「漂泊論」・34・ギャルファッションの世界性

   1・非合理的な日本文化
「ジャパンクール」として世界に発信されているマンガやファッションの中でも、とりわけ日本的であるのは、どんな傾向の作品だろうか。僕はその辺の事情はまったく知らないのだが、以前のようなたんなる異国趣味として珍しがられているだけではないのだろう。
ファッションの世界では、70年代ころからすでに多くの日本人デザイナーがパリやニューヨークに進出していった。そのころ、パリ・コレで通用する東洋人デザイナーなんか、ほとんど日本人くらいのものだった。
高田賢三三宅一生川久保玲山本耀司等々、彼らは、西洋人にはないセンスと西洋人にもわかるその当時の世界性(普遍性)をそなえていた。
現在の「ジャパンクール」の文化だって、日本的であると同時に世界的でもあるにちがいない。
たとえば、ファンションの色の組み合わせに関しては、西洋の伝統的で合理的な規則があった。その規則というか常識を、日本人デザイナーが次々に打ち破っていった。
昔は、赤と緑とか紫と黄緑といったような補色の組み合わせは、合理主義の西洋の常識では下品なものとされ、ほとんどタブーだった。しかし日本の着物には、あえてその組み合わせでおしゃれに演出して見せる感覚があった。
また、濃淡のアンサンブルにこだわる西洋の常識からすれば、たとえば同じ濃さのベージュとライトグレーの組み合わせなど、おしゃれに関心のないものが間に合わせで着ているだけの野暮ったいセンスのように思われていたが、今や、都会人なら誰でも、その組み合わせでおしゃれを演出する作法を知っているし、日本人は、着物と羽織とか、着物と帯とか、江戸時代からそんなあいまいな組み合わせの妙を知っていた。
日本の着物の色の組み合わせというのは、西洋の合理主義からすると、そうとう変則的であるらしい。
そしてその変則の妙に対する感覚が、現在の可愛い系のファッションにも受け継がれている。日本のギャルがごてごてといろんな色の服を重ね着すると確かにかわいいのに、外国人がまねるとなんだか野暮ったくちぐはぐになってしまう。そうして、どうしてそんな違いが出てしまうのかということを日本のギャルに聞いてもうまく答えられない。ただ、日本人は、江戸時代からそんな遊び心のおしゃれを繰り返してきたのだ。
いや、平安時代十二単(ひとえ)以来の伝統だろうか。
たとえば、頭にいろんなカンザシとか櫛とかごてごてくっつけて、なんとなくかわいく演出して見せるとか、そんな不合理で変則的な美意識を日本人は持っているらしい。女子高生が鞄にいろんなキーホルダーやマスコット人形のようなものをジャラジャラとぶら下げているのもこのセンスで、そこに統一感などあるはずないのに、それでもかわいい。そういうタッチは、なかなか理論づけができなくて、ほとんどもう身体感覚というか皮膚感覚のようなものらしい。
日本語の「はし」という言葉には「橋・端・箸・嘴、走る・はしっこい・きざはし」等々と、いろんな意味がジャラジャラとくっついている。まあこのタッチなのだ。
それは、一種の即興性の感覚である。いちいち意味なんか問うていられない。即興的に「はし」という音声の感触だけを取り交わして会話をしてゆく。その「はし」という音声に二つも三つも意味がくっついていることそれ自体をたのしんで会話をしてゆく。文字を持たない古代人や原始人はそういう危ない綱渡りのような即興性をたのしんで会話をしていたのであり、その伝統が日本列島にはまだ残っている。
いまどきのギャルは、そういう混沌をたのしみ演出するセンスを持っている。
音楽でいえば、不協和音を上手に使うセンス。そこに決まりがあるのではない。それは、一回きりの即興として生まれる。
ギャルファッションなんて、不協和音のセンスだ。そしてそれが西洋の伝統にはないというわけではなく、計算された不協和音の伝統は西洋にもあるのだが、無邪気な一回きりの不協和音のときめきというような即興性のタッチは知らなかった。
ファッションにも、即興としてしか生まれようがないアンサンブルの美というのがあって、いまどきのギャルはそういうタッチを身体感覚として持っている。というか、そこに日本列島のファッション文化の伝統がある。
そのようにして「ジャパンクール」の非合理的な「かわいい」の文化は、西洋の近代合理主義が反省期にさしかかっているという世界的な潮流にアピールしていった。
