彼らはなぜMMTを忌み嫌うのか

 

 

「日本終わってる」……の大合唱が起こりはじめている。

貧富の格差はどんどん進んでゆくし、ヘイトや差別や分断やハラスメントやメンヘラが蔓延していて、こんな国で暮らしてゆくのは地獄だ、と思う人はたくさんいる。

しかしそれでも世界は輝いていて、そういう心の底の「ときめき」によって生きることを余儀なくさせられている。死んでしまえばいいだけなのに、それでもまだ生きている。

「生命の尊厳」などといっても、それは自分の命のことではなく、他者の命のことだ。そうやって他者に「生きていてくれ」と願い、親しい他者が死ねばおいおい泣く。

人は、自分が生き延びるために生きているのではない、世界が輝いているからであり、他者が生き延びるための手助けをしたいからだ。そうやって子供を育て、老人の介護や病人の介護をする。

自分が生きていることに意味も価値もありはしない。意味や価値は、自分や自分の命にではなく、この世界や他者の輝きのもとにある……それが人類の普遍的な無意識であり、そこから「貨幣」が生まれてきた。

「貨幣」は、「世界の輝き」の形見(アイコン)なのだ。だから、貨幣には意味も価値もある。

貨幣は、大切なものだ。だから、大切に扱わねばならない。

貨幣をむしり取ることは、貨幣を捨てることと同じだ。大切に扱っていない。大切なものだから、奪っても捨ててもならない。大切なものだからこそ、それは「捧げもの」の形見になる。貨幣の本質は、「捧げもの」であることにある。

原価100円の商品を1000円で買えば、900円は「捧げもの」である。「捧げもの」でなければ貨幣ではない。「捧げもの」をするのが人間の本能なのだ。まあ商人はそこに付け込んで金儲けをするわけだが、そこに人間性の本質があるのではない。金儲けをさせてしまうところに、人間の本能というか人間性の自然がはたらいている。

人の世は、貨幣を「捧げもの」として流通させている。お金が入れば使いたくなる。それは、商品が欲しいとかということ以前に、お金を使うということそれ自体がしたいのだ。だから、人におごってやりたくなったりする。

世界は輝いている。だから、「捧げもの」をしたくなる。

自分のこの命は、他者が生きてあるために存在している。だから、親しい他者が死んだときは、おいおい泣いてしまう。それは、自分が生きてあることの根拠を喪失してしまう体験なのだ。

とはいえ人は、他者を生きさせてやることなんかできない。生きることは、その人自身のいとなみだ。「馬を水辺に連れてくることはできるが、馬に水を飲ませることはできない」ということわざがあるように、人は他者との関係を願いつつ、他者との関係の根源的な不可能性を負って生きている。生きてあることそれ自体に「喪失感」と「無力感」がともなっている。人が生きてあることには、つねに「生きてあることの根拠が持てない」という喪失感と無力感がついて回っている。その「いたたまれなさ」を埋めるための形見として、人類の歴史に「貨幣」が生まれ、「祭り」がにぎやかになってきた。

 

日本が「終わっている」のは、総理大臣をはじめとしてだれもが「捧げもの」の精神を失っているからだろう。

自我を確立して「自分には生きる価値がある」と思うのなら、「捧げもの」をする必要なんかない。

政治家や官僚はいくらでも民衆から税金を搾り取ればいいと思っているし、資本家は労働者を安い給料でこき使うことに何のためらいもない。彼らは、民衆の「捧げもの」の本能に付け込んで徹底的に搾り取ろうとしてくる。悪いのは彼らだといっても、民衆の中の本能的な「捧げもの」の衝動がそれを許してしまっているわけで、われわれ人類はこの構造を克服することができるだろうか。1パーセントの富裕層と99パーセントの貧しい民の群れ、まるで女王蜂のいる蜂の社会のような仕組みではないか。

世界中で、新自由主義の不健全な両極化が進んでいる。それを克服しようとして提唱されてきたのがMMTらしい。経済政策は小さな政府で市場の自由な動きに任せるのがよいという新自由主義思想に対してMMTでは、大きな政府で国家が国債を発行しながら民衆の経済活動を援助してゆくべきだ、と提唱している。

まあ現在の世界経済は新自由主義によってここまでひどい状態になってしまったのだから、その反省はあってしかるべきなのだが、それでも国家が市場経済に介入することは共産主義化やファシズム化につながるという警戒感があるらしい。

しかし現在は、資本家=企業が国家を利用しながら民衆を抑圧しコントロールしているのだから、もうじゅうぶん国家主義的な体制になってしまっている。そりゃあ、企業が国家の仕事の肩代わりをしているのだから「小さな政府」になるに決まっている。民衆が消費した貨幣は、まるで税金を徴収するように、どんどん金融市場に吸い上げられてゆく。「小さな政府」になってさらに国家主義的支配が強まっている。

あの太平洋戦争のさなかだって、政府の機能のほとんどは軍部に乗っ取られていたのだから、やっぱり「小さな政府」だったわけで、「小さな政府」ほど国家主義ファシズムになりやすい。「市場経済の自由な動きに任せる」といっても、市場が国家支配を肩代わりしているだけなのだ。そうやってアメリカでは医療費がバカ高いものになってしまっているし、この国でもやがてそのようになってゆくらしい。

民主主義では、国家は民衆に奉仕する機関である、という認識なっている。だから、それでも支配しようとすると、「小さな政府」になって市場に支配を肩代わりさせてゆく。というか、市場と結託して支配を見えにくいものにしてしまおうとする。そうやって民衆は、真綿で首を締めるように支配されてゆく。

MMTの論者たちは、「大きな政府」になって民衆に奉仕せよ、という。民衆への「捧げもの」として国債を発行せよ、という。

国債を発行することが国家主義だと考えるのは短絡的過ぎる。国債こそ、民主主義のための大切なカードなのだ。であれば、「市場に任せる」ことが民主主義だともいえないわけで、そのことが国家支配の免罪符になっていたりする。

この2~30年を新自由主義で歩んできたこの国は、市場に任せようとした結果として、終わりつつあるのか、それともすでに終わっているのか。

 

彼らは、何ゆえそんなにもMMTを毛嫌いするのか?

