歌垣と枕詞の起源


きゃりーぱみゅぱみゅ」という言葉に、なんの意味もない。そんなことは、みんな承知している。承知しているが、女の子の名前だといわれれば、ああそうか、と納得する。
なんの意味もないから、その女の子がどんな性格でどんな体型でどんな暮らしをしているのかということはよくわからない。
でも不思議な雰囲気の愛らしい女の子の姿がなんとなく浮かんでくる。
これはまあ、少女マンガの伝統だろうか。「キャンディキャンディ」とか、よく意味のわからない名前のほうがかえって「かわいい」女の子のイメージになるという言葉の感覚を日本列島の住民は共有している。
言葉の意味よりも音の感触だけがその女の子のイメージになっている。そのとき女の子は、名前の意味と同様にその性格や肉体は問われず、ただ「姿」だけがイメージされている。
日本列島には、意味を問わない伝統があるらしい。
それは、「肉体」よりも「姿」を問う美意識である。
言葉だって、「意味という肉体」よりも「音声の響きという姿」の方が大事なのだ。
「あおによし」や「あしひきの」や「ひさかたの」という枕詞に「意味という肉体」を問うてもせんないことで、それは「音声の響き=姿」を持った言葉なだった。
このことはまあ、古代人は「霊魂」がつまった肉体よりも「姿=からっぽの身体」になってゆくカタルシスを大事にして生きていた、古代以前の日本列島に「霊魂」という概念などなかった、ということに収束してゆくのだが、その前にまず、枕詞はどのように生まれてきたかということを考えてみたい。
世の歴史家は、古代以前の人々は「神」や「霊魂」という概念にしがみつくアニミズムで生きていたと考えている。しかし日本的な美意識の伝統をそんな前提で考えるべきではない。
ここでは、そんなアニミズムという前提をいったん頭の中から取り払って考えてみたい。
日本列島の「姿」の美意識は、アニミズムから生まれてきたのではない。霊魂を知らないところから生まれてきたのだ。そしてそれが、弥生時代奈良盆地天皇が生まれてきたときのいきさつを考えることであり、さらには現代に生きるわれわれの中に息づく歴史の無意識を照射することになるのではないだろうか。



枕詞の発生を問うことは、言葉の「意味という肉体」よりも「音声の響きという姿」に対する美意識はどのように生まれ育ってきたかと問うことである。
日本列島の古代以前の人々は、霊魂など知らなかった。したがって折口信夫のように、「枕詞は霊魂としての言葉だった」というようなことをいってもまったくナンセンスなのだ。
世の中には「古代以前の人々はアニミズムで生きていた」という合意があるらしいが、それは普遍的な真実ではない。
まあ折口信夫は、霊魂の存在を信じていたのだろう。だから「枕詞はあとの言葉の霊魂の役割を果たしている」とか「ことだまとは言葉に宿る霊魂である」という前提の通俗的な思考になってゆく。
「霊魂」という言葉を持ち出せば超俗的脱俗的思考になるのか。これほど俗っぽく制度的な概念もないというのに。
それは、共同体の制度性から生まれてくる概念なのだ。このことは何度でも言いたいし、何度言っても言い足りないもどかしさが募る。
枕詞は霊魂としての言葉か?
百歩譲ってひとまずそういうことだとしても、じゃあ、枕詞をかぶせないとあとの言葉には霊魂が宿っていないのか、ということになる。霊魂とは、あとから注入するものなのか?古代人にもし「霊魂」という意識があったのなら、「奈良」や「山」や「母」という言葉そのものに霊魂を感じて、わざわざ注入する必要なんか感じなかったはずである。
霊魂とはほんらい、注入するものではなく、先験的にその中に宿っているもののことをいうのだろう。
折口信夫の解釈では、枕詞のあとにかかる言葉は単純なひとつ意味の記号で霊魂(ことだま)は宿っていない、そこにはなんのニュアンスもなかった、ということになる。
古代人にとって「奈良」や「山」や「母」という言葉は、ただの記号にすぎなかったのか。その音声を発することの感慨はなかったのか。なかったはずがないし、その感慨を「ことだま」といったのだ。べつに霊魂のことでもなんでもない。
古代以前の人々は霊魂という概念をしらなかったから枕詞を生みだした。
やまとことばの「たま」は「霊魂」のことではない。まあ「たま」の意味なんか無数にあって、「霊魂」という意味もそのうちのひとつにすぎない。あとの時代になって「霊魂」という概念が大陸から入ってきて、それも「たま」の中のひとつに加えただけのこと。プリミティブなやまとことばは、いろんな意味を含んでしまえるニュートラルな性格を持っていた。



