ひさかたの・「天皇の起源」75


枕詞をひとつひとつ検証していたらきりがない。なにしろ千以上もあるというのだから。
ともあれここではいま、既成の枕詞に対する認識を根底的なところで問い直したいと思っている。
枕詞は、あとにかかる言葉を修飾しているだけの機能として用いられてきたのではなく、それ自体が歌の主題として独立している言葉だった。
また現在では、それが意味のよくわからない言葉であるということから、歌の全体の調子を整えるための言葉だともいわれているのだが、それは枕詞が形骸化してきた平安時代以降の作歌の作法で、原初的な本来の機能ではない。
意味がよくわからないといっても、現代の研究者の脳みそではよくわからないというだけのことで、初期の人々は、ちゃんとその言葉のニュアンスを自覚して使っていたはずである。
誰もが先例にしたがって使っていたというが、先例がないと使いようのない言葉など、論理的に生まれてくるはずがないではないか。
ちゃんとそのニュアンスを自覚しながら生まれ育ってきたに決まっている。
その言葉がまとっている意味なり感慨のニュアンスに気づいたから使うようようになっていったのであり、使わずにいられなくなっていったのだ。
意味というか感慨のニュアンスがはっきりしていない枕詞などひとつもないはずだ。
現代人にそれを読み取る能力がないだけのことだろう。



「あおによし」は、意味のよくわからない言葉ではなかった。「やみがたい望郷の念」というニュアンスをちゃんと持っていた。その「あおによし」という音声の響きに耳を澄ませば、現代人にだってわからないわけではないし、われわれは無意識のどこかでそのニュアンスをキャッチしているから「あおによし」とか「たらちねの」という枕詞が好きなのだ。
「ちはやぶる」とは「なんと絢爛豪華・縦横無尽であることよ」という感動を表す言葉であり、ただ意味もなく「ちはやぶる神」という言い習わしていたのではない。
まず枕詞という主題を差し出しておいてそこから詠いはじめるのが古代以前の歌の作法だった。
「ひさかたの」と言えば「天(あま)」とか「空」とか「雲」とか「光」にかかる枕詞だといわれているが、意味はよくわかっていない。
「ひさかたぶり」とは「ひさしぶり」のことだから「ひさかたの」は「ひさしぶり」のことかとかといえば、そうとはいえない。「ひさかた」と「ひさかたぶり」は違うのはあたりまえのことで、「ひさかた」が「ひさかたぶり」であるのなら、「ひさかたぶり」とは「ひさかたぶりぶり」ということになってしまう。
「ひさかた」の「ひ」は「ひっそり」の「ひ」、「秘密」「秘匿」の語義。隠れているもの。
「さ」は、「裂く」「去る」の「さ」。離れてゆくこと。「さあ?」といぶかるのは、答えから離れてゆくことだ。そして「さあ行こう」という場合も「離れてゆく」ニュアンスであり、「さあさあどうぞ」というときは、遠慮やかしこまった気持ちから「離れてゆく」ことをうながしている。
「ひさ」とは、ひっそりと離れてある感慨や物事、すなわちひそかな感慨や物事、あるいははるかな感慨や物事のこと。
いまや「ひさぐ」といえば「売る」ということになっているが、それは近世以降に定着してきた意味であって、もともとは「大切なものを差し出す」とか「秘密を告白する」というようなニュアンスで使われていた言葉だった。なぜ売春のことを「春をひさぐ」というかは、語源のそういうちょっと切ないニュアンスから生まれてきたのだ。
「かた」は、「傾く」の「かた」。気持ちが一方に傾いてゆくこと、すなわち決心すること。これを「ひさかた」という言葉に挿入すれば、「思いをはせる」というニュアンスになる。
「ひさかた」とは、ひそかなものやはるかなものに思いをはせること。
懐かしい人や物事と再会して、遠い過去に思いをはせて気持ちがふるえたりときめいたりしているから「ひさかたぶり」という。
「ひさかたの」という枕詞のかかり方はじつに多様である。「天(あま)」「空」「月」「雲」「雨」「光」「夜」「都」等々。
そこで一般的には、「主に大空にかかわる語にかかる」枕詞で、語義は「天を永久に確かなものとする意」などと説明されている。
しかしそういうことではないのだ。そんなこじつけをしていたら、例外がいくつもこぼれ出てくる。「都」が、どうして「大空」なのか。
「ひさかたの」は、「大空」のことを表しているのではなく、「大空に対する感慨」を表しているのだ。そしてそれは、「天を永久に確かなものとする意」などということではない。
「ひさかたの」は、「ひそかなものやはるかなものに思いをはせる感慨」を表しており。そういう感慨の表現が主題であるときに枕詞として使われる。



