねに自分を忘れることをして生きているから、「自分さがし」をしなければならないような強迫観念が生まれてくる。しかし自分を忘れている生き物であれば、「自分さがし」なんかしても見つかるはずがない。見つからないから、いつまでも「自分さがし」をしている。
そのようにして、意識がつねに自分に向かって外の世界に対する「反応」を失ってゆく。
ラカンの「鏡像段階」という概念だって、ようするに「自分さがし」である。
現代人の生きているかたちそのものが、「自分さがし」なのかもしれない。
「自分さがし」なんかしてもろくなことにならないのは、誰もが知っている。それなのにそんなことをしたがる若者が後を絶たないのは、誰もが「自分さがし」をしている世の中だからだろう。
大人たちは、見つけたつもりでいる。自分をさがして見つける、ということの反復で生きている。そうやって、つねに自分を確認しながら生きている。
そういう大人たちからの圧力を受けながら、若者は、自分が見つからないことが不安になっている。
そうして訳知り顔の大人が、人間はちゃんと自分を知っている存在だから「自分さがし」なんかしなくていいんだよ、などという。自分が生きてあるということ自体が「自分」のかたちなのだよ、君はちゃんと自分を見つけているじゃないか、誰もがかけがえのない存在なんだよ、と。
かっこつけちゃってさ。
しかし人間は、自分が生きてあるということすら忘れてしまう存在であり、自分を知っている(見つけている)ことが病理なのだ。
現代人は、自分を知っている(見つけている)ことの「けがれ」を誰も自覚していない。
戦後の日本人の生活は、豊かになった。
だから、暑いとか寒いとか痛いとか空腹とか、そういうことを身にしみて感じる機会がほとんどなくなってきた。つまり、自分(の身体)に意識が充満することの鬱陶しさを体験しなくなった。そのようにして「けがれ」の自覚を失い、そこから逃れようとする衝動も起きてこなくなったし、身体が消えてゆくことのカタルシスも体験しなくなった。
戦後の日本人は、経済成長と引き換えに身体感覚を失った。だから、身体に執着してゆく。身体感覚とは、身体に意識が充満する鬱陶しさと身体が消えてゆくカタルシスのことだ。
身体論を語れば身体感覚を持っているとはいえないのである。身体を止揚することそれ自体が、身体感覚を失っていることの証明にほかならない。
平和で豊かになれば、身体の満足を求めて、意識が身体ばかりに向いてゆく。それが、身体感覚を失っている状態なのだ。
身体感覚とは、意識が身体から離れようとし、身体から離れてゆく感覚である。
それはつまり、意識が自分から離れようとし、自分から離れてゆく感覚である。
意識が自分や身体にばかり向いていれば、外の世界に対する反応を喪失してゆく。発達障害とは、そういう病なのではないだろうか。
人間は、「けがれの自覚」とともに、「自分=身体」を忘れようとするところから生きはじめる。心は、そこから旅立ってゆく。
現代人は、そういう「生きはじめる場」を見失っている。
生き物の生きてあることのカタルシスは、「自分=身体」を忘れてしまうことにある。したがって、根源的には「自分=身体」が「生きるための戦略」を持っていない。だからこそ人は、生きてあることに対するさまざまな感慨を抱き、文化や文明を生みだしてきたのだ。
生き物や人間の生きてあることや意識のかたちが、「生きるための戦略」などという単純で愚劣な図式で解き明かせるはずがない。
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   3・それは「生きるための戦略」か?
生きていれば、暑い寒いとか体のどこかが痛いとか空腹だとか、体を通してどうしても自然の摂理のようなものは意識させられる。
人間が観念だけの存在でいられたらそりゃあ楽だろうが、そうもいかない。
現代人は「生きるための戦略」で生きようとするが、人間の思うこともすることも、環境世界との兼ね合いで起きているのであって、そうそう思う通りには生きられない。
思う通りに生きるためには、環境世界を思う通りにつくり変えないといけない。
キツツキは、なぜ木の幹に穴をつくってそこを巣穴にするのだろう。それは、生き延びるための戦略か。
べつにそんな面倒くさいことをしなくても、ほかに方法がないわけでもあるまい。ほかの鳥は、そんなことはしない。
キツツキだって、最初から木の幹に穴をつくる鳥だったわけでもあるまい。そういう進化の歴史があるはずで、木の幹に穴をつくろうと思い立ったらすぐそれができるというわけでもない。
けっきょく、木に幹に穴を穿つ鳥になってしまったから、そこを巣穴にするようになっただけだろう。巣穴をつくるためにそういう進化をしてきたわけでもあるまい。一朝一夕であんな見事な巣穴をつくれるわけではない。そこにいたるまでには、きっと何百世代何千世代何万世代の歴史があるのだろう。そのあいだは、木の幹の穴を巣にする鳥ではなかったのである。
そのあいだは、ただたんに木の幹をつつきたがる鳥だっただけだろう。
それはべつに「生きるための戦略」ではなかった。環境世界とみずからの身体との兼ね合いでそういう「なりゆき」があっただけだろう。
まあ人間の場合は、もっとダイナミックに環境世界をつくり変えているわけだが、かならずしも「生きるための戦略」ともいえない。それほどに環境と深くダイナミックに関係を持ってしまう習性がある、ということだろう。ダムや高速道路や原発をつくったり、宇宙ロケットを飛ばしたり素粒子の発見に血道をあげるということなどは、「生きるための戦略」というより、それほどに環境世界の物性に関わっていたいからだ。関わっていれば、身体の物性を忘れていられる。
