狩りの起源・ネアンデルタール人論66

(承前)
 そろそろここらで狩りの起源についての考察の締めくくりをしようかと思うのだが、うまくまとまらない、今日の記事は長くなりそうです。
 原始人は、狩りを覚えながら地球の隅々まで拡散していった。それは、「食糧戦略」という問題設定で考えるべきではない。
 チンパンジーは、コロブスという小さな猿をつかまえて食べるという習性を持っている。しかし彼らはそれを常食にしているのではない。一種の祝祭というか遊びのような行為らしい。群れのみんなで一頭のコロブスを追いつめて捕まえる。その肉は捕まえたものに所有権があり、まわりのものに分配してやる。捕まえるのはたいてい経験豊富な年長のオスで、分配の相手はお気に入りのメスとか順位が上のオスとかになり、ほとんどの若者はありつけない。
 それは誰もが食べたがるのだが、肉が美味いとかというのとはちょっと違う。そんなに肉食が好きならいつも狩りをしていればいいのだが、ときどきしかしない。それは、集団内の「関係」を確認し合う体験であり、その肉にありつくことによって集団の一員であることが確認されている。そういう祝祭の行事であって、けっして「食糧戦略」ではない。チンパンジーの主な食糧は、あくまで木の実なのです。
 また、ただ肉食が好きだというだけの理由なら、その捕食対象は小さな猿でなくてもよい。ウサギやネズミのような動物でも構わないし、コロブスの肉が特別美味いというわけでもないはずです。
 チンパンジーのオスは、赤ん坊を抱えて行動している母猿を発情させるためにか、その赤ん坊を取り上げ食べてしまうこともある。つまり彼らの肉食は一種の「祝祭」であって、「食糧戦略」ではない。うれしそうに食べているからといって、その肉が特別美味いかどうかはわからない。
 猿として、猿の肉を食うことのカタルシスがある。そのコロブスの肉は、集団の秩序というかアイデンティティを確認するための「生贄」なのでしょう。彼らはつねにライバルのチンパンジー集団とのテリトリー争いをしているし、集団内でも個体どうしの順位争いをし続けており、それによって集団の秩序=アイデンティティを成り立たせている。その秩序=アイデンティティには、どうしても「生贄」が必要になる。猿として猿を排除してゆくということ、猿の肉を食うことは、個体としても集団としてもライバルの死を疑似体験することであり、そうやって集団内の順位争いや集団どうしのテリトリー争いの生態に勢いがつくのでしょう。


 ただ、原初の人類が草食獣の狩りをはじめたのは、それとはちょっと違うはずです。彼らは、そのころはまだ同類だったにちがいない猿の肉など見向きもしなかった。人間として人間を排除してゆくという習性は持っていなかった。原始人の集団には、順位争いも他の人類集団とのテリトリー争いもなかった。彼らの集団のテリトリーは、チンパンジーのように、他の集団のそれとくっつき合っていなかった。また、集団内の個体どうしでも、ただもう他愛なくときめき合っていただけです。
 チンパンジーが狩りをする動機と原初の人類のそれとは違っていた。狩りをするという行為そのものはチンパンジーのような猿だった時代の延長だとしても、動機は違っていた。原初の人類には、集団内の順位争いや集団どうしのテリトリー争いをする生態はすでに放棄していた。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくり合うことだったのであり、そうやって個体どうしも集団どうしも争いが成り立たない「空間=すきま」がつくられていた。不安定で攻撃されたらひとたまりもないその姿勢でいれば、そのような関係にならなければ生きられなかった。原初の人類という猿は、争うことを捨てて歴史を歩みはじめた。彼らは。猿として猿を殺して食うという発想はしなかった。
 ただその姿勢は「もう死んでもいい」という無意識の感慨を持っていなければ成り立たない姿勢だったわけで、そうやってつねに死のそばに立っていようとするメンタリティになっていった。彼らは、猿のようにライバルの死をイメージすることも体験することもなかったが、仲間の死はほかの猿よりももっとたくさん体験していた。人類は、住みにくさをいとわずに拡散してゆく猿だったのです。住みにくければ、仲間はどんどん死んでゆく。しかしその住みにくさの嘆きを共有しながら他愛なくときめき合って一年中発情している猿になり、圧倒的な繁殖力を獲得していった。たくさんの仲間が死んでいったが、死んでゆく以上に繁殖していった。つまり、死を自覚しながら圧倒的な繁殖力を獲得していったのです。
 おそらく猿とは違う人間的な狩りが進化発展してきた契機は、一年中発情している猿になっていったことにあり、住みにくさをいとわずどんどん拡散していったことにある。それは死を自覚する存在になっていったということであり、そうやって「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに「命のやりとりをする」というかたちで人と人が他愛なくときめき合ったり狩りをしたりする存在になっていった。「命のやりとりをする」ことが人類の行動習性だった。
