「たくつのの」・起源としての枕詞 16

<はじめに>

御訪問、ありがとうございます。
僕は、ふつうに社会人生活をしていれば、定年を迎えてひと仕事すませた気分になれるような年まで生きてきてしまいました。それなのに、どこをどう間違ったのか、自他ともに人並みと認められるような生活とは、もう20年以上縁がありません。そのあいだ、何をしてきたのかと問われても、ひと口に答えることはできませんが、ずっと考えてきたことがひとつだけあります。それが「人間とは何か」ということです。
人間とは何か、生きてあるとはどういうことか、その根源というか普遍に迫りたい、どうしても知りたいと思ったら、現代都会人の表層的な心象だけ考察して終わりというわけにはいきません。たとえば、今のわれわれ日本人は戦前の日本人の直系のせいぜいが二代目三代目の子孫で、生き物としてはまったく同じとしか表現のしようもないでしょうが、それでも戦前の祖先の生活や心象についてはよほど想像力をたくましくして思考実験をくり返してみない限り、ほんとうのところどうだったのか、なかなか見えてきません。
で、もっともっとと根源を問うてゆくうちに、とうとう直立二足歩行の起源に辿り着いてしまいました。
このブログは、直立二足歩行の起源やネアンデルタール人にまでさかのぼったところからはじめた、いわば人類論です。2006年の12月に書きはじめ、あちこち寄り道したり脱線したりしながらも、「人間とは何か」という一貫したテーマで書き続けてきました。
お手本のテキストもなく師も同伴者もいない孤立無援の作業だし、真実を確認することのできないテーマがほとんどだから、ときには足踏みしたり虚しくなったりしてしまうこともあるけれど、どこかで誰かも同じ問いを同じように途方に暮れながら宙に向かって問い続けているのではないか、という希望も捨ててはいません。そんな誰かに是非読んでもらいたいし、できればコメントももらって語り合いたいという気持ちを抑えきれず、思い切ってブログランキングに登録しました。興味を持ってくださる方は下のマークのクリックをお願いします。そうすることで少しでも多くの人の目に触れ、できれば建設的な反論や、論理的な穴や甘さの指摘などもしていただけるようになったら、望外のよろこびです。
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<本文>

「たくつのの」・起源としての枕詞 16



賀茂真淵は、枕詞をこのように定義している。
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ただ歌の調べのたらはぬを、ととのへるより起きて、かたへは、詞を飾るもの(『冠辞考』)
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枕詞は歌の調べ(調子)を整えるためにあり、もうひとつの役目はあとにかかる言葉を飾るためにある、というようなことだろうか。そして現在の多くの研究者がこの考えを踏襲している。
しかし古代人は、ほんとうに「歌の調べ」を第一にして歌っていただろうか。枕詞は、そんな「飾り」にすぎなかったのだろうか。
違う。
万葉集があんなにもたくさんの「詠み人しらず」の歌が収録されているということは、古代以前からすでにそうした短歌が民衆によっても詠まれていたということを意味する。そして彼らは、自分の歌によって相手を感動させようという目的などなかった。彼らにとって歌は他者と感慨を共有してゆくための道具だったのであり、歌を詠むことはひとつの「対話」の作法だった。
べつに、自分を表現する芸術などというものだったのではない。彼らが扱う枕詞には、「調べを整える」という意識も「詞の飾り」という意識もなかった。
起源の歌は、短歌の31音が並べられたものではもちろんなく、「感慨の表出」としての枕詞のような言葉をひとつ差し出しただけだろう。
そしてそれによって相手を感動させようというつもりなどなく、それを相手も共有しているかどうかを問うただけだった。相手の心を動かすために歌ったのではない。同じ感慨を共有していますか?と問うただけだ。
