「あじさはふ」「つぎねふや」など・枕詞の起源


「あぢさはふ」「いめたてて」「うちひさす」「しなざかる」「つぎねふや」等々の語義がよく知られていない枕詞について考えてみたい。
それらは現在、こじつけでおかしな解釈がなされている枕詞である。
まず「あじさはふ」。「目」にかかる。
辞典の説明によれば、「あじ」は水鳥の名で、「さはふ」は「さえぎる」、網でさえぎるから、網の目の「目」にかかるのだとか。
こんないい加減なこじつけが、どうしてスタンダードの解釈になり得るのだろう。まったくわからない。
彼ら言葉の研究者は、「あじ」という言葉のプリミティブな姿をちゃんと考えようとしていない。
プリミティブな言葉は、意味を持った文字ではなく、感慨の表出としての「音声」だった。まず「音声」として考えてみる必要がある。
起源としての枕詞は、感慨を表出する音声だった。
まず「あじ」という音声を発してしまう感慨があった。やまとことばは、言葉が意味一辺倒の機能になりつつある現在においてもなお、感慨の表出という機能を含んでいる。
あじさはふ」という音声を発する感慨ががあった。その感慨の表出として枕詞が生まれてきたのだ。
あじ」の「あ」は、「あ、と気づく」の「あ」。「じ=し」は「しーん」の「し」、「静寂」「孤独」「固有性」の語義。
あじ」は、固有性に気づくこと。「味がある」とは、人でも食べ物でも、固有性をそなえているということ。そして「固有性に気づくこと」は、自分の「孤独(さびしさ)を感じること」でもある。
「さはふ」の「さ」は、「はふ」の接頭語で、「はふ」を形容している、「さーっと滑る」「さらさら流れる」「さっさと片付く」の「さ」、静かでなめらかなさま。
「はふ」は「這う」。「は」は、「はあ」といぶかり、「はー」とため息をつく。「ふ」は「拭く」「踏む」「降る」「伏す」、低いところのさま。「ふーっ」とひと息つく。
「はふ」とは、胸の底に漂っている心のさま。
「さはふ」とは、胸の底にひそかに漂っている心。どこか不安や迷いのニュアンスを感じさせる語感である。
あじさはふ」とは、約束などの決められたことが信じたいのに信じられなくて不安や迷いに浸されている心。信じられなくて揺れる心。つまり、見たい逢いたいと思っている心。だから「目」にかかる。
・・・・・・・・・
あさ戸を早くな開けそ あじさはふ 目が欲(ほ)る君 今夜(こよい)来ませる
・・・・・・・・・
どうか早くあさ戸を開けてください、逢いたいと思っていたあなたが今夜いらっしゃる……という歌。
・・・・・・・・・
あじさはふ 目は合かざらね 携(たずさは)り こと問はなくも苦しくありけり
・・・・・・・・・
目で見交わすことはできても、二人きりになってあなたの気持ちを確かめることができないのは苦しいことです……と詠っている。
どちらの「あじさはふ」も、不安や迷いに浸されている心を表して、これらの歌の通奏低音になっているいる。「目」にかかるといっても、べつに目のことを説明しているのでもない。
少なくともプリミティブな枕詞は、あとにかかる言葉のたんなる「賛美表現」ではなく、人の心の「あや」を表して、歌の主題としての通奏低音になっている。
万葉集にはこのほかにも三つの長歌にこの枕詞が使われているが、すべて人との別れや逢えないことの「嘆き」を詠っているところで出てくる。そういうニュアンスの言葉なのだ。
研究者たちは、枕詞をただの飾り言葉だと思っているからつまらないこじつけで片づけようとする。それが独立した歌の通奏低音の役割を果たしている言葉であるという認識を持っていない。
この二つの歌がともに不安や迷いに浸された感慨を詠っているのを、あなたはただの偶然だと思うか?