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   2・戦略を持たない即興性の文化
日本的な非合理的な文化。
そしてそういう非合理的な部分は人間なら誰もが持っていて、今、世界中が近代合理主義に息苦しいものを感じはじめている。
誰もが疲れていて、もう、いちいち未来に対するスケジュールや戦略を立てるのがいやになりはじめている。
もともと人間なんか、行き当たりばったりの習性をもった生き物なのだ。この世界の整合性もこの生の整合性も解体して、「いまここ」に立ちつくして消えてゆくところにこの生のカタルシスがある。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは猿よりも弱い猿になることだったのであり、生き延びる未来のことなど忘れて行き当たりばったりの気分にならなければ起こるはずのない事件だった。
それは、ひとつの「即興」として起こった。あるとき誰もがいっせいに立ち上がってしまったのだ。
人間は、「いまここ」の即興性に身をまかせようとする衝動を持っている。その気分が、今、近代合理主義に息苦しいものを感じている。
言葉だって、文字のない時代は、一回きりで消えてしまうただの音声だった。人間は、そういう一回きりの音声を交わし合うという即興の遊びを、何百万年も続けてきたのである。
われわれのふだんの会話だって、即興のアンサンブルとしてなされている。
そして、大切なことはそれが「アンサンブル」だということ。
その赤い色が何かの色と化学反応を起こしてより一層鮮やかに輝くということはある程度計算できるが、予想外の輝きが起きることもある。この予想外の輝きを起こすセンスは、予想(予測)ということをしないものが持っている。
予想するものはもう、予想できる輝きを演出する能力しか持てない。
予想外の輝きは、予想しないものにしか演出できない。
相手が何をいってくるかということを予測できるものは、それに対する上手な受け答えもできるだろう。しかし、予測した時点でその人はもう、相手の言葉にときめいていない。
しかし、予測しないものは、相手の言葉を予想外のものとしてときめき、そのときめきをジャンピングボードにして、相手が予想できない言葉を返してゆく。
会話が弾むということは、このような即興性の上に成り立っている。
まあ、相手の言葉が予測できるようになれば、その会話も終わりにさしかかっているということだ。
予測できない事態と出会うから、人はときめくのだ。そういう即興性に、心はときめくのだ。
予測しないものしか、即興性に遊ぶことはできない。いまどきのギャルは、予測するという心の動きが希薄だから、なんだかわけのわからない重ね着をしてかわいく見せることができる。だから、なぜその服にはその帽子なのかと聞かれても、うまく答えられない。決まりがあってしていることではないのだ。
そういう即興性に、世界が「クール」といっている。
予測して答えの決まりをつくることより、即興的な反応の方がずっと可能性が豊かで高度なのだ。
われわれ現代人は、地図やら文字やらという便利なものを生みだしたことによって、みずからの知性や感受性のはたらきをそのぶん限定してしまっている。
現代人は古代人よりもたくさんの言葉を持っているということは、ひとつの言葉から受け取る意味やニュアンスを限定してしまっている、ということだ。
近代合理主義は、人間の知性や感受性のはたらきを限定させてしまった。そこに「ジャパンクール」の文化が現代社会の新しい風として吹き込まれていった。
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   3・予測の不可能性を遊ぶ
原初、言葉は音声だった。
その人の心の動きは、その言葉=音声によってしかわからない。話者自身だってみずから発したその「言葉=音声」によって自分の心に気づく。その「あとから気づかされる」という体験が言葉の文化を育てていった。
自分がどれだけ深く感動したかということは、「わ―お」とか「へえー」とか、その思わず発してしまった音声によって気づかされることなのだ。
人は、その音声を聞くことによってはじめて何かに気づく。聞くことによってしか気づけない。言葉は音声であって、頭の中で言葉を思い浮かべても、言葉の実質にはならないのである。音声として吐き出されて、はじめて言葉になる。その言葉のニュアンスは、音声に宿っているのであって、頭の中に浮かべただけでは言葉の実質になっていない。