何かを表現したり描写したりして、相手に伝えようとしたのではない。伝わることは最初からわかっている。枕詞は、あらかじめみんなが共有し知っている言葉である。その中のひとつを選択して差し出すのだから、意味なんか伝わるに決まっているし、伝わることが前提で差し出している。
伝えようとする意図も表現しようとする意図もない。
ただもう、共有しているかどうかを問うていったのだ。
枕詞は、あらかじめ誰もが知っている言葉である。そして最初は、全体の調べを整えるまでもなく、それだけが差し出され、それだけを交歓しあっていた。
真淵はこういう。
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思ふこと、ひたぶるなるときは、言(こと)足らず…略…思う事を末にいひ、仇(あだ)し語(こと)を本(もと)に冠(かぶ)らす。
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思うことが「ひたぶる」であるのなら、思わず口の端から音声がこぼれ出てしまうではないか。それが人間の根源的な生態である。
枕詞は「仇(あだ)し語(こと)」か?それはたいして意味のない飾りの言葉、と彼はいう。まあ、枕詞の研究者はみなそのようなことをいっている。
たとえば、彼らにとって「あをによし」や「あしひきの」はただの「仇し語」で、「あをによし奈良の都」とか「あしひきのこのかた山」ということによって歌の調べが整う、という。そのようにいえば、なんとなく調子がいい、それだけのために枕詞があり、それこそが「歌の命」だったのだと彼らはいう。
冗談じゃない。「あをによし」は「望郷」の感慨を表し、「あしひきの」は「孤独」の感慨を表し、それこそが歌の主題であり歌全体の通奏低音になっているのだ。ただの「仇し語」ではないし、歌の調べを整えるためでもない。それこそが作者のもっともいいたいことだったのだ。そして古代人は誰もがそれを知っていたし、その枕詞の感慨を共有できるかどうかということこそが「歌の命」だった。
古代においては、「あをによし〜」と詠みはじめれば、それが望郷の念を詠っていることを聞く者の誰もが知っていた。万葉集の中の「あをによし」の歌は、例外なくすべて望郷の歌である。
枕詞は「歌の調べを整える」ために機能していたのではなく、「歌の主題」であった。そしてその思うことを「最初に差し出す」のが古代人の歌の作法だった。なぜなら、その起源においては枕詞だけを差し出していたのだから、そういう作法になってゆくのはもう歴史の必然だろう。
歌人が「歌の調べ」などというものを意識するよりずっと前から、すでに枕詞は存在していた。歌の調べを整えるために枕詞を差し出したのではない。まず枕詞という歌の主題を差し出し、そのあとにそこから連想される事物が詠われていったにすぎない。
古代人は、何はさておいても枕詞が詠いたかったのだ。そのあとにつらなる表現こそ枕詞の飾りの「仇し語」だともいえる。
賀茂真淵も現在の研究者も、その枕詞の理解が根底的に倒錯している。
古代人は、誰もが知っているその枕詞の感慨を相手と共有したかっただけで、何かを表現するというようなことは二の次だった。自分を捨てて枕詞を差し出していった。彼らにとって歌は他者との対話であり、しかもそれは他者に向かって何かを表現したかったのでも何かを伝えたかったのでもない。他者の心を動かしたかったのでも説得したかったのでもない。
誰もが知っている枕詞を、ありったけの思いとともに差し出したのだ。
それは、他者を「説得」したのではない、他者に「問う」作法だった。
言葉が集団によって共有されているものであるということは、言葉の根源的な機能は「説得・伝達」にあるのではなく、「問うて共有してゆく」ことにある、ということだ。「問う」ことによってはじめてそれが共有されてあることがわかる。共有されてあることがわかって、はじめてそれが集団の言葉として認知される。
古代以前の人々は、そのようにして言葉を扱っていたのだ。