偶然ではない。枕詞を持った歌はすべて、枕詞が持つ感慨のニュアンスを通奏低音としている。そのことをこれから検証してゆきたい。



つぎは、「いめたてて」。これも妙なこじつけがなされている枕詞である。
「跡見(とみ)」という地名にかかる。
実際に「射目を立てる」という行為があるらしい。それによって狩りのために動物の足跡を探すのだが、その探すことを「跡見(とみ)」という。だから「跡見(とみ)」という地名にかかるのだとか。
しかしこれも、ただのこじつけだ。もともとの「いめたてて」という枕詞は、やはり感慨の表出の言葉だったはずである。感慨の表出でなければ、枕詞は枕詞たりえない。
「いめ」の「い」は「いのいちばんのい」の「い」、「強調」のための接頭語。「いざ」というときの「ざ=さ」は「さあ」と促すニュアンスで、それを強調して「い」が付いている。武士が刀を抜いて命のやり取りをするときや戦地に赴くときに、気合を入れて「いざ」という。「居丈高(いたけだか)」の「居(い)」は、「丈高」の強調。「市(いち)」の「ち」は「血」の「ち」、「あふれ出る」というニュアンスで、人があふれ出てくる場所というニュアンスを強調して「い」を頭につけ、「市(いち)」という。
「め」は、「めっ」と怒る。「認識」「出現」の語義。気づいて気持ちが沸き立つこと。「ばかめ」というときの「め」も同じニュアンスだ。目によって、世界が出現し、世界を認識する。
「いめ」とは、はっきりとした認識、いい考え、すなわちアイデア。それに「たてる」をつけて「いめたてる」とは、アイデアを思い立つこと。あるいは、そのアイデアを実行しようと思い立つこと。
・・・・・・・・
いめたてて 跡見(とみ)の岡辺(をかへ)の なでしこの 花ふさ手折(たを)り 我れは持ちて行く 奈良人(ならひと)のため
・・・・・・・・
思い立って奈良で待っている人のためになでしこの花束を摘んで持ち帰った、という愛妻家の歌だ。
枕詞とあとにかかかる言葉は同じ語義である、というような乱暴な説もあるそうだが、言葉の制約がある和歌で、そんな無駄なことをするはずがない。だいいち、この場合の「いめたてて」が「射目立てて」という狩りの行為を意味するのなら、まったく無駄な言葉である。「跡見(とみ)」という地名をいうためだけのためにわざわざこんな言い回しをしなければならないのか。そんなことをしても、この歌の情趣の表現のなんの役にも立たない。それとも、「射目立てて」が狩りの行為なら「花を摘む」ことも狩りのようなものだといいたいのか。
これはまあどうということもない歌だが、それでも作者の「奈良人」を想う気持ちを精一杯表現しようとしているのだろう。この枕詞がそのための効果を持たないのなら、誰がわざわざ使うものか。
中身が充実したり成熟することを「とみ」という。いいアイデアが浮かんで思い立つことは「とみ」でもある。だからこの言葉にかかるのであり、じつは枕詞が先にあったのだ。そしてあとにかかる言葉は「とみ」という音声を持っていれば何でもいいのであり、この歌の場合の「跡見(とみ)」は、べつに土地の固有名詞ではない。思い立った場所が「跡見(とみ)」なのだ。もしかしたら、若草山なんかに登ってそんなことを思い立ち、そんなことをして帰ったのかもしれない。あるいは佐保川の岸辺でその花群れを見つけたとか、まあどこでもいいのだ。
「とみ」という地名などどうでもよい。「いめたてて」は、「とみ」という「音声」にかかる枕詞である。



「うちひさす」は、「嘆き」のニュアンスを含んでいる言葉だ。
「宮」「都」にかかることから、「うちひさす」は何か荘厳で光り輝くことを表しているようにいうひともいるが、そうではあるまい。そんな語感ではない。ひっそりとして切ない感慨の気配が伝わってくる言葉ではないだろうか。
辞典ではいちおう「語義、かかり方、未詳」ということになっている。
関西の女性は、自分のことを「うち」という。この「うちひさす」の「うち」も、同じようなニュアンスではないだろうか。。