 基本的に人類にとっては、セックスをすることも殺し合うことも、「命のやりとりをする」という行為になっている。「命のやりとりをする」ように心が華やぎときめいてゆく。それは「もう死んでもいい」という無意識の感慨を共有してゆくことであり、原初の人類といえども狩りをすることは死を肯定してゆく行為だった。二本の足で立っている人類の行動原理は、死を肯定してゆくことの上に成り立っている。
 ちょっとセンチな言い方になってしまうが、原初の人類の狩りは、「草食獣の死を頂戴する」という行為だった。つねに死を意識しながら死のそばに立っていようとする人類の行動習性が原始的な狩りになっていったわけで、それは「生き延びる」ための行為ではなかった。彼らにとっての草食獣の狩りは、チンパンジーがコロブスの狩りをするような生き延びるための「生贄」にするという意味合いではなく、「もう死んでもいい」という死を肯定する感慨を草食獣に仮託してゆく行為だった。
 いいかえれば、人類史の「生贄」は、本質的には「生き延びるため」ということとはちょっと違う。「生贄」の尊厳に対する敬意があり、誰の中にも「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともにみずからが「生贄」になろうとする衝動がはたらいている。そうやってわが身を捧げようとするし、他者の命を奪うことが正義になったりもする。このへんの人間的な心模様のあやはややこしい。ともあれ人類は、そうやって自殺もするし人殺しもする存在になっている。
 

 文明人は確かに人殺しや戦争をするが、それが普遍的な人間性だとはいえない。原始人はそんなことはしなかった。もししていたのなら、人類の狩りの起源は、チンパンジーのように猿として猿を殺すとか順位争いやテリトリー争いをするという生態から起きてきたことにしないと論理的なつじつまが合わない。
 しかし原初の人類にそんな生態はなかったし、その狩りの起源は、おそらくツチブタなどの小動物をつかまえて食べるとか肉食獣の食べ残しの肉や骨を拾ってくるという行為からはじまっている。そこには、肉食獣に殺され食べられてしまうという草食獣の存在の仕方に対する親密な感慨が息づいている。草食獣とのそこはかとない連帯感というか、それは、死に対する親密感でもある。
サバンナの草食獣の死は、ある日突然やってくる。原初の人類もまた、肉食獣のように老いて死んでゆくという存在ではなく、猿よりも弱い猿として、肉食獣の餌食になったり、ライバルの猿から追い払われる存在だった。まあそうやって人類拡散がはじまったのだろうが、拡散すればするほど、そこは死と隣り合わせの住みにくい土地だった。
突然の死……原初の人類は、猿よりも弱い猿として、そして二本の足で立っている存在として、つねに死と隣り合わせで生きて死を自覚するようになっていった。突然の死に対する親密な感慨とともに人類の狩りが進化発展していった。
戦争は、「突然の死」を肯定し受け入れることの上に成り立っている。この国の戦国時代の武将たちは、そういう感慨を抱いて戦いに明け暮れていた。それが「無常」というこの国の伝統的な死生観だったし、人類が普遍的に共有している無意識の感慨のはずです。
「突然の死」を肯定し受け入れてゆくところに「人間」という概念が成り立っている。だから、現在の医療現場でも、がんを宣告する。
 人は、その意識の根底において「突然の死」を肯定し受け入れながら生きている。その無意識の心模様が、人の世にさまざまなニュアンスをもたらしている。人生の機微とか人と人の関係の機微とか、そうやって自殺したり殺し合ったり愛し合ったり助け合ったり、まあ、いろいろとあるのが人の世というものでしょう。
 人類の狩りの起源には「突然の死」に親密な無意識の感慨がはたらいていた。
 ネアンデルタール人クロマニヨン人は、大型草食獣と「突然の死」をやりとりするように、死をもいとわぬ肉弾戦の狩りをしていた。
 いろいろ意見もあろうと思うが、人間的な「死と和解する」というメンタリティは、老いて死んでゆくという未来を眺望することではなく、「今ここ」の「突然の死」を肯定し受け入れてゆくことにある。老いて死んでゆくことなど、永遠に「未来」のことでしかない。そうやって現代人は生き延びようと悪あがきしている。
 原始人もこの国の昔の人々も、「今ここ」の「突然の死」を肯定し受け入れながら生きていた。そうやって「命を懸ける」ものを持っていないから現代人は、生き延びるための衣食住に耽溺することばかりしている。ネアンデルタール人クロマニヨン人は、「もう死んでもいい」という覚悟とともに命を懸けてマンモスをはじめとする大型草食獣の狩りをしていたのです。