起源としての歌においてはその枕詞の感慨が共有されていることを問うていっただけであり、それが古代の歌の基本的な作法だった。彼らにとっての歌は、人と人が感慨を共有してゆく対話の道具だったのであって、自分の「表現」を披歴するための芸術でもなんでもなかった。
まあ万葉の時代になっても、誰もが枕詞がまとっている感慨のあやをちゃんとわかって共有していたのだが、現代の研究者にはそこのところが見えなくなってしまっている。



古代人は、枕詞によって、その音声がまとっている「心のあや」を表出していった。
言葉の「音声=姿」、「姿」に対する美意識こそ、日本列島の伝統である。
たとえば「ひらがな」は、漢字にまとわりついている「意味」を引きはがし、「音声」だけを記述する機能として生まれてきた。
古墳時代の文字の輸入以来、それなりにやまとことばの文字表記ということに四苦八苦してきた歴史があり、その果てにひらがなが生まれてきた。
やまとことばは、言葉にひとつの意味がまとわりついてしまうことを嫌う傾向がある。
言葉から「意味」という肉体を引きはがそうとしてひらがなが生まれてきた。よけいな「意味」を引きはがさないと、もともと言葉が音声としてまとっている「感慨のあや」が消えてしまう。
「あおによし」は「奈良」を修飾しているとか、「あしひきの」は「山」、「たらちねの」は「母」、「あまざかる」は「ひな」、「ぬばたま」は「黒」にかかるとか、また「たまかつま」は「美しい籠」のことで「ぬばたま」は「ヒオウギの実」のことだとか、枕詞がそういうひとつの具体的な事物の「意味」をまとって機能しているということは、やまとことばの性格上あり得ないのだ。それらは対の関係になっているとしても、枕詞があとにかかる言葉を修飾しているわけではない。そういう安直な方法論で解釈するとぜんぶ間違う。
あとの言葉は枕詞から連想されてゆくだけで、あとの言葉を飾るために枕詞がかぶせられているのではない。
起源としての「ぬばたま」という枕詞は「ヒオウギの実」のことではなかった。途方に暮れる心が胸に満ちていることを表す言葉だった。ひとことでいえば「絶望」ということだろうか。枕詞はそういう「心のあや」をまとっているだけで、何か具体的な「意味という肉体」を持っていたのではない。
やまとことばとは、そういう言葉なのだ。
枕詞にはそういう「音声=姿」のあやがあるだけで、あとの言葉を修飾するような限定された「意味¬=肉体」を持っているのではない。そして、持っていないからこそそれは、歌の主題になり得ていた。 



「栲綱(たくつの)の」という枕詞がある。「新羅」にかかるらしい。
「たくつのの新羅ゆ」といえば、新羅から渡来してきた人の感慨を想像しているのだろう。
「栲(たく)」は「こうぞ」という樹木のことで、「つの」はなぜか「綱」という字を当てる。
栲(こうぞ)の繊維で編んだ綱は「白い」から、「しら=しろ」すなわち「新羅」にかかるのだとか。
そうだろうか。
「たく」は、「屈託」の「たく」かもしれない。
「く」は「組む」「苦しい」の「く」、ややこしいこと、鬱陶しいこと。それが「立つ」から「屈託」という。「まったく」とは、良くも悪くも気持ちの流れがせき止められること。
「たく」とは、閉じ込めること。「たくらむ」とは、罠に閉じ込めることだろう。つまり、鬱陶しいとか思い悩むことを「たく」という。
「つの」は「角」「募る」の「つの」。「つ」は「付く」、「の」は「乗る」。「角」は、頭にくっついて乗っかっている。「募る」だって、くっついて乗っかってゆくことだ。「さびしさが募る」といえばさびしさがくっ付いて乗っかってくることだし、貯金をすることや募金をすることだってまあそういうことだろう。
「たくつの」とは、鬱陶しさや悩みが募ってくること。
古代の朝鮮半島からの渡来人のほとんどは、故国にいられない事情があってやってきた、いわば難民である。だから、そういう苦悩を抱えている人たちのことを「たくつのの人」と呼んだのではないだろうか。
この文字表記からはいちおう「栲の繊維から編んだ綱は白いから新羅にかかる」というように解釈できるが、これでは枕詞はほんとにただのお飾りになって、歌の情趣にはなんの関係もないことになる。