この「うち」という音声は、胸の中にぽっと光がともるような感慨からこぼれ出てくる。そこから、この世界の中の「自分」という一点、というニュアンスで「うち」というようになってきたのだろう。「外」は広いスペースで、「うち」は狭い一点、「限定された場所」ということだろうか。そして限定された感慨。
「う」は、「うっ」と息が詰まる発声。「停止」「停滞」の語義。
「ち」は、「ちぇっ」とふてくされる。「流出」「出現」の語義。
「うち」とは、特別なひとつの感慨が胸の中に灯ること。
「ひさ」は「ひさかた」の「ひさ」、「ひそかなもの」「はるかなもの」。「けなげ」「一途」、「ひさ」という女の子の名前にはそういうニュアンスが込められている。
「ひさす」とは、けなげで一途に思うこと。
とすれば「うちひさす」とは、限定された対象を一途に思いつめていること、となる。
また、この「うちひさす」は、「うちひ+さす」という構造だと考えることもできる。
「うちひ」は、内に秘めた想い。「さす」は「差す」、すなわち「灯る」。つまり「うちひさす」とは、秘めた想いが心の中に灯っていること。どちらにしても同じことだ。「うちひさす」という音声の一音一音を追いかけてゆけば、どの道そういうニュアンスになる。
・・・・・・・・・
うちひさす 宮道(みやじ)を人は満ち行けど わが思う君はただひとりのみ
・・・・・・・・・
「わが思う君はただひとりのみ」なんて、まさに「うちひさす」の感慨ではないか。
この歌は、「宮」のことなどどうでもいいといっているわけで、それでどうして「うちひさす」が「宮」を修飾しなければならないのか。宮を修飾しているとすれば言葉の無駄使いであり、そのせいで「わが思う君はただひとりのみ」が表現する感慨はぼやけてしまう。べつに宮道を行く人の賑わいを詠っているわけではないだろう。
「うちひさす」は、この歌の通奏低音である。
・・・・・・・・・
うちひさす 宮にはあれど月草の うつろふ心わが思はなくに
・・・・・・・・・
これだって、「宮」を賛美しているのではない。宮などどうでもいいといっているのだ。「うちひさす」が表現しているものはもっと別のところにある。
(誘惑の多い)宮仕えをしていても月草のような移ろいやすい心など私は持っていません、という歌だ。
万葉集で「うちひさす」という枕詞が使われるとき、すべてが「秘めたる一途な想い」が主題=通奏低音になっている。
次の歌は男親の娘に対する気持ちを詠っているのだが、その想いのさまは同じであろう。
・・・・・・・・・
うちひさす 宮に行く子をま悲しみ 留むれば苦し 遣ればすべなし
・・・・・・・・・
宮仕えに出ようとする娘を止めることもよろこんで見送ることもできないその切羽詰まった気持ちだって、やはり「うちひさす」の感慨に違いない。
「うちひさす」は、「宮」や「都」の荘厳で光り輝くさまを表しているのではない。もっとひんやりとしてひっそりとした語感の言葉である。
「宮」の「み」は「実の「み」。「や」は「矢」「ヤッホー」の「や」、「遠い」こと。見渡すかぎりやわらかく充足している場所のことを「宮(みや)」という。それは「うちひさす」の感慨の求めて得られない憧れである。だから「宮」にかかるようになっていったのだが、両者はいわば反対のニュアンスを持ったイメージである。だから、上の三つの引用例はすべて「宮」が持っているニュアンスを打ち消すような主題の歌になっている。
「うちひさす」という枕詞は、「宮」を修飾しているのではない。「宮」に寄り添っているだけなのだ。
枕詞は、歌の主題であり通奏低音である。そしてこれは、起源の歌垣以来の歌の作法なのだ。
われわれは、これらの歌から、古代人の心のあやをちゃんと汲み上げることができているだろうか。彼らはそのような機能として枕詞を使っていたというのに。
「うちひさす」という言葉は、あからさまに「秘めたる一途な思い」といっているのではない。まあ直接的には「内に隠したもの」という程度の意味なのだろう。「うち=内」+「ひ=隠す」+「さす=ともる」……そのようにしてそれは「秘めたる一途な思い」ということの「衣装」になっている。そういうことが「衣装」の下に隠されている。