 そして「命を懸ける」ということは、大げさな冒険をするとか戦いをするという以前に、その人の世界や他者に対する感じ方そのものの問題でもある。人は、命を懸けて世界や他者にときめいてゆく。「ときめく」ということそれ自体が、命を懸けている体験なのです。
 つまり人の知性や感性には、命が懸っている。命を懸けて知ったり感じたりしてゆく。命を懸けて問うてゆく。
 生きることに無能な子供は、命を懸けて「何、なぜ?」と問うてゆく。そして生き延びようとする欲望が旺盛で生き延びることに有能な大人たちは、すでにその問いを喪失して、何もかも知っているつもりでいる。生きるとは何かという問いを忘れて、上手に生きてゆくことばかり追求している。そうやって今どきの人類学の世界では、「狩りは食糧戦略である」という問題設定で狩りの起源が説明されている。人類にとっての狩りという行為の本質をそうやって「上手に生きてゆく方法」として決めつけてしまっていいのだろうか。原始人は、「上手に生きてゆく方法」など追求していなかった。そんなことが大事なら、どんどん住みにくくなってゆくばかりの地球の隅々まで拡散してゆくということなど起きていない。彼らは、「今ここ」の「生きるとは何か」「死ぬとは何か」「命とは何か」と問うていた。そうやって「命懸け」で狩りをしていた。
 

人類の草食獣に対する親密な感慨は、クロマニヨン人の壁画のモチーフが草食獣ばかりだったことからもうかがえる。それらは、ただ狩りの獲物としてその成功を祈って描いたというのではない。それらの壁に描かれた草食獣のほとんどは、日常的に狩りをしている対象ではなく、ときおり見かける珍しい対象だった。狩りの獲物として描いたのではない。親密な感慨を込めて描かれていたのです。そういう感慨もなしに絵を描くことなんかできない。狩りの獲物という目的意識だけで、人類の絵を描くという行為や表現が生まれ育ってきたのではない。
 対象に対する親密な感慨(ときめき=感動)もなしには絵を描こうという気にもなれないし、上手に描けるはずもない。
 人類の草食獣の狩りも、対象に対する親密な感慨から生まれてきたのだろうし、だからこそマンモスという大型草食獣との死をもいとわぬ肉弾戦の狩りへと進化発展していった。
 チンパンジーが狩りをしたコロブスの肉を喜んで食っているからといって、その肉が美味いかどうかなんてわからないのですよ。美味ければ、そればかり食う生態になってゆく。ふだんは木の実ばかり食っている存在が、肉を食って美味いと思う舌の感覚になっているということはちょっとありえない。木の実を美味いと思う舌の感覚になっているからこそ、コロブスの肉を常食にはしないのでしょう。チンパンジーにとってそれは、「分配」という祝祭の儀式になっている。彼らはそうやってみずからの集団のアイデンティティと秩序を確認している。ふだんのチンパンジーは、ほとんど「分配」ということをしない。チンパンジーが人間の投げ与えたバナナを仲間にも分けてやるということはしない。母猿だって、子猿を無視して自分で食べてしまう。まあコロブスの肉は一頭では食べきれないし、木の実ほど美味いものではないからこそ、仲間にも「分配」してやるということが起きるのでしょう。
 いずれにせよ、狩りには狩りという行為それ自体のときめきがある。「食糧戦略」などという合目的的な論理だけで説明がつく問題ではない。チンパンジーの狩りにはチンパンジーうしの関係の問題があり、それによって「分配」という祝祭の儀式が起きている。それはなんだか現代人による上手に生きてゆく方法を追求している生態に似ていなくもないのだが、しかし原初の人類の狩りには、「もう死んでもいい」と思い定めたところから生まれてくる命そのものに対する純粋で切実な問いがあった。狩りの対象との「命のやりとり」があった。それは、猿よりも弱い猿として、二本の足で立っている存在としての「突然の死」と和解してゆく体験だった。おそらくそれが人間性の自然であり、それこそがじつはわれわれ現代人にとっても切実な問題になっている。


 現在のこの国の経済政策は、まず大企業を儲けさせてその利益を社会全体に再分配してゆくということを目指しているらしいのだが、まさにチンパンジーの狩りの祝祭と同じ論理です。そしてチンパンジーと同じだから、その経済政策の効果はほとんど実現せず、貧富の格差はますます大きくなってきているのだとか。その論理では、人間性の自然にマッチしていない。
人間の社会は、そういう上から下への「分配」の論理で動いているわけではない。チンパンジーはみずからの集団の秩序に従属し、他の集団排除し続けている。だから集団の秩序に従って「分配」という現象が起きる。しかし現代の大企業はグローバル化して、国家という集団の秩序から逸脱してゆこうとしている。つまり、国家という集団の秩序に従属してみずからの利益を国家内で再分配をしようとする動機を持っていない。実力のある大企業は、「内需」など当てにしていない。世界を相手に商売をしている。
