歴史の過去と未来・ネアンデルタール人論67

 この国の情況は、これから先どのようになってゆくのだろう。
 もちろん、僕にはよくわからない。
 ただ、多くの知識人や政治家が「こうなってゆかねばならない」とさかんに扇動しているが、彼らのいう通りの未来が待っているとは思えない。人類の歴史は、人類の計画通りに動いてきたのではない。歴史が人をつくるのであって、人が歴史をつくるのではない。歴史の流れ(なりゆき)は人の運命であり、人は歴史をつくる存在ではなく、歴史に殉じる存在なのだ。
 歴史はすべての人間の生の総体とともに流れてゆくのであって、歴史をつくろうとするものによってつくられるのではない。いいかえれば、誰の生の中にも歴史の動因が潜んでいる。アマゾンの蝶の羽ばたきが東日本大震災津波が起きたはじまりであったのかもしれない。
 まあ、歴史がどのように動いてゆくかということは、人々の無意識の問題であって、一部の扇動家の「こうなってゆかねばならない」などという観念的な作為によって実現するのではない。そんな「未来に対する計画性」という近代合理主義精神など、ただの強迫観念にすぎない。
 先のことなんかわからないし、この世に滅びてはならない社会も人も存在しない。みんな、必ず死ぬ。
 そして死は「今ここ」に背中合わせで張り付いている事態であって、遠い未来のことだと約束されているのではない。われわれの無意識はそのことをすでに気づいている。だから人は、「今ここ」を生ききろうとするし、「もう死んでもいい」と豊かに「今ここ」にときめいてゆく。
「もう死んでもいい」という無意識の感慨を抱いている人間という存在は、原理的に未来をつくることはできないし、つくろうとしない。
 文明社会の制度性に踊らされてそのような欲望を肥大化させているだけのことです。踊らされているだけのくせに「こうなってゆかねばならない」と偉そうに扇動してくる人間が、現代社会にはたくさんいる。
 この世の中は、彼らのいう通りにはならない。みんなでこの世の中をつくっている。どんなに愚かで無能な人間もこの世の中の一員であり、その心の中にも歴史の動因が潜んでいる。
 人類が生き延びてゆかねばならない理由など何もないが、誰もがけんめいにこの生を問うている。命を懸けてこの生を問うている。だから人は、ときめき感動する。
 ときめき感動する心模様は、生き延びようとする欲望から生まれてくるのではない。心がすでに生き延びる未来に向いていれば、そのぶん目の前の「今ここ」に対する反応は希薄になっている。ときめきは、「もう死んでもいい」と未来のことを忘れている心模様から生まれてくる。そんなときめき感動する心模様を誰もが持っているのだとしたら、人間性の自然=基礎に「未来に対する計画性」などないことを意味する。
 人は、歴史をつくるのではない、「今ここ」を生きながら歴史に殉じてゆく存在なのです。
 そういう人間存在のどうしようもない「受動性」というものがある。そうやって「今ここ」に反応してゆく「受動性」のほうが、「未来に対する計画性」などという通俗的なスケベ根性よりもずっと人間的であり、豊かな知性や感性が育ってゆく源泉にもなっている。
 現代人は、「未来に対する計画性」に執着しながら、必要以上に死ぬのが怖くなってボケ老人になったり、他愛なくときめき感動してゆく体験が希薄なって鬱病になったりインポテンツになったりしている。その通俗的なスケベ根性こそ、現代社会の病巣になっている。
「未来に対する計画性」に人間性の自然があるのではない。


 まあいまどきは、他愛なくときめき感動してゆく心模様が希薄になっていると同時に、それでも人は誰もがどこかしらでそうしたときめいてゆく体験をしているし、したいと願っている。こんな世の中だらこそ、より切実にしたいと願っているのかもしれない。
 ホリエモンのように「女なんか金次第でどうにでもなる」といっても、女が金のことしか考えていない生きものかといえば、そうともいえない。この世のどこかには、清い恋もあれば熱い恋もある。そういう恋がホリエモンのところにはない、というだけの話です。いくら女が金で動く生きものだといっても、そういう女ですら、男の人間性やセックスアピールを見ている。いくら金を持っていても、女に逃げられる男は、世間にいくらでもいる。どんな関係の中にも「人情の機微」というのははたらいているし、それに気づくことができなければ男も女も魅力的ではない。
 人間なんだもの、人間としての魅力や男としての魅力は、どんな女が相手であろうと、そりゃあ見られていますよ。そしてどれほど金の利害関係だけでくっついた男女であろうと、その関係を他人に語るときには、相手の人間性やセックスアピールに惚れたという。そういう男女ほど、その殺伐とした関係を隠そうしてなおさら恋物語を語ろうとしたりする。
 世の中にはいろいろと複雑で深みのある恋もあるのだろうが、たとえ見知らぬものどうしでも他愛なく率直にときめき合っていける関係になれればという願いは、誰の中にもある。
 ほんとに魅力的な男や女は、他愛なく相手にときめかれるし、他愛なくときめいてゆける心の持ち主は魅力的だということもある。
