言葉は伝達のための道具か・「漂泊論」86

     1・コミュニケーションという制度性
この社会に立ちはだかる壁は厚い。
僕にとっては、言葉が伝達のための道具として生まれてきたのではないことは至極あたりまえのことのように思えるのだが、世の中の多くの人々は、逆に伝達の道具として生まれてきたと信じきって、疑うという気などさらさらないらしい。
言葉の起源や本質を「伝達の道具である」ということにしておかないと困る事情があるのだろうか。
たぶんこの世の中は、そういう前提で動いているのだ。
言葉の起源や本質は伝達の道具ではないということになると、現代社会の動きを成り立たせているさまざまな前提があやしくなってくる。
たとえば、そうしておかないと、「コミュニケーションは愛だ」とか、そのコミュニケーションによって「幸せを分かち合う」という倫理観や、コミュニケーションによって家族や学校や会社が成り立っているという信憑が保てなくなる。
そうしてお金は、もっともたしかで安定しているコミュニケーションだ。
100円は100円で95円ではない……このことは、誰も疑えない。こんなにたしかなコミュニケーションの道具もない。
コミュニケーションこそ、現代社会の制度性を成り立たせている根幹なのだ。
と同時に、人々のアイデンティティの根幹でもある。
だから、そうかんたんにはこのコミュニケーション信仰は手放せない。なんといってもわれわれは、そういう社会通念に踊らされて生きてきたのであり、生きているのだ。
現代人は、言葉は「伝達=コミュニケーション」の道具であるということにしておかないと生きてゆけないらしい。
ある人が「お金は現在の世界宗教である」といっておられた。それは、コミュニケーションこそ人間社会の根幹である、ということだ。
現代人は、コミュニケーション信仰をけっして手放さない。
そういう世の中で「言葉は伝達=コミュニケーションの道具ではない」といっても、むなしく壁に消えてゆくだけである。
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     2・「人間の自然」と「社会の制度性」は逆立する
社会制度は、言葉を伝達の道具にすることによって円滑に機能してゆく。
しかしわれわれは、そうやって社会の制度性に踊らされている部分と、人間の自然とともにプライベートな生活領域を生きている部分も持っている。
人間社会といっても、会社や学校などの公の社会だけでなく、恋や友情などのプライベートな生活領域の人間社会もある。共同体が生まれる以前の原始社会は、後者のような人間関係の上に成り立つ社会であったはずである。
言葉は、そういう「人間の自然」から生まれてきたのだ。共同体の制度性の発達とともに伝達の道具としての機能を強くしてきたというだけで、そういう機能として生まれてきたのではない。
人間は、人間の自然と逆立する社会制度を生みだした。いつの間にかそういう反自然の制度性というものが育ってきてしまった。それは、つくりたくてつくったのではない。気がついたらいつの間にかそういう制度性が育ってきてしまっていたのだ。
人間の自然にしたがって生きていたからこそ、そういう反自然の制度性が生まれてきてしまった。共同体の発生を考えるとき、そのからくりを考える必要がある。
それは、つくろうとしたのでもつくる必要があったのでもない。それでもそれが生まれてくることには、ある必然性があった。
ともあれ原始人は「人間の自然」にしたがって生きていたのだ。
だが、現代社会の制度性に踊らされて生きてきた人間には、「人間の自然」に対する考察ができない。自分たちは「人間の自然」をよく知っているつもりらしい。そのつもりで「言葉は伝達の道具である」というのだが、その機能は現代社会の制度性にすぎない。
現代社会の言葉は、制度性としての「伝達」の機能を色濃く持っている。まあ、それだけのことだ。
そして、「人間の自然」と「社会の制度性」は逆立する。
人を好きになったりセックスをしたり学問や芸術に親しんだりすることは、「人間の自然」の部分である。
おしゃれをして町を歩くことや、スポーツをすることや、かくれんぼやトランプをして遊ぶことだって、「人間の自然」の問題だ。
人は、「人間の自然」をより深く豊かに生きるために、ひとまず「社会の制度性」に身を浸す。
だが、「人間の自然」は「社会の制度性」と逆立するのだから、「人間の自然」が「社会の制度性」を生みだそうとするはずがない。
「社会の制度性」は、人間の集団にあるとき突然生まれてきてしまった。
それは、人類700万年の歴史のうちの、たった1万年前からのことである。その制度性を「人間の自然」であるかのようにいわれると困る。
人類は、700万年かけて「共同体(国家)」の成立にたどり着いたのではない。そんなことを目指して700万年の歴史を歩んできたのではない。
むしろ、生きようとする目的を持たず何も目指さないことが「人間の自然」だから、それとは矛盾した「共同体(国家)」というものが生まれてきてしまったのだ。