 もともと人類は、集団からはぐれながら拡散していったのです。本質的には、チンパンジーのような集団に従属してゆくメンタリティを持っていない。だから、集団内に「分配」するというようなことはしない。
 人類は、地球の隅々まで拡散していったのです。集団からはぐれてゆくのが人の本性というか本能のようなものであり、人間性の自然も企業も、基本的に国家に従属し奉仕しようとするメンタリティを持っていない。
 氷河期明けから現代にいたる文明社会の歴史は、国家に従属し奉仕しようとする観念を個人に強いてきたが、それはけっして人間として自然な心模様だったのではない。それは猿の心模様であり、人の本性は、集団からはぐれてゆくことにある。人の本性にとって集団=国家は「憂き世」であり、その嘆きとともに国家に従属し奉仕してきた。そのあたりの心の機微はいろいろややこしくてそう簡単には解き明かせないのだろうが、ともあれもう、そうやっやって人類が猿のように集団に従属し奉仕する存在であるという思い込みだけでは国家も社会も成り立たなくなってきているのかもしれない。
 人の心は、「もう死んでもいい」というかたちでこの生からはぐれていったところから動きはじめる。つまり、そのようなかたちでいったん頭の中を白紙の状態にしたところから動きはじめる。だから、そこからどんなかたちの観念も組み立ててゆくことができる。生きることが前提になっていないから、生きるためのどんな不自然な観念も持つことができる。そうやって生き延びることなんかどうでもいいという心の自然で、猿と同じように生き延びようとすることが本能である集団=国家に従属し奉仕する観念を組み立ててゆく。「どうでもいい」のなら、生き延びようとすることだってありでしょう。しかし基本的には「どうでもいい」のだから、集団=国家から逸脱してゆくグローバル企業の論理=観念だって成り立つ。集団から逸脱して、集団内に「分配」してゆくことなんかしない、という論理=観念だってありです。金持ちは昔から、集団から逸脱して自分だけ裕福になってきた。「私有財産」は、人間性の自然ではないと同時に、文明社会の基本でもある。「私有財産」が認められるからこそ、そこから「分配」ということも起きるが、「分配しない」ということも起きる。「私有財産」がなければ、「分配」もない。


 チンパンジーは捕まえた小さなコロブスを「私有財産」にし、そこから「分配」してゆく。それに対してネアンデルタール人は大型草食獣をみんなで捕まえ、みんなのものにした。「私有財産」なんか最初からなかったし、「分配」もしなかった。最初からみんなのものだった。その肉は、等分に分けられたのではない。みんなが、生きられない弱いものから順番に与えていった。その狩りは、「みんなで捕まえる」ということが第一義のコンセプトだった。だから、どんどん大きな対象になってゆき、ついにはマンモスまでもが対象になっていった。
 チンパンジーは「私有財産」になりえる対象の狩りをし、人類は、なりえない対象の狩りに熱中していった。「生き延びる」という「目的」を持っていなかったからです。生き延びるために私有財産が必要になる。しかしネアンデルタール人のその狩りは、「もう死んでもいい」という感慨になれる体験だった。「もう死んでもいい」のなら、私有財産など必要ない。
 人間性の自然は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨の上に成り立っている。そうやって人間的な狩りが生まれ育ってきたし、人間的な文化すなわち人間的な知性や感性が生まれ育ってきた事情だって同じのはずです。
 人間的な狩りは、生き物を殺す体験であると同時に自分が「もう死んでもいい」と思ってゆく体験だった。そうやって生きものと「命のやりとり」をする体験として人間的な狩りが生まれ育ってきた。そうやって人類は「もう死んでもいい」という感慨とともに命を見つめながら歴史を歩んできたのであって、生き延びようとしてきたのではない。
 命とは「死」に帰結する現象であり、そのことを「今ここ」で肯定し受け入れてゆく体験として人間的な狩りが生まれ育ってきた。
 ネアンデルタール人にとって大型草食獣の狩りは、「もう死んでもいい」という無意識の感慨を共有してゆく体験だった。すなわち人類は、「今ここ」の「突然の死」を肯定し受け入れてゆく感慨を共有しながら歴史を歩んできた。


 人は、この生を「ゼロ」の状態にセットしたところから生きはじめる。そこから、この世界や他者にときめいてゆく。「ときめき=感動」は、「生まれてはじめてのこと」として体験される。われわれが生きてある一瞬一瞬はすべて「生まれてはじめて」の事態なのです。
 心は、避けがたく「今ここ」の目の前の世界や他者にときめいてしまう。生きてあることにときめくのではない。生きてあることを忘れて「今ここ」の世界や他者にときめいてゆく。ネアンデルタール人の大型草食獣の狩りには、そういう「ときめき=感動」があった。命のやりとりをすることには、そういう「ときめき=感動」がある。さらにいえば、人のすることはすべて命のやりとりである、ともいえる。心が動くとはこの世界と命のやりとりをすることである、と言い換えてもよい。