それはたぶん、政治の問題ではなく、人間観とか世界観とか生命観とかの問題ではないだろうかと思う。もともと自民党に批判的な左翼系の政治家や知識人でも頭ごなしに否定していたりする。インテリにはわかるけど無知な庶民には理解できない、というようなことではない。無知な庶民でも、わかりやすく説明されれば、ああなるほど、と納得することなのに、彼らはかたくなにそれを拒否する。それを認めれば、彼らが信じている人間観や世界観や生命観が根こそぎ崩れてしまうらしい。

近代合理主義とは何かということの定義はいろいろややこしいのだろうが、戦後のこの国はそういう思想に洗脳されて歴史を歩んできた。おそらくMMTは、近代合理主義にそぐわないのだろう。

近代合理主義といえば、「自我の確立」とか「生命の尊厳」というような合言葉がまず浮かぶ。ヨーロッパの近代は、科学と経済の革命的な進化発展とともに国家主義の戦争による大量虐殺がどんどんエスカレートしてゆく時代だった。そういう時代の流れに対する抵抗の精神として近代合理主義が生まれてきたのだとしたらそれはそれで大きな意義のあることだったのかもしれないが、それが人間性の本質にかなっているかどうかということとはまた別の問題だ。

ヨーロッパの近代がそういう時代だったとしても、人類700万年の普遍的な歴史に照らしてそういうことがいえるのかどうかは極めて疑わしい。欧米人はいまだに「文明」とか「宗教」に縛られた範疇で人間や世界や生命について考えている傾向がある。「文明」や「宗教」という名の合理主義……。人間性の本質を考えようとするなら、ひとまずそのことは除外しなければならない。人類700万年の歴史の99・9パーセントは、文明国家も貨幣経済も宗教もなかったのだから。

 

MMTは、近代合理主義ではなく、原始思考なのだ。原始思考だからこそ普遍的で未来的である、ともいえる。

「原始宗教」などという。これだって近代合理主義的思考で、原始時代に宗教などなかったのだ。国家もなかったし、貨幣はあっても、貨幣によって商品と交換するという「貨幣経済」はなかった。

「きらきら光るもの」としての原始時代の貨幣は、「交換の道具」ではなく、あくまで一方的な「捧げもの」だった。

そうしてMMTの論者たちは、貨幣を「捧げもの」として流通させることによって社会の経済は活性化する、と提唱している。

「捧げもの」は自分のもとから「消えてなくなるもの」であり、代わりに得られるものもない。そうやって「消えてゆく」ことのカタルシスを抱きすくめてゆくのが人間性の本質であり、そこにこそもっとも深く豊かな人間的な「快楽」のかたちがある。

これは東洋的な「空」の思想であり、それに対して近代合理主義においては「存在」の本質と価値を問うており、そこから「自我の確立」やら「生命の尊厳」というテーゼが生まれてくるし、貨幣だって「交換の道具」としてあらかじめ「存在」するものだという認識になる。

存在論」にこだわるのが近代合理主義だとすれば、「ポストモダン」としての現在の最先端の科学や哲学は「空=非存在」を積極的に問うようになってきている。

貨幣はあらかじめ「存在」するものではなく、「現れて消えてゆくもの」である……それがMMTだ。

「貨幣はしだいに市場から消えてゆくものである」という認識は、経済学者なら誰でも知っている。そこで彼らは「だから貨幣の本質においては意味も価値もない」という。しかしそういう認識の仕方をするところが「存在論」にこだわる近代合理主義の限界であり、「消えてゆくものである」というそのことにこそさらに深い意味や価値がある。

右翼であれ左翼であれ、この国の戦後教育は、近代合理主義にすっかり染められてしまっている。「自我の確立」は、作為的な新自由主義に向かう。現在のこの状況は戦後教育の必然的な帰結であり、そうやって戦後教育の洗礼を受けた自意識過剰の者たちが、自意識を捨てて原始共産制の精神を呼び戻そうとするMMTを忌み嫌っている。官僚とか大学教授とかインテリジャーナリストとか立憲民主党枝野幸男とか、みんな戦後教育の優等生で、彼らはどこかしらでそれを認めることを怖がっている。おそらく、認めれば自我の崩壊の危機を感じるからだろう。

「自我=自分」とは、銅銭の四角い穴と同様に、たんなる「空虚な中心」にすぎないのであって、「存在」ではない。そしてそれは、現在の世界のもっとも先端的な科学や哲学の問題でもある。

「自我=自分とはたんなる空虚な中心である」ということが人類の共通認識になれば、いずれ「私有財産」が否定される時代が来るかもしれない。そういう意味で原始共産制は、究極の未来の社会像でもある。

ポストモダン」の時代は目の前にあるのか。それともはるか遠い未来のことなのか。

 

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