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     3・人間の記憶力はなぜ発達したか
何も目指さなければ、逆算して物事を見つめるようになる。いま晴れているが、さっきまでは雨が降っていて、その前の空は雲に覆われていた。
そうやって、空が雲に覆われていることは雨が降る前兆だとわかる。そうして、雨が降っている中で、そのうちきっと晴れるだろうと晴れていた空の記憶を反芻する。
それがどのように変わるかの予測は、過去のデータによってなされる。
人間は、未来を思わない生き物だったから、記憶力が発達した。記憶力が発達してデータが蓄積していったから、未来を予測できるようになっていった。
ほかの動物の記憶力はあいまいである。
猿や犬は、春の次に夏が来ることを知っているだろうか。そのつどそのつどの新しい春との出会い新しい夏との出会いを繰り返して生きているだけかもしれない。
もちろん、無意識の中にインプットされた記憶というのはあるだろう。秋になると、向こうの池のほとりの木においしい実がなっていることがなんとなく頭に浮かんでくる。しかし、来年もまたそこになることは思わないし、夏のあいだにもうすぐ実がなるだろうと予測しているわけでもあるまい。あくまで、秋になったことの条件反射として、その実がなっていることが想起される。
記憶していなければ、予測することはできない。
人間は未来を思わない生き物だから、どんどん記憶力が発達していった。そうして、未来を予測できるようになっていった。
人間は、猿よりももっと未来を思わない生き物だったから、猿よりも記憶力が発達した。ひたすら「いまここ」しかないと思い定めて生きていたのだ。
生きていれば、未来という時間があることに気づかないはずがない。それでも、未来に生きてあることを断念して、ひたすら「いまここ」を生きた。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、自然界の生き物としての生き延びる能力を失い、未来という時間を勘定に入れて生きていることのできない存在になった。そういう意識に、記憶力が育っていった。
人間が記憶力を持っているということは、根源的には未来を思わない生き物であることを意味しているのではないだろうか。
未来を知っているのに、未来を思うことが塞がれている。その意識が過去に向かって逆流し、記憶力が発達していった。
人間は、未来を思わないで過去に思いを馳せる生き物だから、「歴史」という学問を生みだした。
そして、未来を思わない生き物だからこそ、「予測する」という制度的な未来意識が肥大化してきた。
未来を予測することは、未来を追憶することである。
ともあれ、そうした制度的な未来意識=目的意識が時代とともに肥大化してきたあげくの果てに「言葉は伝達の機能である」とか「人間の本性は目的を達成しようとすることにある」とか「生き物には生きようとする衝動(本能)がはたらいている」とか、そういう不自然を自然と勘違いするような言説が合唱される世の中になったのだ。
現代人は、そうやって自分の中の制度性を正当化している。
そういう制度性を色濃く持っている人間がリーダーになってゆく社会だから仕方がないのだが、それでも僕はこう言いたい。
「それは人間の自然ではない」と。
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     4・人間は自然に遡行する
共同体とは、「こんなことをしなければならない」とか「こんなことをしてはいけない」というような規則の上に成り立った集団である。それは、未来に対する意識であり、そういうひとつの「目的」を持つことである。
「目的」という未来意識が育ってくることによって、共同体が生まれてきた。
集団の人口が増えれば、規則を持たないと集団の運営ができなくなる。未来意識が育ってこなければ、規則は生まれてこない。共同体は、未来意識=目的意識とともに生まれてきた。
種を植えて作物を育てるという農業もまた、未来意識=目的意識とともに生まれ育ってきた。
そうやって人間は、未来に向かうスケジュールをつくって生きるようになっていった。
未来意識=目的意識が育ってくることによって、大きな集団の共同体や農業がが生まれてきた。
そうして言葉もまた、伝達の道具へと変質していった。
では、人間は、それによって未来を思わない原始的な意識を失っていったかといえば、そんなことはない。
未来を予測することは、過去のデータを収集することである。そうやってさらに記憶力が特化してゆき、記憶しきれないことは「文字」として残そうとするようになっていった。
記憶しきれないことを意識するようになって、それを補うかたちで未来を予測する意識が育ってきたのかもしれない。
未来を思わないことを本性として700万年の歴史を歩んできた人類にとって、未来を思うことは不安であり苦痛である。だから、よけいに過去を思うようになってゆくし、「いまここ」に対する意識も切実になってくる。
もともと、「いまここ」だけがこの生だ、という意識で歴史を歩んできた存在なのだ。未来を思うことによって「いまここ」に対する意識がさらに切実になって、意識が「いまここ」にとどまることのカタルシスがより深くなってきた。