 他愛なくときめいてゆくことのできる人間の方が人情の機微をよく知っている。そういう人は「反応」の豊かさでときめいているわけで、それに対して自分を売り込む「計画性」で友達や恋人をつくるのがいくら上手でそんなことばかりしていても、ときめき合うという関係が豊かになるわけではないし、いつまでたっても人情の機微に気付くことができる感受性は持てない。


 今どきの映画やテレビドラマや小説やマンガは、どんな内容で人々を感動させているのだろうか。
 もちろんひとくくりでいえるはずはないだろうが、生き延びる能力が向上する啓蒙的な話が受けるのは途上国の傾向で、そういう近代合理主義的競争が閉塞状況にある先進国では、そこから逸脱してゆくところに感動があったりする。
 たとえば少し前に「アメリ」というフランス映画が世界的に大ヒットしたが、それは生きるのが下手な若い娘の話だった。その下手なところをとてもおしゃれに味わい深く表現していた。それが主流ではないにせよ、そういう傾向の話づくりが先進国で増えてきており、もう、絵にかいたようなハリウッド的サクセスストーリーは、本家のハリウッドでも少なくなってきている。
 まあ人情の機微をさりげなくしみじみとこまやかに描くというのは、日本文化のお家芸かもしれない。そのかわり深い絶望や孤独や怒りやダイナミックな熱狂や享楽を描くことはうまくできない。つまり、そういう体験ができる「自我」の希薄な民族だから。
 ともあれ先進国ではもう、サクセスストーリーに感動する時代は終わっているのかもしれない。近代的自我を整理し問い直す時代にさしかかっている。そういう意味でこの国の世界をリードする先進性というのもあって、その自我の薄さからくる「かわいい」という他愛ないときめきが「ジャパンクール」と呼ばれたりしている。
 現代社会の閉塞感、などという。その息苦しさはどこから来るのか。
 サクセスストーリーを夢見ることができないからだ、という意見もある。
 しかし、そんな夢を見てますます閉塞感から逃れられなくなったりもする。サクセスストーリーを夢見ること自体が閉塞感の原因になっている。一部の人はサクセスストーリーをつかむことができる。そういうチャンスが転がっていないわけではない。ただその成功は、誰もが、というわけにはいかない。
 しかし、サクセスストーリーにもいろいろあって、一獲千金のことだけではない。女を磨いて金を持っている男をつかまえ専業主婦の座におさまることもひとつのサクセスストーリーに違いないし、おいしいものを食うということだけでもそれはそれで成功の夢がかなう体験になる。上手に生きてゆくことはひとつのサクセストーリーで、人それぞれの甲羅に合わせてサクセスストーリーを夢見ている時代だともいえる。
 自分を見せびらかしたがるのも、サクセスストーリーを夢見ている態度でしょう。そうやってちやほやされることができたのなら、大成功です。
 自我の肥大化の時代、自我を満足させることがサクセスストーリーになる。そしてその自我を満足させようとする欲望がかなえられなくて閉塞感に陥る。
 肥大化した自我を持て余して、閉塞感に陥る。そういう意味で、今こそサクセスストーリー全盛の時代だともいえる。自意識過剰の人間がまだまだたくさんいる。
 経済優先の時代から人間中心の時代へ……などといっても、その「人間中心」という自意識によって閉塞感に陥っている。人間など滅びてしまってもかまない。みんな、必ず死ぬ。生き延びるために何をなすべきか、という問題など存在しない。その生き延びようとする欲望によって閉塞感に陥っている。子供がお母さんに駄々をこねるように、社会が悪い、といってもせんないことです。社会からはぐれていってしまえば、いいも悪いもない。社会に踊らされて社会に執着しているから、社会が悪い、と叫びだす。今や上手に生きて自我の欲望を満たすというサクセスストーリーが全盛の時代であると同時に、反省の段階にさしかかってもいる。だから、生きることが下手な女の子の話が人々を感動させる。その生きられないという無能性にこそ人間性の自然があり、その無能性から生まれてくる「もう死んでもいい」という無意識の感慨を共有してゆくところに人と人の関係の自然がある。


 外国人が現在のこの国の若者たちによるマンガやファッションの文化のことを「ジャパンクール」というときの「クール」という言葉にはどんなニュアンスがこめられているのだろう。
 「クール」とは、一般的には「冷静」とか「かっこいい」というような意味だと解釈されている。この場合は後者の意味合いだろうが、外国人にとってはその表現には何か意表を突くような「飛躍」があるらしく、そこを「クール」といっているのかもしれない。
 日本人どうしならごく普通に共感し合えることでも、外国人にとってはその世界観や美意識が理解困難で、とても不思議なことのように映ったりする。
 ジャパンクールとは、日本的な飛躍の鮮やかさのこと。
 欧米には善悪や美醜を決める「規範」があり、それはもう、神によってすでに決められてある。彼らはそれに縛られているともいえる。しかしこの国ではそのような「規範」があいまいで、その呪縛から解き放たれた自由な表現感覚として、「かわいい」というコンセプトのマンガやファッションが生まれてくる。