しかし古代人には、「たくつのの〜」と詠み上げる万感の思いがあったのだ。
大伴坂上郎女が親しくしていた新羅からの渡来人の尼の死を嘆き悲しんで詠んだ長歌は、「たくつのの」からはじまる。
・・・・・・・・・
■たくつのの 新羅の国ゆ 人ごとゆ よしと聞かして 問ひさくる 親族兄弟(うからはらから)なき国に 渡り来まして…中略…くれくれと 隠りましぬれ 言はむすべ せむすべしらに 袂ほり ただひとりして しろたへの 衣手(ころもて)干さず 嘆きつつ わが泣く涙 有間山 雲居(くもゐ)たなびき 雨に降りきや
・・・・・・・・・
作者は、この「たくつのの」という歌い出しの言葉に万感の思いを込めたはずである。「たくつのの」という音声がまとっている「感慨のあや」がある。まずそう詠み上げてしばらく間を置き、それからおもむろに「新羅ゆ……」と続けていったのだろう。
この枕詞は、「新羅」をいうためのただの飾りではない。独立した歌の主題の表出である。新羅からやってきた彼女がどんな思いでこの国で生きてきたかを思えばかなしくてたまらない。いや、そういってもまだ足りない。そういう思いをこの「たくつのの」という言葉に込めていたのだ。この枕詞のニュアンスが、この長歌の全体を覆っている。
万葉集長歌は、枕詞のオンパレードである。次々に枕詞を差し出し、そのあいだに説明のような言葉をはさんでゆく。枕詞を並べてゆくことが長歌の作法である。古代人は、このような歌を即興で詠っていた。誰もがすでに知っている枕詞を並べてゆくことが作法だったからこそ、即興が可能だったわけで、枕詞のあとのあとにさしはさまれる言葉は、枕詞から連想されていった言葉だった。
この長歌の後半の枕詞は「くれくれと」からはじまり「袂ほり」「しろたへの」「有間山」と続いてゆく。
「くれくれと」はただの形容詞だといっても、その感慨を表す形容詞を枕詞として使ったらいけないという決まりもない。ひとまずこれは、枕詞として置かれている。「くれくれと隠れましぬれ」とは、「病に侵されながら次第に衰弱して死んでしまわれた」というようなニュアンスだろうか。
「袂(たもと)ほり」は、語源的には、着物の袂をどうするというような言葉ではない。もともとの「たもと」とは「思い出」という意味だった。「元が立つ」、すなわち「記憶がよみがえる」こと。昔の袂はまあポケットがわりで、家に帰るとそこからいろんなものが出てきて外での記憶がよみがえる。たとえば木の枝を折ったときに知らぬ間に入りこんだ葉っぱとか。それで、あとの時代になって「袂(たもと)」というようになっていったのだが、もともとは「思い出」とか「記憶がよみがえる」という感慨を表す言葉だった。
「袂を分かつ」とは「共有している思い出を分かつ」ということで、「袂」という字を書いても語源は「思い出」なのだ。
で、ここでの「袂ほり=思い出を掘る」とは、すなわち思い出をまさぐること。
「しろたへの」といえばもう、あとの時代には「真っ白な」と訳せばいいだけのように合意されているが、もともとの「しろ」は「頼るものがない心細さ」とか「余計なことを考えない無垢な心」を表す言葉だった。そこから、山の中の草も木も生えていない場所すなわち山道のことを「やましろ」というようになっていった。そして「たへ」は、「つくづくそう思う」ということ、「耐える」「堪える」の語源。つまりここでの「しろたへの」は、「ほかのことは何も考えられない」というか「頭の中が真っ白になてしまう」というか、そんな感慨を表している。
そして「有間山」は、実際にそんな名称の山があったかどうかということ以前に「ありまやま」という音声を発することの感慨が古代人のあいだで共有されていた。ひとつのことがらを確かなこととして納得してゆくことを「ありま」といった。現代人が「あらまあ」と驚き納得するのと別の言葉ではない。この場合なら、あの人はもう死んでしまったということがひしひしと胸に迫ってくること。その思いが山のようにふくらんでくるから「ありまやま」といった。
その「ありまやま」という感慨の連想として「雲居たなびき雨に降りきや」という表現につながっていった。