それは、さりげなく「宮」という言葉に従属しているように装いながら、その下にそのような胸に満ちてくる言葉に尽くせない想いを隠している。
文学用語でいうなら、「陰喩」ということになるのだろうか。
「彼は猿のようだ(直喩)」というのと「彼は猿だ(隠喩)」というのは違う。彼が猿ではないのは誰でも知っているが、われわれはときどきそういう言い方をする。そのときそこに「彼は動きが敏捷だ」ということが隠されている。同様に、「うちひさす」が「宮」ではないことは誰でも知っているが、それでもあえて「うちひさす宮」という。
ただ、この枕詞の使い方の場合は「彼は猿だ」というのよりももっと微妙なニュアンスがある。それは、反対の意味の言葉に寄り添いながら内に秘めた感慨を隠している。「うちひさす」は、「宮」のよう、でははない。それでいいのだ。たとえ「うちひさす宮」と文字で表記しても、詠み上げるときは「うちひさす」でいったん切り、少し間をおいてから「宮にはあれど」とか「宮に行く子を」と続けてゆく。
「うちひさす」が「宮」とは別のニュアンスの言葉だということは誰でも知っていたし、「宮」よりももっと大切な言葉だとわかっていた。そしてそれを直接的にはなんの関係もない「宮」という言葉とセットにしておくことによって、その下にもっと切実な思いが隠されているということがより際立つ効果を生みだしていた。
隠す作法が、「彼は猿だ」というのよりもっと微妙で優雅なのだ。



「しなざかる」は、「越(こし)」という地名(新潟)にかかる。
「さかる」は、気持ちが盛り上がるとか気持ちがこみ上げてくるというようなニュアンスだろう。
問題は「しな」という言葉を古代人はどのように使っていたかということにある。
「し」は「固有性」、「な」は「親密」の語義。
「しな」とは、対象を特別なものとして愛着すること。だから「品物(しなもの)」という。そして、そういう愛着が胸に込み上げてくることを「しなざかる」という。
それはまあ、ひとつの気持ちを「濾(こ)す=濾過する」ようなことに違いない。だから「越(こし)」にかかるのだろう。であればそれは「濃し」でも「腰」でも「輿」でもかまわない。枕詞は、基本的にそういう使われ方をされている。それは、「意味」ではなく「音声」にかかっている。
最初の枕詞に、あとにかかる言葉などなかった。枕詞を発せずにいられないやみがたい感慨があっただけだ。そしてその感慨に対するはにかみを隠す作法としてあとにかかる言葉が生まれてきたわけで、それはまた、感慨を隠しつつより深く豊かに表現する作法にもなっていた。
・・・・・・・・・
しなざかる 越(こし)に五年(いつとせ)住み住みて 立ち別れまく惜しき宵かも
・・・・・・・・・
これは大伴家持の歌である。大和朝廷は初期のころから「越」の国との関係が深く、いつも都の役人が派遣されていたらしい。古代の都びとにとっての越の国は、ほとんど北の果てともいえるくらい遠いところで、都を去るにしても都に戻るにしても、つねに「別れのかなしみ」とともに想起される土地だった。
そういう「別れのかなしみ」がこみ上げてくることを「しなざかる」という。
役人として都に戻る家持の送別の宴で詠まれた歌だったらしい。
名手にしては、平凡に詠っているだけである。これくらい誰でもいえる。しかし作者はもう、歌の技巧を弄している余裕などなく、その胸に満ちてくる言葉に尽くせない思いを「しなざかる」という枕詞だけに託した。
「しなざかる」という枕詞がなければこの歌は成り立たないし、あんな名手がこんな平凡な歌を詠むところに味わいがあるのかもしれない。
惜別の辞というのは、葬式のときにしても、変に言葉を弄しないほうが人の胸を打ったりする。
別れる人に対する愛着とかなしみ、「しなざかる」という以外に言葉はもう浮かんでこなかった。そしてその枕詞は、あとに続く平凡な言葉によってより深く豊かなニュアンスを帯びていった。平凡だからこそ、枕詞の切実さが際立っていった。