 たとえば、われわれ日本人にとって神とは唯一絶対のものではなく、なんでもいい。八百万(やおよろず)の神というし、キリスト教の神も仏教の仏も神道の神もなんでもありだし、ときに「イワシの頭」だって神になってしまう。神を称揚しながら、神に縛られていない。
 そのかわりこの国の神は、何もしてくれない。だから、神にすがることもしない。ただもう、ときめく心の形見として「神=かみ」という言葉があるだけです。この国の神は、この生の根拠であっても、この生の規範ではない。
 そしてそれはつまり、生き延びるためになすべきことなど何もない、ということです。しかしそれは、何もしない、ということではない。それでも人は「せずにいられない」ことがある。「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに「命を懸けて」せずにいられないことがある。それが「無常」ということであり、まあそういう文化というか世界観や生命観の伝統があるから「腹切り」や「神風特攻隊」の習俗も生まれてくるし、現在でも自殺する人間が少なくないお国柄になっている。良くも悪くもこの国では「もう死んでもいい」という無意識の感慨が共有されている。そうやって人と人の関係をつくり、世界観や生命観や美意識をはぐくんでゆく歴史を歩んできた。
この国には、「生き延びるためになすべきこと」という「規範」がない。そしてもともと人類は、普遍的にそういう流儀で生きる歴史を歩んできたはずです。原始人はみな、そういう流儀で生きていた。だから、この国の他愛なく奔放な美意識による「かわいい」の文化が世界中の人にもわかるし、「ジャパンクール」ともてはやされてもいる。


 生き延びるためにはどうしても「規範」が必要で、いろいろとしなければならないことがある。そうやって「……しなければならない」とか「……であらねばない」というような規範意識が生まれてくる。
 共同体は「規範」で動いている。規範に従ってゆけば上手に生きられる。そうやって規範が称揚され、人々の心は規範に縛られてゆく。そうして、縛られているのは具体的な共同体の規範だけでなく、人々の考え方や感じ方そのものがなんらかの「規範」を土台にした不自由で殺伐したものになってゆく。その規範意識によって知性や感性が停滞し、後退してゆく。人生はかくあらねばならないとか、社会はかくあらねばならないとか、人と人の関係はかくあらねばならないとか、そういうあらかじめ決められた規範を土台にして考えたり感じたりしていれば、上手に生きられるとしても、人間的な知性や感性によるそのときその場のいきいきとした「反応」はどんどん薄れてゆく。そういう「反応」を失って現代人は、鬱病になったり認知症になったりしている。
 上手に生きるための規範、社会がスムーズに動くための規範、そういう規範を追求していったのが近代合理主義なのでしょう。近代合理主義は、人間を「規範」の奴隷にした。人類学者は「人類史の文化は生き延びるための<未来に対する計画性>から生まれ育ってきた」といい、言語学者は「言葉は伝達の道具であり、そのための<意味という規範>の上に成り立っている」などと合唱している。
 原始人は、「生き延びるためには石器を改良発達させてゆかねばならない」と考えたから、石器を改良発達させることができたんだってさ。「言葉は意味の伝達のために意味を付与してゆかねばならない」と考えたから言葉が生まれ育ってきたんだってさ。原始人もそんな近代合理主義的規範意識を持っていたんだってさ。彼らは近代合理主義に染まった自分の物差しで原始人という他者を裁定しており、ひとまず自分(の物差し)を捨てて原始人の身になって考えてみるということをしていない。
 石器が改良発達してきたのは、何はともあれ、石という物質に対する興味がどんどん膨らんでいったからでしょう。彼らは、そこのところを何も考えていない。人間は生き延びようとする存在だと決めてかかっている。自分を忘れて目の前の「今ここ」の何かに夢中になってゆくという人間的なダイナミズムのことを何も考えに入れていない。
 人類史の進化発展は「もう死んでもいい」という無意識の感慨から心が華やぎときめいていったからではないのか。その感慨なしに猿にはない人間的なときめき合う関係なんか生まれてこないし、人間的な知性や感性の進化発展もない。
 すべてのものは許されている。「もう死んでもいい」という感慨なし「許す」という心模様は生まれてこない。ときめき合うとは、許し合うということです。それに対して「……ねばならない」という規範意識は、許す対象と許さない対象を選別する。それはとても合理的な考えで、「すべてのものは許されている」なんてとても不合理な認識です。しかし人類は、そういう不合理を生きるダイナミズムとともに進化発展してきた。「もう死んでもいい」と思ってしまえば、この世に許されないものなどない。極端なことをいえば「あなたが私を殺すとしても、私はあなたを許す」ということです。たぶん人間は、根源にそういう無意識を持っている。そして近代合理主義は、そういう無意識を徹底的に封殺している。悪者は許さない、無能な人間は生きられなくてもしょうがない、それはとても合理的な考えです。それは正しい。しかしそれが人間性の自然・本質というわけではない。