万葉集から。
・・・・・・・・・
ひさかたの 月は照りたり暇(いとま)なく 海人(あま)のいざりは灯(とも)しあへり見ゆ
・・・・・・・・・
「いざり」は「漁火(いさりび)」のこと。
べつに月を賛美している歌でもないだろう。「月は照る暇もなく」と、むしろ月を否定している。このような「月」を飾るために「ひさかたの」という枕詞を持ってきたとしたら、まったく言葉の無駄使いであり、この歌はどうしようもない駄作であるということになる。
べつに「月」という言葉を飾るために「ひさかたの」を置いたのではない。「ひさかたの」とい枕詞の存在感を際立たせるために「月」という言葉を置いたのだ。
この歌の「ひさかたの」は、形式的には「月」にかかりながら、実質的には「灯しあへり見ゆ」にかかっている。そうやって漁師たちは闇の中で「ひさかた=はるかに遠いものに思いをはせる感慨」を交歓し合っている、と詠っている。
この歌の主題は、そのような「ひさかた」の感慨にある。
隠されて見えないものやはるかに遠いものに思いをはせる感慨のことを「ひさかた」という。だからそれは、旅人にとっての「都」でもいいのだ。
「ひさかたの」という音声に耳を澄ませてみればいい。あなたはそこに「天を永久に確かなものとする意」などというものを感じるか。そうではなく、「ひそかなものやはるかなものに思いをはせること」を「ひさかたの」という。そういうちょっとひんやりとして透明感のある響きの音声ではないか。
枕詞はあとの言葉を修飾しているのではなく、それ自体独立した言葉であり歌の主題である。
「ひさかたの」が「月」を修飾しているのではなく、「月」が「ひさかたの」に寄り添って(従属して)いるのだ。
この歌の作者はまず「海人のいざりは灯しあへり見ゆ」という情景を詠おうと思った。そして、漁師が漁火でたがいの姿を確認し合っているのは、ひそかなものに思いをはせる「ひさかた」の感慨だと気づいた。で、最後に、その「ひさかたの」を修飾するための「月」という言葉を使った「月は照りたり暇なく」というフレーズを挿入した。まあ「月」は、「ひさかたの」に従属したただの付け足しの言葉だともいえる。
ここでは、「月」という言葉よりも「ひさかたの」という枕詞の方がずっと重要な役割を担っている。



「ひさかたの」を使ったいちばん有名な古今集のこの歌も挙げておこうか。
・・・・・・・・
ひさかたの光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらむ
・・・・・・・・
既成の解釈のほとんどは、この歌の「ひさかたの」は「光」のさまを説明・修飾している、ということになっている。
しかし「光のどけき」といっているのだ。光のさまは「のどけき」が説明・修飾している。
そこで、「ひさかたの」が説明・修飾しているのは「光のどけき春の日」の「日」である、という説もある。
だが、これでもまだ不満だ。「日」のことは「光のどけき春」がちゃんと説明・修飾している。
そういう春の日の情景ののどかさを演出する機能として「ひさかたの」という枕詞が置かれているのではない。
「ひさかたの」という音声には、ちょっとひんやりして透明でさわやかな語感があるとしても、春うららの「のどかさ」の語感はない。
「ひさかたの」が何を修飾しているかとあえていうなら、「光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらむ」というその現象を修飾しているのだ。
世界中がうららかにたゆたっているようなこののどかな春の日に、桜の花だけが生き急ぐように(=しずこころなく)散ってゆく、と詠っているのだろう。
その、はるかなものに思いをはせる生き急ぐような心こそ「ひさかたの」なのだ。
この「ひさかたの」は、のどかな春の日に対するオマージュでもなんでもなく、桜の花に対するオマージュの言葉であり、さらにいえば、桜の花が散ることに対するオマージュなのだ。桜の花が秘めている生き急ぐ心、死に対する親密な心、作者はそれを「ひさかたの」という枕詞に込めた。
このとき作者が桜の花に「しずこころなく」と擬人化した表現をとったということは、自分の内面を見つめていた、ということだ。作者もまた、みずからの死を見つめていた。
一般的には、この歌の「散るらむ」の「らむ」は、「なぜ……だろう」という意味に解釈されている。これは「らむ」のちょっと変則的な言い回しである、と。
普通に考えれば、この「らむ」は、たんなる「推量」の語義である。「なぜ散るのだろう」と問うているのではなく、「(生き急ぐ心を携えて)散ってゆくのだろうな」といっているだけではないのか。
この「らむ」という言葉も「ひさかたの」の感慨の表出である。おろそかにはできない言葉なのだ。「ひさかたの」という感慨は、「なぜだろう?」とは問わない。素直に一心に思いをはせてゆく感慨である。
凡人・俗人は、桜の花が散ってゆくのが受け入れられなくて「なぜ散ってゆくのだろう」と問う。彼らの勝手な思い込みで、この歌にそういう衣装を着せてしまっている。
しかし作者は、その現象を受け入れつつ、みずからの死の予感に重ね合わせていった。その死を想う心こそ、まさに「(ひそかなものやはるかなものに思いをはせる)ひさかたの」という感慨なのだ。
これは、不吉な死の予感の歌なのだ。「ひさかたの」という枕詞がそのことを教えてくれている。
まあだからこそ、桜の花の散りゆくさまのあでやかさがより鮮やかに浮かび上がる効果を生みだしているわけだが。
美しいものは、死の気配をまとっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。
人気ブログランキングへ