「つぎねふや」という言葉は、現代人からすると、なんだか意味不明の印象がある。しかしこの言葉にもやはり古代人が共有していた感慨が込められているはずである。
辞典でも「語義、かかり方、未詳」となっているのだが、それですませるわけにはいかない。
ひとまずこれも「やましろ」という地名にかかる言葉だが、「つぎねふや」と、詠嘆の「や」で止めている。ここに、枕詞がもともと独立した言葉だったことがあらわれている。
「つぎねふや」は、起源の風姿をとどめているかなり古い枕詞なのだ。
「つぎ」は「次」「継ぎ」「注ぎ」「告ぎ」、たどりつくこと。すなわち「願い」や「祈り」のこと。
「ねふ」の「ね」は、「根」の「ね」、「根源」の語義。すなわち「胸の奥底」のこと。「ふ」は「ふるえる」の「ふ」。「ねふ」とは、胸の奥がふるえること。
「つぎねふ」とは、願いや祈りで胸の奥がふるえていること。
次の長歌の一節は古事記からの引用だが、イワノヒメが夫である仁徳天皇の心変わりに絶望して難波の宮から生まれ故郷の葛城の里に戻るときに詠ったとされている。
・・・・・・・・・
つぎねふや 山代川を宮上(のぼ)り 我が上(のぼ)れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯(をだて)倭(やまと)を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我が家のあたり
・・・・・・・・・
このときの「つぎねふや」は、ただの付け足しとしてではなく、独立した言葉として扱うべきだろう。
「ああ、帰心で胸の奥がふるえる。山代川を難波の宮から遠ざかりさかのぼってゆけば、懐かしい奈良を過ぎ、小楯、倭を過ぎ、私が見たいと切に願う国は、葛城の高宮、我が家のあたり」というようなことだろうか。
次は、万葉集長歌の一節。
・・・・・・・・・
つぎねふ 山背道(やましろじ)を人夫(ひとづま)の馬より行(ゆ)くに 己夫(おのづま)し 徒歩(かち)より行けば 見るごとに 音(ね)のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの母が形見と我が持てるまそみ鏡に蜻蛉領巾(あきづひれ) 負い並(な)め持ちて馬買へ 我が背 
・・・・・・・・・
よその男はみな馬に乗っているのに自分の亭主だけ山道をとぼとぼ歩いているのを見ると泣けてくる、どうか私の嫁入り道具を売って馬を買ってください、と詠っている。これだって「願いや祈りで胸の奥がふるえる」感慨だ。
そしてここに出てくる「山代」「山背」の「やましろ」は、「山城」という土地の固有名ではない。「山代川」といっても、おそらくそんな名の川があったのではない。「つぎねふの川」だから「山代川」であり、「帰心で胸の奥がふるえる川」という象徴表現なのだ。ここでは、あとにかかる言葉が枕詞に従属している。まあ、煎じつめれば、みなそうだ。
「しろ」とは「固有の場所」というようなニュアンス。「し」は「固有」、「ろ」は「場所」の語義。糊をつける決まった場所のことを「糊代(のりしろ」という。だったら山の中の固有の場所としての「やましろ」は「山道」である。つまり、山で迷って山道をたよりに懸命に出口を探しているふるえるような祈る気持ちが「つぎねふ」である。
山道を旅していた古代以前の人々はこのような体験を何度もしていたのであり、ここから「つぎねふや」という枕詞が生まれてきた。
「つぎねふや」という枕詞が表出している豊かなニュアンスがある。「未詳」などといっている場合ではないのだ。
「つぎねふや」の枕詞が生まれたあとから「やましろ=山道」という言葉がくっ付くようになっていった。それがもし山で迷ったときから生まれてきた感慨であるのなら、「山道=やましろ」にかかるようになってゆくのは当然のなりゆきだろう。
起源においては、枕詞が先にあった。プリミティブな枕詞はみなそうだったのであり、あとにかかる言葉を修飾するために生まれてきたのではない。