 人間は、けっして合理的な存在ではない。人と人は不合理を超えてときめき合う。人間的な知性や感性は、不合理を超えて感動し、探究してゆく。人間にそういう心の動きがなければ、この世に学問も芸術も恋も友情もない。


 近代合理主義の行き詰まりが叫ばれて久しい、「ポストモダン」はいったいどこにあるのか。
 たとえば、「息苦しくなれば息をしないといけない」という言い方に対して、「息苦しくなれば自然に息をしてしまう」という言い方もできる。前者が西洋合理主義的な言い回しで、日本文化の伝統は後者の生命観の上に成り立っている。
 もしかしたら日本文化の伝統は、近代合理主義に風穴を開ける可能性を持っているのかもしれない。
 われわれ生き物は、生き延びるために息をしているのか。それとも体が勝手に息をしてしまっているだけなのか。体が勝手に息をしてしまっているだけに決まっている。意識を失って植物人間になってしまっても、体が勝手に息をしている。
「もう死んでもいい」と思っていても、体が勝手に息をしてしまう。人は、生き延びようとしなくても、生きてしまっている。生きることは世界に対する受動的な反応であって、自分の意志で生き延びようとしているのではない。体だって生き延びようとする意志(=志向性)を持っているのではない。
 なのに、どうして「生き延びようとする」などというのだろう。
 われわれは、息苦しくなる前に息をしている。それは、生き延びようとしているからか。そうじゃない。そのとき体はすでに息苦しくなっている。その酸欠状態に「意識」がまだ気づいていないだけです。その酸欠状態に「もがく」という「反応」が、息をするという行為になっている。生きていることは、もがいている状態だともいえる。生き延びたいからもがくのではない。苦しいからもがくだけです。そのとき積木が崩れるように、体が壊れる、という動きが起きる。その動きは死んでゆくという動きだが、同時にその動きが息をするという行為にもなっている。そんなことはたんなる自然の仕組みであり、意志でも志向性でもない。自然においては、死んでゆくことが生きるはたらきになっている。苦しくてもがくことはひとつの快楽であり、ときにわれわれは「もう死んでもいい」とか「もう死んでしまいたい」とも思ったりする。苦しくてもがくことは、命が「きらきら輝いている」現象であり、生き物は苦しくてもがきながら生きている。そしてそういう「もう死んでもいい」という「嘆き」こそが日本文化の通奏低音になっている。そこから心が華やぎときめいてゆくのが日本的な文化の流儀で、それが日本人の生や人と人の関係のダイナミズムにもなれば、極めて不合理な「腹切り」や「神風特攻隊」などの自殺の文化にもなっている。
 伝統的な日本文化は、けっして合理的ではない。そして現在の「かわいい」のマンガやファッションの文化だって、ひとつの不合理の上に成り立っている。たとえばファッションにおける色の組み合わせにおいて、赤と緑や紫と黄緑などの反対色の組み合わせは、西洋では美の「常識=規範」に背くことで禁じ手とされてきた。しかしこの国の着物の文化の伝統は平気でそのような色使いをしてきたし、現在の「かわいい」のファッションもまたそのような西洋的な美の規範に風穴を開ける色使いで登場してきた。そこが「クール」と呼ばれるゆえんで、今や赤と緑の組み合わせだって禁じ手ではなくなっている。日本文化はずっと昔からそのような規範を軽々と超えて美を生み出してきた。日本文化には「規範」がない。「規範」を持たなければ生き延びられない。その生き延びることに対する「無能性」は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨の上に成り立っている。
しかし人間はもともと不合理な存在で、原始人はそのように生きていた。「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに心が華やいでゆくことによって人類は生き残ってきたのだし、その逆説によって人間的な知性や感性が進化発展してきた。日本文化は特異なのではなく、原始的なのです。
日本文化は、ネアンデルタールクロマニヨン人のところで極まった原始文化をそのまま洗練させたところに成り立っている。だからその「洗練」や「飛躍=不合理」の美が西洋人にも分かる。日本文化は特異で不合理だといっても、日本的な知性や感性は、明治以後も中国や韓国やインドのそれよりももっと西洋人に理解されてきた。そうやってアジアでいち早く西洋文明に追いついていった。


 現在の「かわいい」の文化は、日本文化の地下水脈が湧き出てきたような現象だともいえる。「美しい日本」などといって日本文化の伝統がわかっているつもりの総理大臣やこの国の未来はかくあらねばならないなどと正義ぶって合唱している大人たちよりも、そんな正義などは無縁の「かわいい」の文化の若者たちのほうがずっと豊かに伝統的な知性や感性を備えているし、じっさい外国人に「クール」と称賛されている。
 この国の伝統的な文化の作法において、「未来の社会はかくあらねばない」とか「人はいかに生きるべきか」という問題など存在しないし、この国の未来が彼らのいう通りになるはずもない。