枕詞は、折口信夫がいうような「あとにかかる言葉の霊魂の役割を果たしている」ということではない。
それは、あとの言葉の「霊魂」だったのではなく、「衣装」だった。「奈良」なら「奈良」という言葉に対する思いが胸に溢れて、「枕詞という衣装」を着せないとどうにも落ち着かなかったのだ。
故郷の奈良の地から遠く離れてしまった旅人は、「あおによし」という奈良に対する胸に溢れる思いだけがあって、「奈良という肉体=霊魂」はすでに失っている。
言葉の「肉体=意味」と「衣装=感慨」、それが「奈良」に対する「あおによし」だった。
そして和歌にとっては、この「衣装=感慨」こそが大事だった。
古代人がなぜ「感慨」の表出にこだわったかといえば、もともとやまとことばが感慨の表出の機能の上に成り立った言葉であり、彼らの世界が「意味」の上にではなく「感慨」の上に成り立っていたからだ。
日本列島の縄文・弥生時代には文字がなかった。古墳時代中期以降に大陸から輸入してようやく定着してきたにすぎない。
文字がある社会とない社会では、人々の言葉に対する感覚も世界の見え方も違う。
文字のない社会の言葉は音声であり、音声は生まれた瞬間に消えてゆくものだ。だから、必然的に音声の響きに敏感になる。
彼らは、音声の響きによって意味というかニュアンスを汲みとっていた。
しかし文字は、音声の響きとは関係なしに言葉に意味を定着させている。意味しか表していないともいえる。そしてそれは消えないから、その体験が脳に刻まれてゆく。文字に慣れてしまえば、とうぜん意味に対するこだわりが強くなると同時に、音声の響きのニュアンスに鈍感になってゆく。文字を持ってしまった社会では、言葉はどんどん意味だけの機能になってゆく。
現代人よりも古代以前の人々の方が、はるかに音声の響きに敏感だった。だからわれわれは、枕詞が表している感慨のニュアンスがわからない。



英語や中国語は、音声の連なりのひとまとまりでその意味やニュアンスを解釈する。それに対してやまとことばは一音一音を独立させながら発声し、一音一音を追いかけながら聞いてゆく。つまり、一音一音に意味やニュアンスがある。文字がなかった時代の古代以前の人々は、そうやって一音一音を追いかけ、そのニュアンスを汲みとってゆくことができた。
だから和歌は、いまだに一音一音ゆっくりと詠み上げてゆく。言葉(単語)をひとまとめにして詠んだほうが意味はわかりやすいのに、そうはしない。
やまとことばは、一音一音追いかけながら聞いてゆく言葉だった。
そしてその一音に込められているのは、意味というよりも、その音声が口の端からがこぼれ出てくる感慨のニュアンスである。
やまとことばにおいては、言葉の中に宿った「意味=霊魂」よりも、言葉の外側の「音声=衣装」の方が大事なのだ。
つまり、枕詞のあとにかかるたんなる意味だけの言葉よりも、一音一音に感慨をまとっている枕詞こそが大事で、枕詞こそが歌の主題だったのだ。
しかしだからといって枕詞が霊魂だったというのではなく、枕詞はあくまで歌の「衣装」であり、「衣装」こそ大事なのだ。