この「雲居たなびき……」は、「ありまやま」という感慨のメタファー(隠喩)である。
小林秀雄は「枕詞は原始的なメタファーである」といっているが、そうではない。枕詞は何より直截な「感慨の表出」だったのであり、枕詞に続く言葉こそ枕詞のメタファーだったのだ。
「雲居たなびき雨に降りきや」といっても、作者はそんな自然を描写したかったのではない。この表現の主題は、あくまで「ありまやま=大切な人の死を思う心」であるに決まっている。そのメタファーとして「雲居たなびき 雨に降りきや」といっただけのこと。賀茂真淵の説なら、「雨に降りきや」がいちばんいいたかったことになる。これは、雨のことを詠んだ歌か。「ありまやま」は、「雨」を修飾しているのか。そうではない。「雨」が「ありまやま」を修飾している。
吉本隆明氏は「人類ははじめに事物(自然)の描写を覚え、それを心の表現に転化していった」といっておられるが、そうではない、はじめに心の表現が生まれ、それが事物(自然)の描写の言葉に転化していったのだ。
言葉の起源において、「やあ」とか「ねえ」という音声を笑顔とともに発すれば、この相手は自分に親密な感情を持っていると判断できる。そのようにして心の表現が豊かになっていったのが初期の言葉の歴史で、その歴史の上に事物(自然)の描写が生まれてきた。
この歌では、「ありまやま」という枕詞によって、「雲居たなびき 雨に降りきや」が心の表現のメタファーであることがわかる。そしてそれがわかるのは、枕詞の作用だけでなく、「雲」とか「たなびく」とか「雨」とか「降る」という言葉そのものがもともと心を表現する言葉だったからであり、古代人にはまだ、そうした原初の言葉のタッチの記憶が残っていた。だから、「くも」と聞いて、事物(自然)としての「雲」よりもまず「心が曇る」というニュアンスを感じ取っていた。
はじめに「(心が)くもる」という表現があって、そこから事物(自然)を表す「雲」という言葉が生まれてきた。「たなびく」は、「親愛の情がひっそりと漂っているさま」を表す言葉だった。古代人は「くもいたなびき」と聞いただけでもう、その事物(自然)よりも先に「死者をいとおしむ嘆き(=くも)がひっそりと漂っている心のさま」を思い浮かべた。
「ことだまの咲きはふ」とは、じつはそういうことなのだ。「ことだま」とは、「言葉の霊魂」のことではない。そんな解釈は現代人の勝手な思い込みで、古代人の心ではない。少なくとも古代以前の人々は、ことだまの「たま」は「霊魂」のことだとは思っていなかった。
「ことだま」の「たま」は「心のあや」のことだ。言葉=音声は「心のあや」をまとっている。プリミティブな言葉ほど、「心のあや」の表出を色濃くまとっている。言葉は、「心のあや」の表出として生まれ育ってきた。
古代以前の人々は、自然の描写を心の表現にしていたのではない、心の表現を自然の描写にしていただけなのだ。古いやまとことばは、どんな事物(自然)を表す言葉だろうと、その音声そのものに「心のあや」をまとっていた。
それでもまあ事物は事物なのだが、枕詞だけは、真っ先に「心のあや」思い浮かべる言葉として合意されていた。その枕詞から事物を連想してゆくのが歌の作法だった。「雲居たなびき 雨に降りきや」という描写は、「ありまやま」という純粋な「心のあや」の表現から連想されていった。そこから連想されていることを誰もが知っているから、「くもいたなびき」という音声に「死者をいとおしむ嘆きが漂っている心のさま」を思い浮かべてゆくことができた。
そのとき人々は、雲がたなびく自然の情景から作者の嘆きを連想し汲み取っているのではない。その「くもいたなびき」という音声そのものから直裁にその「心のあや」を汲み取っている。そうしてその「心のあや」を「雲居たなびき」という自然の情景に溶け込ませていった。
「くもいたなびき」と事物(自然)の描写のふりをしながら、じつは、すでにその音声が「心の表現」をまとっている。それはもうメタファーともいえない、それ自体すでに直截な心の表現だった。