 人は、「今ここ」のこの生やこの世界を問いながら生きている。未来なんかわからないしどうでもいい、と思えるときにこそもっとも心が華やぎときめいている。人間なら誰だってそういう心模様の体験をしながら生きているのだし、その心模様の総体が未来の社会になってゆく。未来の社会のかたちを決定する資格のある人間などどこにもいないし、決定してもその通りになるとはかぎらない。いろいろ人々の心模様や行動を縛る「規範」をつくることはできるだろうが、歴史の流れはそれだけではすまないのが歴史の法則でしょう。
 誰もが正義と合理性にしたがって考えたり行動したりしていれば社会はうまく動くだろうし誰もがうまく生きられるだろうが、それだけでは社会も人と人の関係も息苦しいものになってしまう。正義と合理性にしたがって行動する人が魅力的だとはかぎらないし、そういう人が自分で思うほど人が好きになってくれなくて苛立ったりするのが人の世の人情の機微というものでしょう。
 誰もが正義と合理性にしたがって考えたり行動したりすれば誰もがときめき合う社会になるというわけではない。人にときめかれることなど勘定に入れずにただもう一方的にときめいてゆくのが人間性の自然で、そのとき正義と合理性による「規範」など忘れている。そういうときめかれる能力や資格を追求することなどどうでもいいことで、誰もが一方的にときめいてゆけば、誰もがときめかれている。
 正義や合理性、すなわち清く正しい存在になれば人にときめかれるなんて、近代合理主義の幻想にすぎない。自分がときめいてゆけばいいだけのこと。魅力的な人は、魅力的になろうとなんか考えない。しかし今どきはそんな努力ばかりして、自分の方から他者の魅力に気づいてときめいてゆく知性や感性を失っている人がたくさんいる。そういう近代合理主義の落とし子のような人がいまだにたくさんいる。


 誰もが正しく合理的な規範にしたがって思考したり行動したりしてゆけば理想の社会が実現するか?実現すると信じたのが近代合理主義でしょう。たとえば経営者は社員に、一日一万円の給料を払ってやるから一万円分働けと要求する。それは正しく合理的な要求でしょう。しかしそこには「働いてもらっている」という人の心がない。社員だって、「働かせてもらっている」という心はない。正しく合理的に一万円分働こうとしているだけです。二万円分働いているのに一万円しかもらえないのなら合理的ではないから、不満が募る。それに対して「働いてもらっている」「働かせてもらっている」という心模様の関係があるなら、五千円でも我慢できるし、二万円払うこともできる。なんのかのといっても人の世の中なのだから。そういう心模様の関係がないとうまくゆかないことも多い。不景気なら五千円で働くしかない。景気がよくなれば、合理的に考えれば一万円分の働きであっても二万円払うこともできる。そういう関係が成り立つのは、おたがいにそのような心模様があってこその話でしょう。
 なんのかのといっても人と人の関係はときめき合うことの上に成り立っているのであって、正しく合理的な規範を合意しているだけではすまない。それだけで関係をつくろうとすると、いつかぎくしゃくしてくるし、最初からぎくしゃくしたものが潜んでいる。
 ときめき合う関係は不合理を生きることができるが、正しく合理的な関係は不合理を生きることができないし、ときめき合ってもいない。
 不合理を生きることができるのが人間性の自然であって、合理的な関係にはときめきがなく、不自然な関係だといえる。
 一万円払うから一万円分働けと要求することは正しく合理的だが、それを要求してしまうと人と人の関係はぎくしゃくしてくる。いやこれはたんなるたとえ話で、何ごとにおいても正しく合理的な要求をし合っていたら、人と人の関係はぎくしゃくしてしまう。
 人と人の関係の自然は、ときめき合いながら不合理を生きることにある。世の恋や友情や家族関係は、そのようにして成り立っている。
 正しく合理的に生きること、すなわち人類は、上手に生きる能力を獲得するかたちで進化発展してきたのではない。何度でもいうが、人間性の自然は生きることの無能性にこそある。人の心の底には「もう死んでもいい」という感慨が息づいており、心はそこから華やぎときめいてゆく。その無能性が、人類の歴史に進化発展をもたらしてきた。
 現代社会のもっとも正しく合理的なものは「お金」かもしれない。「お金」があれば上手に生きてゆくことができるし、上手に生きることが称揚される社会です。その意味で近代合理主義は今が盛りだともいえる。しかし盛りであるからこそ、その不自然がさまざまなかたちで露出してきてもいる。だから人々はけんめいにポストモダンを模索している。
 正しく合理的なことを要求し合っていたら人と人の関係はぎくしゃくしてくるし、そんなところに人間性の自然があるのではない。正しく合理的に生きることができる人が魅力的だとはかぎらないし、そうやって生きて最後には鬱病になったり認知症になったりインポテンツになったりしている。正しく合理的に生きることのストレスがあり、それが現代の社会病理や閉塞感になっている。