「ときめき=感動」とは、すなわち知性や感性とは、この世界や他者と命のやりとりをする心の動きのこと。それは、この世界や他者に反応してゆくことであって、ああだこうだと知ったかぶりをしてこの世界や他者を裁定してゆくことではない。人間なら誰の中にもそういう「ときめき=感動」があり、それが人間性の自然であるはずだが、まあ世の中は人さまざまで、そういうタッチを豊かに持っている人もいれば、そういうタッチが希薄な人もいる。「生き延びる」という観念的な欲望に執着し閉じ込められてしまえば、そうやって「自分」に執着しているぶんだけ世界や他者に対する「反応」は希薄になる。「自分」を拠点=基準にして世界や他者を裁定することばかりして、何も「反応」していない。大人になるとそういう傾向になってくることが多く、そうやって知性的にも感性的にも肉体的にも「インポテンツ」になってゆく。
 今どきの大人たちは、人と「命のやりとりをする」心の動きが持てなくなっている。「自分」に執着しながら未来に向かって生き延びようとするばかりで、「もう死んでもいい」というかたちで「命を懸ける」ことができない。
断わっておくが、ここでの「命を懸ける」とか「命のやりとりする」ということは「今ここ」に「反応」してゆくことで、それだけのことだが、今どきの大人たちの多くはそれだけのことができない。自分の勝手な物差しで、世界や他者を決めつけてゆくことばかりしている。それは、そう思いたいとかそういうことにしておきたいという自分の勝手な欲望であって、そこにそれが存在するということの真実ではない。真実に何も「反応」していない。真実に「ときめく=感動する」という体験がない。
 

狩りをするネアンデルタール人は、そこに大型草食獣がいるということそれ自体にときめいていた。「そこにそれがが存在する」という事実こそが真実であり、美でもある。彼らの無意識はそれを知っていて、そういう事実=真実にときめいてゆくことができた。ただそれが食料になりそれによって自分たちが生き延びることができるという計算ずくだけで狩りをしていたのではない。そういう計算ずくだけの動機なら、チンパンジーのように、永遠に木の実が常食の猿というレベルを超えてゆくことはできない。いいかえれば、チンパンジーだって、そういう食糧戦略だけで生きているのではないからコロブスの狩りもする。
 しかしチンパンジーには、「そこにそれが存在する」という事実=真実=美に対するときめきがないから、みずからの生態を超えてゆくことができない。つまり、コロブスの肉を常食にしてゆくということはしない。それは、食糧戦略の問題ではない、「ときめき=感動」の問題です。チンパンジーだって、絶滅危惧種になりたくなければ、なんでも食えばいいのです。だけど彼らには、みずからの生態を超えてゆけるだけの「ときめき=感動」がなく、みずからの生態に縛られている。つまり、「もう死んでもいい」という無意識の感慨がない。もちろん彼らが死ぬことを怖がっているわけではないが、死ぬという自覚がないし、この生に対する嘆きもない。だから、みずからの生態を超えてゆけるだけの「ときめき=感動」がない。その心の動きに「命懸けの飛躍」がない。
 原初の人類だって木の実を常食にしている猿だったのだから、最初は動物の肉を食って美味かったはずがないのです。それでもネアンデルタール人のように肉しか食わないような生態になってゆくことができたのは、食うものなんかなんでもよかったからであり、人類はそうやって「食う=生きる」ことを超えていった。
ネアンデルタール人は「そこにそれが存在する」という「事実=真実=美」に対する「ときめき=感動」で狩りをしていた。彼らにそういう死をもいとわぬ肉弾戦の狩りに向かわせた契機は、たんなる「食糧戦略」という概念だけで片付けられる問題ではないのです。
 彼らは、命を懸けて狩りをしていたし、原始人が生きられるはずもない氷河期の極北の地で生きることそれ自体が、命を懸けないとできることではなかった。「もう死んでもいい」と命を懸けてゆくところにこそ、人間性の自然がある。彼らは、そういう人間性の極限のかたちを生きていた。

 

肉食の起源として、人類学でよく語られている「脳が発達してたくさんのカロリーを消費するようになったから」などというのは嘘です。それだけの理由なら、たくさん木の実を食えばいいだけのことです。大人になればたくさんカロリーを消費するから、誰だってたくさん食うようになる。それと同じことです。そんなことが植物食から肉食に変わってゆく契機なるはずがない。食べ慣れたものこそ、いちばんたくさん食べることができる。米を食って育てば、大人になっても米を食う。たくさん食べる必要が生じれば、なおのこと食べ慣れたものが手放せなくなる。