二本の足で立っている猿である人間は身体の物性に深くわずらわされている存在だから、そのぶん環境世界の物性と深くかかわって身体の物性を忘れようとする。それが、人間的な本能なのだろう。
われわれ人間はもう、自分たちがなぜそんなことばかりしたがるのか、よくわかっていない。人間社会がそのように動いてゆく仕組みになってしまっている。自然破壊はよくないといっても、誰もがその仕組みに踊らされ、そういう「なりゆき」になってしまっている。
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   4・西洋人でさえ反省しはじめているというのに
みんな踊らされているだけじゃないか……この国の若者たちは、そのように見ている。人間のすることなんか何も「生きるための戦略」になっていないし、「生きるための戦略」という言葉そのものがいかがわしい……人類全体がそう思いはじめているのかもしれない。
この国には、「生きるための戦略」や「合理性」を止揚してゆく哲学がない。何はともあれ大人たちに哲学がないのだ。だから、言うことの底が浅いし、振る舞いもさまになっていない。だから、かんたんに若者や子供から底を見透かされてしまう。
西洋には、それを「生きるための戦略」であるとして説得するための歴史的な哲学の蓄積がある。まあ、それが彼らを縛っているともいえるのだが、ひとまず板についているから、そうかんたんに若者から見透かされることもない。
この国の大人たちは、踊らされ方があまりにも無節操でぶざまだ。
みんな時代のなりゆきに踊らされているだけのくせに、たとえば「ポリシーを持って自分で自分の生き方をつくっていかないといけない」などという。作為的な生き方や考え方ばかりして、それが正義のつもりでいる。
だから、「生きるための戦略」などという言葉をじつに安直に使ってしまう。
しかし彼らのその作為性だって、人間を作為的にしてしまう時代の流れに踊らされているだけにすぎない。戦後社会は、どんどんそういう流れになってきてしまった。
「自分の世界をしっかり持っている」というそのこと自体が時代に踊らされている心のかたちなのだ。しかもそれは戦後社会の付け焼刃だから、ちっともさまになっていなくて、若者たちからうんざりした顔で眺められている。
西洋人はさすがにその振る舞いがさまになっているが、それでも彼らは、そのことに反省しはじめている。
そして西洋人でさえ反省しはじめているというのに、この国の大人たちはまったく反省していない。そこが、ぶざまなのだ。
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   5・それでも20歳に20歳の思考力と感受性がある
この国の大人たちのぶざまな姿は、若者たちを生きにくくさせていると同時に、若者たちがこの国の伝統や人間の普遍性を取り戻す契機を与えてくれてもいる。それが「ジャパンクール」の文化として世界に発信され評価されている。
それは、きわめて日本的であるのに、世界から理解され受け入れられている。
この「クール」とは、どういうことだろう。
西洋人にはない感覚だから「クール」というのだろう。つまりそれは、西洋の近代合理主義には当てはまらない感覚で、西洋人自身がその近代合理主義を反省しはじめているから、「クール」と評したくなるのだろう。
西洋かぶれしたこの国の大人たちなんか、西洋人に見下されているだけだ。
この国の若者たちは、「大人になる」という戦略を見失っている。それは、「生きるための戦略」を見失っているのと同義である。
そういう未来に対する戦略を失って、「いまここ」で「かわいい」とときめいてゆく作法として、「ジャパンクール」のファッションやマンガが発信されている。
内田樹先生は、この国のそういう状況を嘆いて、さかんに「未来に対する戦略を持て」とか「大人になれ」とか「師を敬え」とかとプロパガンダしておられる。
しかし世界はまさに、この国のマンガやファッションが内田先生のそうした価値意識を喪失していることに「クール」といっているのだ。
未来のことなんか知ったこっちゃない、とりあえず「いまここ」でときめくことができればいい、という感慨を美意識にまで昇華してゆくという作法は、とりあえずこの国の伝統的なお家芸なのである。
昔の人はそれを「無常」といった。
内田先生は、この国の大学生の学力が低下していることを大いに嘆いておられる。中学生並みの学力しかない、と。
だから引き上げてやらないといけない、そのためには彼らに師を敬う心を持たせてやらないといけない、と。
何いってるんだか。
しかしそれでも、20歳には20歳の思考力と感受性はあるのだ。それは中学生のものとは違う。内田先生をはじめとする大人たちは、そこに気づき反応してやれるだけの能力を持っているか。気づき反応してやることができなければ、彼らの心はますます大人から離れてゆく。
中学生並みの学力しかないからといって、中学生と一緒だと思われたらたまったものじゃない。
とはいえ、いまどきの大人たちに、若者に幻滅されるほかない人格しか持ち合わせていないことを自覚しろといっても無理な話で、けっきょく彼らが死に絶えるまでは事態は改善されないということだろうか。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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