 生き延びようとすることの不自然があり、「もう死んでもいい」と思うことの自然がある。すべてのものは滅びてゆく。滅んでいけない社会などないし、滅んでいけない人間などいない。みんな必ず死ぬ。人間性の自然は、滅びてゆくことを受け入れてゆく心模様にある。その心模様で人と人はときめき合っているのだし、感動するとは「もう死んでもいい」という心地の体験にほかならない。
 不合理を生きることに人間性の自然があり、そこにポストモダンのかたちがあるのだろうし、原始人はみなそうやって生きていた。
 合理性を追求することの不自然=病理がある。


 人類が生き延びるためのポストモダンなどというものはない。人類は、「もう死んでもいい」と思い定めたところで生き残ってきた。
人間はいつ死んでもかまわない存在であり、死は「今ここ」の裏側に張り付いている。
生き延びるために何をすればいいかというような未来予測などしてもしょうがない。歴史はというか、人の世はそのように動いているのではない。人類の歴史には、「もう死んでもいい」という動因が作用している。人類は、「もう死んでもいい」と思い定めながら二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散していった。
 まあ、人類が生き延びるための理想の世界など思い描いてもしょうがない。「もう死んでもいい」という心地になれる世界こそ、人類にとっての理想の世界であるのかもしれない。滅びてもかまわない世界こそ滅びない。原初の人類は滅びてもかまわないと思っていたとしか考えられないようなかたちで二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散していったし、ネアンデルタール人は極寒の氷河期の北ヨーロッパに住み着いていた。
 生き延びるための正しく合理的な思考や行動をすることが全盛の世の中だが、だからこそその不自然が社会病理となって露出してきてもいる。
 近代合理主義は衰退しつつあるのではない。いまだに発展を続けている。だからこそその不自然が露出してきている。世界中の人々が「未来に対する計画性」という合理的な思考にすっかり染め上げられてしまっている。そうしてそれが人間性の自然で知能の本質だと多くの人が信じて疑わない。人類学の世界では、そんなことばかり合唱している。
 現代社会は、未来に向かうスケジュールで動いている。それが近代合理主義というものでしょう。現在こそ近代合理主義全盛の時代であり、そうやって人々の心は、目の前の「今ここ」に対する「反応」が希薄になっている。その不自然が社会病理となって露出してきている。
 スケジュールすなわち「未来に対する計画性」は、現代的近代合理主義的な、生き延びるためのひとつの「規範」である。


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 人類の歴史は、理想の社会を目指して動いてきたのではない。そんな合理的な考えがあるのなら、不自由で不合理な二本の足で立ち上がるということなどしないし、より住みにくいところ住みにくいところへと地球の隅々まで拡散してゆくという不合理きわまるようなこともしない。原始人は「もう死んでもいい」という感慨とともに「未来に対する計画性」など捨ててひたすら目の前の「今ここ」に「反応」して生きていたのであり、その結果として二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散していった。
 人間は不合理な生きものであり、だから今、この国の若者たちによる不合理な「かわいい」の文化が世界中の若者たちから「クール」ともてはやされている。
 今どきの大人たちの思考や行動がいかに深く近代合理主義に染め上げられてしまっていることか。そして若者たちは、すでにその不自然に気づいている。
「ジャパンクール」は、近代合理主義批判である。その「規範」を持たない不合理性ゆえに、表立って何もいわなくても、もっともラディカルな近代合理主義批判になっている。
「かわいい」の文化は、理想の社会など目指していない。生き延びることができない不合理な世界に身を置きながらそこから心が華やぎときめいてゆく……マンガであれファッションであれ、これが基本的なコンセプトであり、そこが「クール」なのでしょう。ファッションなど、色の組み合わせもかたちも危なっかしくのうてんきで、しかしかわいい。マンガの表現だって同じで、ギャグマンガも恋愛マンガもホラーマンガも、不合理な世界を受け入れながらそこから心が華やぎときめいてゆくところをうまく描いている。そうして同性愛がよくモチーフになっているが、同性愛なんてまさに不合理そのものの世界です。
 世界中が今、不合理であることのときめきを模索している。それによってどんな未来の世界になるのかは僕など知るよしもないが、近代人が失った人間性の自然はそのようにしてよみがえるのでしょう。


11

 理想の社会を目指そうとかつくろうと扇動したってせんないことです。人間性の自然は、理想の社会をつくろうとすることにあるのではなく、目の前の「今ここ」に豊かに「反応」してゆくことにある。未来の社会は、人がつくろうとしたようになるのではなく、「今ここ」においてどのようなことが人々の心を大きく動かせているかということの結果としてやってくる。つまり、人々が今、何にときめき感動しているか、ということ。