その「雲居たなびき」という描写には、それ自体ですでに、「死者をいとおしむ嘆きが漂っている心のさま」という心の表現から事物(自然)の描写へと転化していった言葉の歴史を含んでいる。そしてそういう言葉に対するイメージのふくらみは、「ありまやま」という枕詞によってもたらされている。
枕詞は、それ自体独立して、どんな言葉も修飾していない。あとの言葉が枕詞を修飾しているのだ。
この歌は、「くれくれと」から「袂ほり」「しろたへの」「ありまやま」と枕詞を畳みかけながら作者の嘆きが極まってゆく過程をみごとに表している。
まあ、あらかじめ用意されている枕詞がなければ、そうかんたんに即興の長歌なんか歌えないし、古代においては枕詞こそが歌の主題だった。



「たくつのの」という枕詞を「栲(こうぞ)の綱」と書いたのは、たんなる便宜上のことだ。それを後世の人間が真に受けて、かえってその言葉がまとっている豊かなニュアンスをそぎ落としてしまった。
まあ一事が万事、現在の枕詞研究は、この調子ですべての枕詞を無味乾燥なものにしてしまっている。
文字表記に惑わされてはいけない。文字表記にしか手がかりがないといっても、そこに真実があるとはかぎらない。
万葉人は、このような紛れを嫌がって万葉仮名を生み出し、それがやがてひらがなになっていったのだ。
そうして和歌はすべてひらがなで書いていた時代もあった。
それほどに漢字が持っている意味作用は、和歌の情趣を骨抜きにしてしまう。
枕詞はほんらい感慨のあやの表出であり、「ひらがな」で表記されるべき言葉なのだろう。
原初の言葉は、「伝達の道具」として生まれてきたのではなく、思わず発してしまう音声の交換だったはずである。これはもう、疑いようがないことだろう。
言葉を生み出す前に言葉を知っていたはずがない。
言葉を知らない人々の口の端から思わず発せられるさまざまな音声があった。人間には、さまざまな音声を発してしまうようなさまざまな感慨があった。
そうしてそれがやがて言葉であることに気づいていった。
しかしその音声を意図して発することができるようになるまでには、さらに長い歴史の時間を要したことだろう。
原初の人々は、音声が「感慨」からこぼれ出てくるものだということを自覚していた。
その感慨の表出という原初の作法をそのまま洗練させていったのが、やまとことばだった。
それは、「伝達の道具」というより、人々が「感慨を共有してゆくための道具」だった。
枕詞があとにかかる言葉の意味を修飾しているのだとしたら、それは「伝達」の機能である。
しかし枕詞は、「あなた」にその意味を伝達するための言葉ではなかった。「あなた」とその言葉がまとっている感慨のニュアンスを共有してゆくための言葉だった。
縄文時代の歌垣で、男が女に歌を差し出すとき、枕詞を共有できるかどうかが勝負だった。最初の歌垣は枕詞しかなかった、ともいえる。
古代人にとって枕詞がまとっている感慨のニュアンスを共有してゆくことがどれほど大事なことだったか。
枕詞がただあとにかかる言葉を説明するだけの意味作用しか持っていないのなら、それによって集団や男女が親密になってゆくという機能などほとんどない。
まず枕詞で盛り上がり、枕詞で親密になっていったのだ。
古代人は、自分を表現するために歌を詠んだのではない。自分を捨てて相手やみんなの心
に響く言葉を探していっただけだ。
自分を表現しようとするものは、相手に意味を伝達し説得しようとする。そうしないと、自分を表現したことにはならない。
それに対して、祭りの場に立てば、誰もが同じ世界との関係の中に置かれていることに気づく。その共有している世界との関係の感慨を差し出してゆくのが枕詞の作法だった。
葬式の場に立てば、誰もが死者との関係を共有している。大伴坂上郎女が「たくつのの」と詠い出したのは、そこに誰もが共有している死者との関係の感慨があったからだ。
感慨の表出の言葉は、自然に口の端からこぼれ出てくる。
枕詞は、自然に口の端からこぼれ出てくる言葉でもあった。
枕詞は、即興の言葉だった。
即興の言葉は、自然に口の端からこぼれ出て、自分を表現しようとする意図も伝達の意思も持っていない。自分が立っている「いまここ」のこの世界から急かされてこぼれ出てきた言葉である。