原初の言葉は、「予測」することが決定的に不可能な機能だった。予測できても、予測にはならなかった。それは、音声になってはじめて成立した。
言葉の機能の絶対的な即興性。
相手がよろこびの声を上げることを予測できても、その声が上がったときの実質的な感触は、けっして先取りすることはできない。
言葉の根源的な機能は「音声」にあり、「音声」は、「予測」の絶対的な不可能性の上に成り立っている。音声を予測しても、音声の実質的な感触は、それが発せられた現場でしか体験できない。そのニュアンスの実質は、発せられて聞くことによって、はじめて体験できる。女のおっぱいのやわらかさを予測できても、そのやわらかさの感触の実質は実際に触ってみないと体験できない。
その現在性、その即興性の上に言葉の根源の機能が成り立っている。
人間が言葉を持っているということは、この生は即興性として成り立っているということを意味する。人と人の関係の根源は即興性として成り立っている、ということを意味している。
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   4・規則がなければ予測はできない
言葉の根源的な機能は、言葉の規則の上に成り立っているのではない。発せられた音声の感触こそが、言葉の根源的な機能である。
音声を発し、音声を聞く。他者とのあいだで、そうやって音声を取り交わすことのカタルシスに言葉の根源的な機能がある。そこにこそ、人と人の関係性の根源がある。
他者の反応を予測するためには、反応の仕方の規則を知らなければならない。そして反応そのものを規則の中に封じ込めてしまわなければならない。そのようにして言葉は、時代とともに限定された意味やニュアンスしか持たなくなってゆき、その代わりに言葉の数が無限に増えていった。
言葉をたくさん知っているということは、言葉を限定した意味やニュアンスでしか使えないということであり、言葉の規則に縛られてしまっている、ということだ。そうやって規則で縛り合いながら相手の反応を予測してゆく。これが、現代人の会話の流儀らしい。
相手の反応を予測するということは、自己完結してすでに反応を失っているということだ。と同時に、言葉の規則によって相手を縛ろう(支配しよう)としている。
しかし言葉のほんらいの機能は、そういうところにはない。
言葉のほんらい的な機能は、規則にあるのではなく、「音声の感触」にある。そのようにして言葉は生まれ育ってきたのだ。
古代以前においては、言葉は、たがいに予測不可能な一回きりの即興のやりとりとして体験されてきた。
言葉の本質は「音声の感触」にあり、それを他者とのあいだで取り交わすことにほんらい的な機能がある。
もともと言葉は、声に出してなんぼのものだったのだ。沈黙の中で自己完結するものだったのではない。そういう「規則」などという機能は、たがいに相手の反応を予測し合ったり相手を支配したがっている近代合理主義者の観念の中で第一義のものとされているにすぎない。
少なくとも、文字を持たない古代人や原始人は、「音声の感触」を大切にしながら即興性として言葉を取り交わしていた。
即興性は、人間の文化の起源であると同時に究極でもある。というか、これが生き物の生の根源のかたちなのだ。生き物は「いまここ」の即興性を生きているのであって、未来に向かう「生き延びるための戦略」で生きているのではない。
だから「ジャパンクール」のギャルファッションが受ける。そのわけのわからない組み合わせの即興性は、日本的であると同時に、世界的・普遍的でもある。
即興的な「出会いのときめき」……大人たちが振りかざす近代合理主義に追いつめられたこの国の若者たちによる、人と人の関係にそういう要素を混入してゆこうとする試みとして、いまどきの「ジャパンクール」の文化がある。

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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
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