言葉の根源的な機能は、「話す」ことにあるのではなく「聞く」ことにある。
話すものだって、その自分の音声を聞いている。
聞くことによってそれははじめて「言葉」になる。
そして原始人は、世界中どこでもみな、一音一音を追いかけて聞くことによって言葉を成り立たせていた。
もともと人間の音声は、ある感慨によって口の端からこぼれ出るものだったのであり、まずは感慨のかたちの表出として言葉が成り立っていった。
一音一音のニュアンスが集まって、ひとつの感慨を表す言葉になる。たとえば、「おーい」と呼びかける、「あ、そう」とうなずく、「ふんふん」と聞く、「ちぇっ」とふてくされる、「きゃあ」と驚く、とこれらはひとまず原初的な言葉と考えてよいだろう。
言葉は、会話の道具である。そして原初的な会話は、物事に対する感じ方やおたがいの相手に対する気持ちなどを共有してゆくことにあったのだろう。物事を説明するための道具だったのではない。おたがいがすでに知っていることについて、その感じ方を語り合っていった。そういう長い歴史の時間を経て洗練発達していった末に生まれてきたのが枕詞である。
おそらく、プリミティブな枕詞は、誰もが共有しているいくつかの感慨かたちを表出したものだったはずである。
なるほど意味のよくわからない枕詞がある。
「あぢさはふ」「いめたてて」「うちひさす」「しなざかる」「つぎねふや」「はふくずの」「みつみつし」「やほによし」等々、それらは具体的な物事を説明したものではなくあくまでも感慨のかたちの表出だからそういう言い回しになったりもするのだろうが、それでも古代以前の人々はその言葉のニュアンスを誰もが納得し共有していた。そうでなければ万葉の時代まで残ってくるはずがない。
そうしていつの間にか、何をいっているのかわからない言葉になっていった。
これらは、安直な語呂合わせで説明のつく言葉ではない。たぶん、一音一音のニュアンスを追いかけていってはじめて全体のかたちが見えてくる。



文字のない時代の人々は、声に出して即興で歌をつくっていた。そうやって歌を交わし合う「歌垣」という習俗が、おそらく縄文時代からあった。
もしかしたら枕詞は、即興で歌をつくるためのひとつのテクニックだったのかもしれない。
最後の一句か二句のフレーズが浮かんだら、とりあえずそれにしたがって主題としての枕詞を差し出す。枕詞の次はお決まりの言葉があるし、そんなことをゆっくり詠み上げているうちに中間にはさむフレーズを思い浮かべてゆく。中間にはさむフレーズは、枕詞と最後のフレーズをつなげるという役割をすでに与えられているから、まあなりゆきでなんとかなる。
枕詞の次にくる言葉は、中間にはさむフレーズを思い浮かべるためのきっかけの役割を果たしている。
われわれだって、人と話しているとき、最後のいいたいことが浮かんだらもう、なりゆきで話し始めている。そうして、最後の言いたいことにうながされて途中でたとえ話とかが浮かんできたりする。まあ、そんなようなことだ。
「それでさあ、むかむかするんだよね、あいつの勝手な自慢話を聞いてるとさあ、そんな話はほかでやってくれといいたくなるわけよ」……こんなことを、誰もが即興で話している。
感慨を吐露するときは、誰だってスムーズに言葉が出てくる。
感慨は、言葉と直接結び付いている。そのようにして原初の言葉が生まれてきたのであり、そのようにして枕詞が生まれてきた。
「あぢさはふ」とか「いめたてて」とか「うちひさす」とか、その感慨を表出した言葉のニュアンスを誰もが承知していたのは文字がない社会だったからであり、それほどに彼らは豊かな感慨とともに生きていた。
「人は言葉で思考している」などとよくいわれるが、言葉が浮かんでくる感慨の体験というのもある。そのとき「はじめに言葉ありき」とはいえない。感慨のあとから言葉が付いてくる。言葉でかなしむ、などということがあるものか。
普段のおしゃべりのとき、われわれは言葉を思い浮かべてから言葉を吐きだしているのではない。胸に思いが満ちてくれば言葉は勝手に吐きだされてしまう。吐き出してから、言葉だと気づく。それが、これが言葉の機能の根源的なかたちであり、これが古代以前の人々の歌垣における「即興」というタッチだった。
言葉によって胸に思いが満ちてくるのではない。胸に思いが満ちてくると言葉が勝手に吐きだされるのだ。そのようして即興の歌垣の宴が華やいでいったのであり、原初のややこしく意味不明な枕詞は、おそらくそういう言葉だった。



