そんなにもちやほやされたいか・「漂泊論」87

     1・死は、「いまここ」に消えてゆくことである
前回、人間は人間の自然において未来を思わない生き物である、と書いた。
だからわれわれは、人と一緒にいて楽しければ、別れたくなくなってしまう。
人間は、かならずしも未来を思うことを優先して生きているわけではないし、快楽は「いまここ」に消えてゆくことにある。
できることなら「いまここ」だけを思って生きていたいが、「いまここ」がつらいのなら、ときに未来の「死」を思ってしまう。
しかし、切実に死を思うのなら、死は「いまここ」にあることに気づく。
死は、「いまここ」に消えてゆくことであり、未来にあるのではない。そのようにして、死が親密なものになってゆく。
人間は、未来を思わない生き物だからこそ、死を親密なものとして生きることができる。
われわれは、「いまここ」に消えてゆく、というかたちでしか死ぬことができない。
だから、ひといちばい「死にたい」と思いながら死ねない人がいる。たぶん、そういう人が、いちばん死のことをよく知っている。
死を未来のものと思い、意識が未来の目的を追求するという制度的な思考に染まってしまったときに、あんがいかんたんに死を選んでしまう。
この国の自殺者が年間3万人を超えるという事態は、それだけ未来を思い、未来の目的を追求し達成することが大きな価値(スローガン)になってしまっている世の中だからだろう。
それはまあ、ひとつの「戦後精神」であり、それによってこの国は、戦後の経済成長を果たしてきた。そういうことのつけとして、自殺者が後を絶たないという現在の事態を引き起こしている。
そういう「目的達成」に向かう欲望が、この国の共同幻想になってしまっている。
ただ「世の中が平和で豊かになったから」とか、それほど単純な問題ではない。
自殺することだって、未来の目的を追求し達成しようとする意欲の上に成り立った行為なのだ。
なのに近ごろでは、AKBの少女たちのなりふりかまわず目的を達成しようとする「ハングリー精神」こそ「反・戦後」の精神だと持ち上げていい気になっている知識人たちがいるらしい。
ほんとに、どうしようもないアホたちだと思う。
その空騒ぎこそ、戦後精神がいまだに清算されていないことの証しであり、自殺者が後を絶たないことの元凶だというのに。
世の中がそんなふうに「人にちやほやされたい」という思いの空騒ぎを繰り返しているのなら、鬱病の人やガン病棟にいる人たちは、さっさと死んでしまいたくもなるさ。
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     2・なぜちやほやされたがるのか
しかしそれでも人間は、根源的には未来を思わない生き物であり、生きてある未来を思うことができない弱い猿なのだ。
未来を思わないということに「人間の自然」があり、そこにこそ生きてあることのカタルシスがある。
死も、この生の快楽も、「いまここ」に消えてゆくことにある。そしてその心の動きから、人間的な文化が生まれてきた。
それは、人類は何を「目的」として追求したかという問題ではない、人間にとって生きてあることのカタルシスはどこにあるかという「快楽」の問題なのだ。
人間の快楽は、「未来を思わない」という「人間の自然」によってもたらされる。そこにこそ生きた心地がある。
人間の生きるいとなみの基本は、「いまここ」に消えてゆくことにある。そのカタルシスを汲み上げながらわれわれは生きている。
そういう生きる作法を、人は、幼児体験として習得する。
言い換えれば、その「いまここ」に消えてゆくという作法を獲得することに失敗して、「未来の目的を追求する」という意識が肥大化してくる。
「いまここ」と和解できないから、未来に向かおうとする。
親や社会が寄ってたかって子供の意識を未来に向けさせるのか。
子供自身だって、自分の身体の無力性や受苦性がちゃんとケアされないことにルサンチマンを持つのか。
幼児期にそうやって身体の無力性や受苦性を自分で始末することに失敗することの原因は、ただ単純に母子関係の問題だけでは説明がつかない。
もともと病弱な子供は、始末する作法が発達している。なぜならその子は、自分の身体を消そう(忘れよう)とする作法を身につけないと生きていられない。
なまじ中途半端に健康であると、自分の身体を消す(忘れる)ということの切実さが育たない。そうして、いつもまわりに始末してもらおうとする依頼心ばかりが肥大化してくる。
おそらくこれが、「人にちやほやされたい」という心の動きの原型だろう。
それは、親子関係の問題とばかりはいえない。
とにかく、幼児体験として、「いまここ」で自分の身体の存在を消す(忘れる)、という作法を身につけることに失敗しているのだ。
失敗している幼児はもう、人にちやほやしてもらうことによってしか、みずからの身体の無力性や受苦性に始末をつけることができない。
自分の存在を消す(忘れる)作法が身についていないから、人にちやほやされたがる。戦後社会は、そういう人間を大量にあふれさせた。