快楽の発見、ということだろうか。
未来を予測し目的を追求する共同体の制度の中に置かれることは、そこから離れて「いまここ」に身を浸してゆくことの快楽をさらに深くした。そうやって、共同体の制度だけでなく、プライベートな生活世界も充実してきて、遊びや恋や学問や芸術が発達してきた。そうやって人間は、共同体の制度の世界とプライベートな生活世界と、二つの世界を持つようになった。
つまり、それ以来、自然を生きる存在から、自然に遡行する存在になっていった。
なんのかのといってもけっきょく人間の生は、「未来を思わない」という「人間の自然」の上に成り立っている。
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     5・人間はおしゃべりの楽しさを手放さない
共同体(国家)は幻想である……などといってもしょうがない。それはそれで、人間存在のある必然性とともに生まれてきた。
ただ、共同体の制度性がわれわれを生かしているのではない。
人間は「人間の自然」に遡行する。
人間は、根源において未来を思わない生き物なのだ。そういう「自然」に遡行するということを繰り返しながらわれわれは、この制度性が発達した現代社会を生きている。
コミュニケーションとは、たがいの「目的」を伝え合うことである。そうやって、未来意識を共有することの上に成り立っている。
そのときたがいに「わかる」という未来をを目指している。自分のいうことをわからせようとし、相手のいうことをわかろうとしている。
わかればそこで話は完結し、その先の展開はない。
しかし実際の人と人の会話は、そこでは終わらない。その先へ先へと展開してゆく。
主婦の井戸端会議なんか、いつ果てるともしれない。
人間の思考だって同じである。「わかった」ではすまない。そこからまた新たな疑問が湧いてきて、どこまでも続いてゆく。
それは、「わかる」という「未来にたどり着く制度性」から、「わからない」という「未来を思わない自然」に遡行する心の動きにほかならない。
人間は「わからない」という「いまここ」の地平に立とうとする。それが、人間の自然だ。
人と人のプライベートな会話(おしゃべり)も、そういう人間性の上に成り立っている。それはまあ、社会の事務的な会話とはちょっと違う。「わかりました」ではすまない。
主婦たちの井戸端会議。
「あの人、わがままで生意気で、やあねえ」
「そうねえ、目ざわりだわ」
「でも、なんでもよく知ってるから、何か聞くときは便利よ」
「それが生意気なのよ」
「彼女、ご主人や子供とどんな話をしてるのかしら?」
「このまえ、家族そろってスーパーで買い物をしているのを見かけたわ」
「どうだった?」
「楽しそうだったわよ」
「ところで、3丁目に新しくスーパーができるそうよ」
「何いってるのよ、それはコンビニよ」
「あらそうなの?」
「あのあたりの未亡人がさ、旦那の生命保険で建てるそうよ」
「うちの主人も死んでくれないかしら」
「あんたのご亭主は、そうかんたには死にゃしないわよ」
「そうかしら」
「それより、浮気される心配なさいよ」
「そういえば、高橋さんのご亭主……」
もう、とどまるところを知らない。
誰も、「わかった」といって満足していない。思考停止していない。
コミュニケーションでもなんでもない。わかり合っているのではなく、差し出されたその言葉に反応して、つねに新たな「わからない」に分け入ってゆく。
「人間の自然」としての心は、そのように動いてゆく。
そこにあるのは、わかり合うことのよろこびではなく、音声=言葉を交わし合うことのよろこびがあるだけだ。
主婦たちのおしゃべりは、そういう「人間の自然」に遡行してゆく。
たがいの身体のあいだの空間に音声=言葉が飛び交っていることのときめきがある。
音声は、「いまここ」に発生して「いまここ」に消えてゆく。原初の人類は、そのことにときめいた。
その「未来がない」ということにときめいた。
心は、その音声とともに「いまここ」と出会っている。
言葉=音声を聞くことは、発生した瞬間に消えてゆく「いまここ」と出会う体験である。
「いまここ」は、過去と未来の狭間の「非存在」の空間として生起し消えてゆく。
その音声によって「いまここ」をたしかに実感しながら「いまここ」に消えてゆく。そういうカタルシスを汲み上げながら人類は、言葉を育てていった。
自然言語というか、原始人の言葉は、人間がいかに未来を思わない生き物であるかということの上に成り立っていた。
そしてわれわれ現代人もまた、プライベートな生活空間ではそういう流儀で言葉を扱っている。
どんなに共同体の制度が発達しようと、人は「人間の自然」に遡行しようとする衝動を手放さない。
知性も感性も身体の快楽も、「人間の自然」に遡行しようとするところから生まれてくる。
人間は、意味もないおしゃべりの楽しさをけっして手放さない。
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