 原始人は、たくさん食べる必要が生じたから植物食から肉食に移行していったのではないし、肉食に移行するために狩りを覚えていったのではない。狩りをするようになったから、肉食になってきただけです。食うものなんかなんでもよかったから、肉を食うようになってきただけです。そして肉を食う習性が定着して、肉が美味いと思うような舌の感覚になってきただけのこと。
 人類学では、肉食の起源は「死肉狩り」にあったともいわれている。肉を食う必要が生じたから肉食獣の食べ残しを食うようになっていった、と。これも大嘘でしょう。狩りを覚えて肉食が定着してきたから肉食獣の食べ残しを食べるようになっていっただけのこと。肉食が定着していない段階でそんなことをするはずがないじゃないですか。
 死肉狩りよりも、小型の草食獣を殺して食うという純粋な「狩り」のほうが先にあった。チンパンジーだってコロブスという小型の猿を殺して食うという生態を持っているのだから、そう考えた方がつじつまは合うはずです。
 そしてそれは、食うための狩りというよりも、純粋な狩りのための狩りだった。狩りをすることのときめき=カタルシスがあった。
 さらにもうひとつ、「殺して食う」という狩りを覚える前に、肉食獣との戦いをするようになっていったのかもしれない。同種の猿から森を追われてサバンナの近くに出てきた人類は、肉食獣に食われるという長い長い歴史を歩んできた。そうして逃げ場を失えば、もう戦うしかない。それはまさに、「命を懸けた」戦いだったし、その「命を懸ける」ということのカタルシスを知っているのが人間性の自然でもある。つまり「もう死んでもいい」という感慨とともに、戦いを挑んでいった。
 もしかしたら人類史の最初につくられた先の尖った石器は、肉食獣と戦うためのものだったのかもしれない。まあその前に、火を使って相手をたじろがせ立ち止まらせるという戦法を身につけていたのだろうし、そういうかたちで戦いの準備はできていた。先の尖った石器は草食獣の狩りの道具としてはじまったと決めつけてしまって、ほんとにいのでしょうか。
 焚き火やたいまつの火は人類にとって親密なものだったが、それを肉食獣が怖がるということをあるとき発見した。もしかしたらそれが、肉食獣と戦うようになってゆく契機だったのかもしれない。そして、北へ北へと拡散してゆくにつれて肉食獣の数が減り、そのプレッシャーが少なくなってきたということもあるのでしょうか。
 肉食獣との命をかけた戦いを体験したから、大型草食獣との肉弾戦も発想されるようになってきたのかもしれない。それに、北へ北へと拡散してゆくにつれて、大きな集団をつくれるようになってきた。集団のチームプレーがなければ、その狩りは成り立たなかった。北の地には、ライバルとなるチンパンジーなどの霊長類の猿はいない。しかし寒さをしのぐ洞窟の住処は、ハイエナやクマなどの肉食獣と戦って勝ち取らねばならなかった。そのときから人類のライバルは、肉食獣になっていった。
 最初はたいまつの火や石をぶつけたりして追い払うだけだったが、やがて先の尖った石器で致命傷を負わせることもできるようになっていった。それは、直接的には「食糧戦略」ではなかった。純粋な戦いのための戦いだった。そういう「祝祭」だった。彼らは、「もう死んでもいい」という感慨とともに戦いを挑んでいった。
 その「もう死んでもいい」という感慨には深いカタルシスがあった。そうやって人類は、「死」に自覚的な存在になっていった。


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 死を自覚しながら命を懸けて何かをすることこそ人間性の自然であり、そのメンタリティとともに人類の文化が進化発展してきた。
 命を懸けてするものを持たなくて何が人間か、ということは確かにある。衣食住にこだわってただ生き延びることができればそれでいいというわけにはいかない。人間には衣食住よりも大切なものがある。命の尊厳といっているだけではすまない。「もう死んでもいい」という無意識の感慨は誰の中にも息づいている。その感慨とともに人類の歴史が流れてきたのであり、人間的な知性や感性が進化発展してきた。その感慨は人間性の基礎であると同時に究極のかたちでもある。
 生き延びるための衣食住に耽溺し、いくら衣食住に恵まれていることを自慢しても、心の中はどこかすきま風が吹いている。そんなことだけで人の生きるいとなみが完結するわけではないし、そこに人間性の自然があるわけでもない。
 平和で豊かな現在のこの国では、人が衣食住に耽溺して生きることができる世の中になり、それによって認知症鬱病や勃起不全などのさまざまな社会病理を生み出している。その「生き延びる」というスローガンこそ人としての不自然なのであり、人類は滅びてもかまわないのです。滅びてもかまわないという感慨とともに人類は生き残ってきたのであり、それがこの国の文化の伝統でもある。この国の文化の伝統は、特殊なのではなく、原始的なのです。この国の文化の伝統にもネアンデルタール人の文化の痕跡が記されている。