彼らの意識は、つねに「いまここ」から離れて、ちやほやしてもらえる未来に向いている。これが、現代人の目的意識=欲望の原型だろうか。同時に、現代社会の病理のかたちでもある。
社会的な地位のある人がリタイアして人にちやほやしてもらえなくなったとたんに鬱病認知症になってしまったりする場合も多い。
現代人は、「未来を思わない」という人間の自然を喪失している。「いまここ」に消えてゆくという作法を知らない。
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     3・ルサンチマンサディズム
人間は、身体の「無力性」と「受苦性」を負って存在している。
人間は、身体を消そう(忘れよう)とする。それが人間の自然であり、そこにこそ生きてあることのカタルシスがある。
人間は、身体=自己の「不在」において、この生を見いだす。
人間は、自分を忘れて他者にときめいてゆく。
自分を忘れて何かに熱中してゆく。
自分を「消す=忘れる」ことが、生きることだ。
人間の自然において、われわれは承認されるべき自己を持っていない。
人にちやほやされたい承認願望とか自分さがしとか、現代人は、どうしてそんなにも自分に執着するのだろう。何はともあれそれはたぶん、幼児体験として、身体=自己の「不在」に向かう作法を持つことに失敗していることに由来する。
彼らはそれを、他者のせいだと思っている。他者に恨みがある。その恨みを取り返そうとして、ちやほやされたがる。
人間が嫌いであることと、人間に恨みがあることとは違う。
身体=自己の不在に向かう作法を持つものは、避けがたく人間が嫌いになる。
人にちやほやされたがるものは、人間に恨みを抱いている。人にちやほやされるためには、人を支配しなければならない。人に好かれたいものは、人を好きにならない。人を支配しようとする。もともと、身体=自己を消して人にときめいてゆくということができない存在なのだ。その恨みが、支配欲になる。人が好きなのではない。好きなふりをしているだけだ。好きなふりをして、自分を好きにさせようとしているだけだ。
人にちやほやされたいのは、一種のサディズムである。そういうサディズムが現在のこの国に広がり、自殺者が年間3万人以上という事態になっているのだろうか。
人にちやほやされることが価値の世の中なら、ちやほやされないものは死んでゆくしかしかない。
人間を生かしているものが、人を好きになる心ではなく、人から好かれちやほやされていることの満足にあるというのなら、もう生きてゆけない。
現代人は、身体=自己の「不在」に向かう作法を持つことに失敗している。人を好きになることは、身体=自己の「不在」に向かうことだ。
人間の自然において、生きてあることのカタルシスは、身体=自己の不在において体験される。人間という存在は、そのようにできている。
人間存在の根源においては、人に好かれるかどうかということは、たいした問題ではない。
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     4・片思いの思想
人にちやほやされたいのは、現代社会の病理である。
人間とはそういう存在である、と居直るべきではない。
根源的には、人間は「片思い」する生き物なのだ。自分を忘れてしまうことができればそれでいい。それで、なんとか生きられる。そのときの身体=自己の「不在」が人間を生かしている。
べつに、ちやほやしてもらえなくてもかまわない。
もしもちやほやされてよろこんでいる自分に気づいたときは、用心した方がいい。そこにおいて、われわれの品性が試されている。
人にちやほやされて身体=自己に気づかされることは、身体=自己の危機なのだ。
人間は、片思いができないと生きられない。片思いをすることでやっとこさ生きている存在なのだ。
現代社会は、片思いの心性を排除して、「愛し合う」というスローガンが合唱されている。そうやってたがいにちやほやしあって生きてゆこうとしている。
意識がつねに未来に向いて、未来も生きてあることを前提にして生きてゆこうとするなら、そういう時間意識には、「愛し合う」という制度が有効なのだろうか。
制度性としての時間意識。
それに対して片思いは、空間意識であって、未来を思う時間意識ではない。
人類は、未来を思うことの不可能性の歴史を歩んできた。そこから「いまここ」に消えてゆくことのカタルシスを見いだし、その消失感覚とともに空間意識をはぐくんできた。
消失感覚は、空間意識である。
人間は、「いまここ」であなたと出会い、自分を忘れてときめいてゆく。そういう消失感覚と同時に、この世のどこかしらに見知らぬ「あなた」が生きてあることを思い、そのことが希望になったりする。
そういう「いまここ」の消失感覚と空間感覚によって、人類は地球の隅々まで拡散していった。
旅は、広い空間を思うことであると同時に、「自己の不在」を思う消失感覚に心を浸してゆく行為でもある。
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