枕詞は、感慨を表出する言葉として生まれてきた。
歴史家の考えは、あと先が逆になっている。
今回、最初に引用した「あじさはふ」と「つぎねふや」の感慨はちょっと似ている。はじめに「わかりたい」という不安が沈潜している「あじさはふ」という枕詞があり、それがその根拠である「目」にかかるようになっていった。
ただ、「つぎねふや」の方がもっと原初的で切実である。
いずれにせよ、何かを知ろうとするのは人間の本能のようなものだ。そしてそれは、未来のことが知りたいというのではない。今ここに生きてあることの根拠がわからない、知りたい、という「帰心」のような感慨なのだ。
「あおによし」という望郷の念だって、ひとつの「帰心」である。
「いめたてて」や「うちひさす」や「しなざかる」だって、つまるところぜんぶ「帰心」なのだ。
そういう不安定な「いまここ」の根拠が知りたい、つまり不安定な「いまここ」の「けがれ」をそそぎたいという本能的な願いが、枕詞のあとにかかる言葉を生みだしていった。
枕詞は、そうやって次の言葉にかかりながら、その胸に溢れる思いがあからさまになってしまうことを隠している。はにかんでいる、というのか。
その胸に溢れる思いは生きてあることに対する「けがれの自覚」をともなっている。その思いを全部吐き出してしまいたいと同時に、隠してもおきたい。隠しつつ、吐き出してしまいたい。
思いが胸に溢れてくるから、隠そうとする。
隠す作法、これは日本列島の伝統である。隠している「姿」になろうとする。その姿を見るのが、伝統の美意識である。そしてそういうことはもう、枕詞が生まれてきた縄文時代からはじまっている。



まあ、プリミティブな匂いのする枕詞のほとんどは、「語義未詳」と記されている。いろいろこじつけの解釈は出回っているが、それでは説得力にはならない。
しかし古代以前の人々はそのニュアンスを豊かに感じながらその枕詞を使っていたのであり、同じ人間だもの、われわれがそこに推参するすべがないとはいえない。
意味のこじつけをしていると間違う。ひとまずそのことは忘れて、その音声の一音一音に耳を澄ませ追いかけてゆくしかない。
初期の枕詞は、歌が表現する「姿」において、現代人が考えるよりもずっと大きな役割を担っていた。「姿」こそが主題なのだ。
賀茂真淵は『冠辞考』の中で「枕詞の役割は歌の調子を整えることにある」などといい、現在でもその御託宣を後生大事に守って吹聴しているインテリがたくさんいるが、それだけではすまない枕詞を発せずにいられない感慨があった。
枕詞は、そんなことのためにあとから生み出されてきたのではない。
はじめに枕詞があったのだ。「松島や ああ松島や 松島や」と詠うように。
「つぎねふや ああつぎねふや つぎねふや」というような感慨があったのだ。
枕詞をもとにして歌が生まれてきたのだ。
それは、「歌の調子を整える」というようなことではない。日本列島の住民は、しゃべりながら次の言葉を探してゆく。「なりゆき」でしゃべる。英語のように最初に文節をイメージし終えてからしゃべりはじめるのではないし、最初に歌の全体をイメージしてから詠いはじめるのではない。したがって、歌の全体の調子を整えるというこざかしい作為など思い浮かべようもない。そういうことは、文字を覚えてから生まれてきた技巧にすぎない。
まず、歌わずにいられない言葉が発せられるだけだ。それが、枕詞である。
歌は、どのようにして生まれてきたか?
歌おうとして生まれてきたのではない。気がついたら歌になっていただけであり、気がついたら枕詞を発していただけだ。
賀茂真淵の思考だって粗雑すぎる。それが「音声」であるということは、たんなる「歌の調子」だけの問題ではない。その歌の感慨=主題は、「音声」という「衣装」こそがまとっているのだ。枕詞は、根底から問い直されねばならない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。
人気ブログランキングへ