ひとつの場所に集まった男女のグループがたがいに歌を交わしてパートナーを選んでゆくという「歌垣」という習俗は古代以前からあったといわれている。
縄文時代は、女子供だけが山間地に小さな集落をつくって定住し、そこに旅する男たちが訪ねてきてまた去ってゆく、という社会だった。それは、けっして停滞した社会ではなかった。いつの時代にも増して知らない男女の出会いが豊かに起きている社会だった。その出会いの場から歌垣が生まれてくる。
縄文時代には、歌垣生まれてくる必然的な状況があった。
男女で向き合って歓談し、やがて即興でそのときの感慨の歌を男が贈り、女が返しながらパートナーが決まってゆく。
文字がなかった時代の言葉は、即興で扱われていた。彼らは、即興性が豊かな言葉の文化を持っていた。
即興的な言葉は、感慨から生まれてくる。
原初の人類は、さまざまな感慨を持ち、そこからさまざまな音声がこぼれ出てくる猿だった。意味は、音声を発したあとから気づいていった。
もともと言葉は、感慨の表出としてより豊かにスムーズに口の端からこぼれ出てくるようになっている。
いちいち意味にこだわっていては、即興性はおぼつかなってくる。
おそらく和歌は、歌垣から洗練発展してきた表現形式なのだ。そしてその即興性の延長として、最初に感慨の表出としての枕詞を差し出す出す作法になっていた。
まず感慨の表出としての枕詞を差し出し、スムーズに感慨が言葉になって出てくる態勢を整える。歌の即興性を確保する拠点として枕詞の作法が定着していった。
ともあれ、すべては縄文以来の歌垣からはじまっているのだろう。
和歌に枕詞の作法があるということは、それが即興の作法として生まれてきたことを意味している。そして即興性は、感慨の表出の上に成り立っている。
枕詞は、言葉が感慨の表出であることの形見である。だから日本列島の住民は、いつまでもそれを守り継いでいった。感慨の表出の機能を失ったら、やまとことばがやまとことばではなくなってしまう。
現代の短歌の作者だって、枕詞を使っているのだ。
枕詞はその歌の「衣装」であり「姿」である。その歌がどんな内容を詠っているかということよりも、その歌が枕詞をはじめとする言葉をどのように着こなしているかということこそ万葉以来の和歌の本領なのだ。そこに、日本列島の「姿」の美意識の伝統がある。
つまり、作者の感慨の深さや豊かさは、歌の「内容」よりも歌の「姿」にこそ宿っているということ。



では古代人は、いったいどんな感慨を詠っていたのか。
ここまで検証してきた枕詞は、すべて「嘆き」の表出が基調になっている。それは、生活が苦しかったとか、そういうことではない。それが二本の足で立っている人間の基礎的な感慨だからだ。原始人はみなそこからカタルシスを汲み上げながら生きていたのであり、そうした原始性を引き継いでいるのが「やまとごころ」なのだ。
万葉集はおおらかな自然賛歌であるとか大和魂だとかというのは嘘だ。その多くは、「嘆き」の感慨を詠っていた。
嘆きが基調になっているから浮き立つ感慨も豊かに湧いてくる。さまざまな感慨がある。古代以前の人々は、そいう想いの「あや」の表出を枕詞に託していった。
一般的には、枕詞はあとにかかる言葉の「賛美表現」だった、といわれている。そういう合意の上に、おおらかな自然賛歌だの大和魂だのといっているわけだが、枕詞はそれ自体独立した「主題」の表現であり、その基底には「嘆き」の感慨が流れている。
枕詞は、「賛美表現」としてあとにかかる言葉に従属していたのではない。まず枕詞があり、そのあとの言葉は枕詞のニュアンスに関係があるのなら何でもよかったのだ。
二本の足で立っている人間は、さまざまな感慨を抱いてしまう猿である。そのことの形見として枕詞が生まれてきた。
おそらく上に列挙した意味のよくわからない枕詞も、けっしてたんなる「賛美表現」ではないはずである。それを次回に考えてみたい。
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