つまり、即興の言葉である枕詞には、自分も自分の根拠である霊魂も宿っていない。
そのときの自分は、中身は「からっぽ」の「姿」だけの存在になっている。そしてそこにこそ、より豊かな「感慨のあや」が表出されている。



万葉集は、せんじつめればすべて「別れのかなしみ」を詠っている。それは、身体が「からっぽ」になってゆく感覚である。そうやって人は「さようなら」といい、死者を見送り、他者や世界との関係にさまざまな感慨を抱いていった。
「別れのかなしみ」が胸の奥に息づいているから、さまざまな感慨が生まれてくる。
彼らは、世界の「意味」を表出するよりも、「感慨」を詠わずにいられなかった。
何はともあれ生きてあることはこの身体がこの世界と分かたれてあることであり、死んでゆくことは他者や世界との別れを果たすことだ。
「別れのかなしみ」が万葉集通奏低音であるということは、人々はつねに自分のことよりも他者や世界のことばかり思っていたということを意味する。
自分が死んでどこに行くかということなどどうでもよかった。何はともあれ、それは、他者や世界との別れを果たすことだ。
心はいつも、他者や世界に向いていた。そしてそれが、「からっぽの身体」になるということだった。
人は、「別れ」においてもっとも他者に対するいとしさがこみ上げる。死者を前にすれば、泣かずにいられない。
古代および古代以前は、避けがたく「別れのかなしみ」が起きている社会だった。彼らにとって「別れ」は大切な体験であり、それが彼らの死に対する親密さだった。
別れのかなしみと死に対する親密さこそ、人間の根源的原始的な感情である。そしてこれが、日本列島の「姿」の美意識の根底に潜んでいるものでもある。
「からっぽの身体」になって世界と向き合っていることのカタルシスがある。古代人にとっては、別れのかなしみもひとつのカタルシスだった。
何かにつけて「共生」という言葉が叫ばれている現代社会は、他者との関係に「別れのかなしみ」のタッチを失っているのかもしれない。
古代社会は、「別れのかなしみ」を含みながら人と人が向き合っていた。他者と共生して支配し裁き合うよりも、たがいの関係に「すきま」があった。その「すきま」に「別れのかなしみ」が宿っている。たがいに向き合っているというそのことに「別れのかなしみ」があった。
人と人のあいだには「すきま」があるから、他者に対するさまざまな感慨が生まれてくる。
それは、彼らの死生観でもあった。人々は「別れのかなしみ」を携えて死んでゆき、「別れのかなしみ」とともに見送った。自分が死んだら霊魂はどこに行くのかとか、そんなことは思いもしなかった。
彼らの意識は、「いまここ」の世界や他者にちゃんと焦点が結ばれていた。
そして日本列島は、万葉集から現在の演歌まで、「別れのかなしみ」のカタルシスを歌ってきた。
それは、意識が世界や他者に向いて自分の身体は「からっぽ」になっている、ということだ。
他者との関係がくっついていれば、意識は自分に逆流してくる。離れて「すきま」があるから、他者や世界に対するさまざまな感慨がわいてきて、みずからの身体は「からっぽ」になってゆく。
古代人の生は、そういうカタルシスの上に成り立っていた。枕詞は、そのような身体感覚から生まれてきた。ここでいう「別れのかなしみ」は、ただ死者や大切な人との具体的な別れだけのことをいっているのではない。彼らの世界観や生命観そのものが「別れのかなしみ」の上に成り立っている、といいたいのだ。
「別れのかなしみ」は、人類が原初以来引き継いできた数百万年の歴史の無意識である。
まず、二本の足で立ち上がって猿であることから決別したところから歴史がはじまっている。そうしてさまざまな出会いと別れを繰り返しながら、地球の隅々まで拡散していった。
われわれの歴史の無意識には「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」が組み込まれている。
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