 人は「もう死んでもいい」と命を懸ける存在であり、そこに人間性の基礎と究極のかたちがある。死を自覚する存在である人間にとっては、息をすること自体が、すでに命を懸けている行為なのです。つまりそれは「世界と関係する」という行為であり、そうやって生きはじめることすなわち意識が発生することそれ自体が世界と「命のやりとり」をしているという現象だといえる。
 息をすることは、息をしなくてもいい状態になることです。そうやって息をしなくてもいい状態になって人は生きた心地を覚えている。息をしないことは、死であると同時に生の状態でもある。生き物の生きるいとなみは、生きなくてもいい状態になるいとなみです。この生は、そういう逆説として成り立っている。人類は、この生の本質であるこの生の逆説を、ほかのどんな生きものよりもダイナミックに自覚的に生きている。
 生きることすなわち世界と関係することは、世界と「命のやりとり」をすることである。「命を懸ける」というと何か大げさなことのようだが、誰だってそうやって生きものとして生きている。ただの生きものとして生きることこそ人間性の基礎であり究極のかたちです。
 生き延びるための衣食住のことなんかどうでもいい、それ以上それ以外の命を懸けるものが持てなくて何が人間か、ということがある。生きることそれ自体が「もう死んでもいい」という命を懸ける行為であり、「もう死んでもいい」と命を懸けて学問や芸術や恋やスポーツや冒険をしてゆく。
生き延びることがスローガンで衣食住に耽溺している現代人は、「もう死んでもいい」と命を懸けて世界や他者と関係してゆくタッチを持っていない。その不自然な性向からさまざまな社会病理や閉塞感が生まれてきている。
 生きることに無能なものたちこそ、生きること以上の以外の「命を懸ける」ものを持っている。
 生きることに有能であることをどんなに自慢しても、何か人として生きものとして「みすぼらしいなあ」ということはあるわけですよ。
 おそらく原始人は、生き延びるための戦略として狩りを覚え先の尖った石器を生み出したのではない。「もう死んでもいい」という「カタルシス=ときめき」とともにそれらが生まれてきた。ネアンデルタール人は、その苛酷な環境ゆえに、そのころの地球上でもっとも生きることに無能な存在だった。しかしだからこそ、人間的な文化の先頭ランナーだった。
 人類が死に自覚的な存在であるということは、その生の基礎と究極のかたちは、生き延びようとする「労働」にあるのではなく、もう死んでもいいという無意識の感慨とともにある「祝祭」にあるということを意味する。
「命を懸ける」ことを持たないで何が人間か、ということがある。
 生き延びることなんかどうでもいい、「もう死んでもいい」というお祭り気分で生きていたい。そうやって人類は700万年の歴史を歩んできた。そのお祭り気分にこそ人類の知性や感性の源泉がある。そのお祭り気分から文化のイノベーションが起きてきた。

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 平和で豊かな社会だからでしょうか、今どきは、生き延びる方法の追求に邁進して生き延びる能力があることを自慢したがる人がたくさんいるが、べつにそんな人を尊敬したりうらやましがったりする必要もない、人間にとって生き延びようとすること自体がひとつの大きなストレス(不自然)であり、命の停滞であり知性や感性の停滞なのだから。
 そうやって人はボケ老人やインポテンツになってゆく。そしてそういう考え方や感じ方や生き方は大人になってからではいまさら変えられるものではなく、どうにもならない。だから、そういう人を批判することにも、われわれはためらってしまう。まあそうやって勝手に自慢していてくれと苦笑いしてやり過ごすしかない。
 とはいえ、そういう人たちから無能なわれわれが生き方や考え方や感じ方をあれこれ指図されたりするのは、ちょっと勘弁してくれよ、という気分になる。そういう人たちのそういう粗雑な教育的指導というのは、ほんとにうっとうしい。
 生きることに無能になれないことこそ、彼らの知性や感性の限界なのです。人類は、生き延びようとして先の尖った石器を生み出したり肉食をはじめたりしたのではない。「もう死んでもいい」というお祭り気分からそれらは生まれてきたのです。
 まあ、生き延びる能力のある人をうらやましがったり尊敬したりしているかぎり、無能なものたちはどんどん閉塞感に陥ってゆく。生き延びる能力に執着する性向が今さら変えられないように、無能であることも今さら改まらない。むしろ歳をとればとるほど、ますます無能になってゆく。なぜなら無能であることそ人間性の自然であるのだから。
 欧米は階級社会で、この国でも階層化が進んでいるといわれるが、生き延びる能力が称揚される社会はそうなってゆくに決まっている。なぜなら有能な人間はその社会的合意に居座って有能であることをけっして手放さないし、無能な人間は人間性の自然に沿ってますます無能になってゆくのだから。