 歴史や社会が人をつくるのであって、人が歴史や社会をつくるのではない。人は、歴史をつくるのではなく、歴史に殉じるのだ。そして、近代合理主義の社会に踊らされている大人たちが大勢いる。人々の思考や行動の不自然が露出してきている。
 歴史や社会をつくろうとすること自体が、不自然な合理主義だ。そうやってわれわれはいま生きにくい世の中を生きているわけだが、しかしその生きにくさを生きることが人間的ないとなみの自然であり、そこから人間的な感動やときめきが生まれてくる。
 近代合理主義の生きにくい世の中から、不合理な「かわいい」の文化が生まれてきた。
 人は、生きにくさを生きながら、命のやりとりをするようにときめき合ってゆく。われわれのこの不合理な命は、自分ひとりでは完結しない。だから人と人は、命のやりとりをするようにときめき合ったり殺し合ったりしている。
 正しく合理的に生きているつもりの人は、自分ひとりで命を完結させようとして他者を否定し裁いてゆく。そうやって優越感に浸ってゆこうとする。それはもう、殺意と同じでしょう。近代合理主義は、人を裁く。そこから戦争や人殺しが起きてくる。自我は、人を裁く。自我とは、自分ひとりで命を完結させようとすること、完結していると思い込むこと。命を完結させようとする合理主義、今どきの大人たちの思考や行動はそういう思想にすっかり染め上げられて、自分の命を完結させようとすることばかりしている。命が完結していない不合理から華やぎときめいてゆくタッチを失っている。命が完結していないから、他者と命のやりとりをする。しかし彼らは、他者と命のやりとりをしないで、他者を裁くことばかりしている。尊敬しようと軽蔑しようと同じこと、そうやって決めつけることばかりして、「問う」ということをしていない。他者とはわからない存在であり、尊敬も軽蔑もできない、「問う」ことができるだけ、それが、命のやりとりをするということ。尊敬しようと軽蔑しようと愛そうと憎もうとどちらでもいいが、どうしてそんなふうに他者のことがわかっているつもりになれるのか。
 人は「わからない」という感慨を携えながら命を懸けて問うてゆく存在なのではないのか。
 いまどきは、わかっているつもりの合理主義の大人たちが溢れている。わかっているつもりになれば、上手に生きてゆける。その合理主義、自我は上手に生きてゆくことを目指す。そうやって現代人は、未来の理想の社会や未来の理想の自分を目指すというスケジュールを生きて、目の前の「今ここ」に対する「ときめき=問い」を失っている。


12

 いまどきの大人たちがどんな生き方や考え方をしようと「お好きにどうぞ」と傍観するしかないが、原始人までもがそんな「未来に対する計画性」などという合理主義で生きていたはずがないじゃないですか。
 人間性の自然は、不合理を生きることにある。近代合理主義は今なお全盛で、世の大人たちの思考や行動をすっかりそのように染め上げてしまっているが、だからこそ不合理を生きる人間性の自然にしっぺ返しを食らってさまざまな社会病理を生み出している。
 近代合理主義を超えてよりよい未来を目指す、などといっても、その「未来を目指す」という思考自体が近代合理主義なのです。そうやってハッピーエンドの予定調和の物語を紡ぐことによって現在のグローバル資本主義も成り立っているのだろうが、それは人間としてとても不自然なことだと若者たちは気づきはじめている。
 新しい未来の社会は、それをつくろうとする作為によってではなく、人々がいま何に心を動かされている(=ときめいている)かということが契機になる。そういう心の動きとともに「なるようになってゆく」だけであり、そういう生の作法こそこの国の文化の伝統であり、人類史の普遍的な伝統でもある。。
 今や人々は、予定調和のハリウッド的なサクセスストーリーやハッピーエンドの物語には感動しなくなってきている。この国のテレビでも「水戸黄門」はもう視聴率が取れなくて打ち切りになってしまった。封建時代の話だといっても、あれはあれで観念的な作為性を称揚する近代合理主義にかなったコンセプトのストーリーだったのであり、戦後の人々は近代合理主義に頭の中を染め上げられて知性や感性が衰退した結果としてあんな安直なハッピーエンドの物語にしてやられることになった。あれはあれで、とてもモダンで新しい話づくりだった。日本文化の伝統にあんなストーリーはなかった。日本人はあんな話に感動して歴史を歩んできたのではない。たとえば中世の能の物語は、亡霊が出てきたりして、人が嘆いたり狂ったりするストーリーばかりです。そういう不合理な話の味わいは、むしろ今どきのマンガ表現に通じている。
 不合理性こそこの国の文化の伝統であり、普遍的な人類史の伝統でもある。
 生きることに不器用な女の子の嘆きや感性が人々を感動させたりするような傾向は、これからますます色濃くなってくるのかもしれない。近代合理主義で生きるほかない世の中だからこそ、そういう話に感動する。