 そうして、無能な人間がどんどん追いつめられてゆく。そこが問題です。たぶん昔は、無能な人間が無能であることそれ自体を生きることができた。しかし現代社会は、そうやって生きることがとても難しく、肩身が狭いものになってしまっている。そうやって無能なものたちが追いつめられ、無能なものたちまでも生き延びる能力を得ようと悪あがきしている。
 無能なものたちはもう、人類の生贄として無能であるまま滅びてゆけばいい。本格的な学者や芸術家は、じつはそうやって人間性の自然を証明している。彼らは、生き延びるための衣食住なんか振り捨てて衣食住以外の以上のものに殉じて見せてくれている。彼らは、この世のもっとも「弱い=無能な」ものでもある。中途な半端な俗物ばかりが生き延びる能力を追及したりそれを自慢したがったりしている。現在はそういう「市民」という俗物がマジョリティの世の中だが、そんな強迫観念的な欲望が人類史の進化発展をもたらしたのではないし、そこに人間性の自然があるのではない。
 

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 人の心は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに華やぎときめいてゆく。それが人類の知性や感性の源泉であり、人類史の文化の進化発展の契機になっている。この世の本格的な学者や芸術家はそういうタッチで研究や創作の成果を上げているし、それはまた死にそうな障害者や病人や老人や貧しいものなど、生きられない「この世のもっとも弱いもの」の心模様でもある。つまりそれが基礎でありもっとも高度なかたちでもあるということは、誰の中にもそういう心模様がある、ということです。
 人間は「悲劇」が好きな存在であり、うれしかろうとかなしかろうと「泣ける」体験にこそカタルシスがある。そのときこの生もこの世界もきらきら輝いている。そういう体験とともに人類史の文化が進化発展してきた。
 この世のもっとも本格的な学者や芸術家も、この世のもっとも弱いものたちも「泣ける」体験を持っている。そしてその体験の源泉は、人間性の自然としての「もう死んでもいい」という無意識の感慨にある。心の底からうれしかったりかなしかったりすれば、泣けて涙が出てくる。
「もう死んでもいい」という感慨は、たんなるネガティブな心模様だというだけではすまない。ときにそれは、生き延びようとする意地汚い欲望よりもずっと純粋で清らかで美しい心模様になっている。人はそうやって命を懸けて何かをするのだし、そうやって命を懸けることが人の基礎的な生きてあるかたちだともいえる。
 命を懸けてするものを持たなくて何が人間か、ということは確かにある。生き延びるための衣食住に執着し耽溺している暇などない。心が華やぎときめいていれば、それどころじゃない。
 いいかえれば、むやみに生き延びる能力を追求し自慢したがるばかりの現代人は命を懸けるものを持っていない、ということになる。命を懸けることは、偉い学者や芸術家や勇敢な冒険家たちだけの心の世界ではない、人間なら誰にとっても生きてあることは命を懸ける体験にほかならない。
「朝(あした)に道を問はば夕べに死すとも可なり」というのは、学問や芸術の本質であると同時に、人が生きてあることそのもののかたちでもある。
 人は、命を懸けてこの世界や他者に反応してゆく。世界や他者と関係することは、世界や他者と「命のやりとり」をするということです。学者や芸術家でなくとも、魅力的な人はそういう「ときめき」のタッチを持っている。たとえば、気の利いたことがいえるとか気の利いた会話ができるというのは、「ときめき」を持っているからでしょう。それだけのこと。それは、知能指数の問題じゃない。人格というか、人間性の問題です。そのとき人は、命を懸けて世界や他者に反応している。そしてその「ときめき」こそが人類史の文化の進化発展の契機になった。
 学者や芸術家が研究や創作をすることだろうと、憂き世のしがらみを嘆きながら生きる庶民が人としてのたしなみを問うてゆくことだろうと、遊びの世界で男を磨いたり女を磨いたりしていることだろうと、人は誰もがそれぞれの生のかたちに沿って「命を懸ける」ということをしている。生きることは命を懸けることだ。
 まあネアンデルタール人こそ、人類史においてもっとも命を懸けて生きている人々だった。その体験こそが、その後の人類史の文化の進化発展の基礎になっている。そういうことを、この国の研究者も含めた古人類学フリークたちは何もわかっていない。
「生き延びるため」だなんて、笑わせてくれるよ。そんなとこところに人の命のはたらきのダイナミズムがあるのではない。
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