 近代合理主義に閉じ込められて人々の知性や感性は衰退してゆく。それがこの国の戦後の繁栄の歴史だったのであり、「水戸黄門」のテレビドラマはみごとにそんな時代の流れにマッチしていた。それはまさしく「みんなでよりよい理想の社会をつくってゆこう」というスローガンの合理精神の上に成り立つ話だったのであり、そのスローガン=合理精神に人々はもう飽き飽きしてきている。
一流の知識人が集まって原発反対の合理的な正義を叫んでも、なんだか白々しい。この国は、ほかの国以上に不合理を生きる伝統がある。
 死んだら死んだでそのときのことだ、「今ここ」でお金がもらえるのなら原発だって受け入れる、そう思って何が悪い、おまえらの正義のためにわれわれが一生貧乏のまま生きねばならない義理なんかない、目の前のお金なんか当てにしないで努力してより良い未来を築けといわれても、われわれにそんな意欲も能力もない、そんな努力なんてまっぴらだ、……そう開き直られて、それを批判する資格がいったい誰にあるだろうか。
水戸黄門」ならそれを批判する資格があるのか。あのころ声高に原発反対を叫んでいた大江健三郎柄谷行人丸山健二たちは自分が水戸黄門にでもなったつもりだったのだろう。そうやってこの国の多くの知識人は近代合理主義の迷路にはまり込んでいった。
 人は、愚かで無能であってもかまわない。そこから華やいでゆく心の自然がある。正しく合理的に生きねばならない義務などない。生き延びることを前提にして生きることこそ不自然だ。人の知性や感性は、生き延びることができないという前提の上に成り立っている。心はそこから華やぎときめいてゆく。
 合理主義の正義の論理で批判することなんかかんたんだが、そういう愚かで無能な人間がこの世からいなくなることもない。「ときめき」は、生き延びる未来を忘れた「今ここ」において体験される。未来のことを忘れてしまうほどのときめきの体験が人を生かしている。ときめきの体験が豊かであれば「未来に対する計画性」という合理精神が希薄になる。そうやって人は生き延びることのできない愚かで無能な存在になる。しかしその生き延びることができない愚かな無能な存在になることのときめきが人類の知能(知性や感性)の進化発展をもたらしたのであり、この世のもっとも高度な知性や感性の持ち主である学者や芸術家は、この世のもっとも愚かで無能な存在でもある。
 つまり、人類の未来は、「未来に対する計画性」という合理精神によってではなく、「生き延びることができない愚かで無能な存在になることのときめき」によってもたらされる、ということです。そういう愚かで無能な存在になってしまう「ときめき」は生きてある人間なら誰の中にもあるわけで、その「ときめき」とともに未来がやってくる。
 人類の新しい未来は、彼らの、よりよい未来をつくろうとする計画性という合理精神によって実現するのではない。人々の愚かで無能な「今ここ」の「ときめき=感動」が未来の社会のかたちになってゆく。「水戸黄門」という人気番組が終わったということは、人々の「ときめき=感動」のかたちが変質してきたということを意味する。
 すなわち、よりよい未来をつくろうとする合理精神など鬱病認知症やインポテンツを生むだけだ、ということです。まあ、そういう世の中になってきている。そういう合理精神が旺盛な連中が他人に対する優越感に浸りながら「よりよい未来の社会をつくろう」と他人を扇動しまくっていても、その通りの未来の社会がやってくるとはかぎらない。
 新しい未来の社会の実現に貢献するとか、人類の歴史に貢献するとか、笑わせてくれるよ。人類の歴史をおまえらに勝手に決められたくはないし、おまえらのいう通りになるはずもない。何がかなしくてわれわれがそんな自意識過剰の俗物根性に感動しなければならないのか。
 正しく合理的であればそれでいいというものではない。人は不合理な飛躍にときめき感動する。それが今どきの若者による「かわいい」の文化であり「ジャパンクール」のかたちです。なんのかのといっても、そんな「かわいい」の文化が「水戸黄門」という人気テレビ番組に引導を渡したのかもしれない。
 「アメリ」のような生きることが下手な女の子の天然のかわいさ、その「ほのぼのとした癒しの日常系」のマンガ=アニメは、この国にいくらでもある。「アメリ」はそれをフランスのエスプリでアレンジしてつくられた映画だといえる。フランス人にはこの国の「かわいい」の文化の魅力がよくわかるらしい。ともあれ今や「かわいい」の文化は、世界中の若者を魅了している。今や世界中の人々が、生き延びることに有能な合理精神を疑いはじめている。なぜなら、生き延びることに対する無能性こそ人間性の自然であるからだ。しかし同時に、「アンチ・エイジング」とかなんとか、ますます世界中が生き延びることに有能な合理精神に染め上げられていってもいる。
 近ごろこの国の「憲法第九条」がノーベル賞候補になったことは、生き延びることに対する無能性を見直そうとする世界的なムーブメントを反映しているのかもしれない。
 人類の世界は、いったいこの先どうなってゆくのだろう。
 いずれにせよ人類史の文化の起源や人間的な知性や感性の本質を「未来に対する計画性」などという近代的合理精神を物差しにして語ろうとするなんて愚の骨頂だといえる。
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