「漂泊論」・35・おまえら大人はいい気なものだよ

   1・人類の変種
漂泊とは、即興性のことだ。即興性でさまよう旅のことを、漂泊という。日本列島の伝統においては、生きてあることはひとつの漂泊の旅であった。
それに対して、欲しいものが手に入るということは予定調和の自己完結・自己確認の物語である。
消費行為とは、そういうハッピーエンドの物語のことだろうか。社会の平和と豊かさは、そういう自意識を満たしてくれる。
戦後の日本社会は、この自己完結・自己確認のよろこびとともに経済発展を続けてきた。どの国よりも目覚ましい勢いで、しかもどの国の人々よりも無邪気にこのよろこびに浸って生きてきた。
自己実現、ともいう。現代社会の消費活動のダイナミズムは、自己実現の衝動の上に成り立っている。
ひとまず、西洋の近代合理主義とは自己実現の思想である、ということにしよう。この思想が、資本主義社会の発展につながっていった。
まあ、資本主義がなくても、「自己実現=自我の充足」は、西洋の歴史的な伝統である。この思想によって彼らは、世界に先駆けて共同体(国家)を生みだし発展させてきた。
そうして戦争に負けた日本列島の住民は、この思想を受け入れていった。もともと自分を捨てる作法で歴史を生きてきた民族である。自分を捨てて無邪気にこの思想に飛びついていった。
もともと人間は、自分(の身体)を鬱陶しがって生きている存在である。西洋人は、それを克服して自己実現を目指す思想を確立していった。それは、つねに異民族との対立の中に置かれていたからで、どうしても自己実現に向かう必要があった。人間として自己実現に向かうことのしんどさや不自然はあっても、そこに向かうほかなかった。
それに対して戦後の日本列島の住民が自分を捨てて無邪気にそうした西洋の近代合理主義の自己実現の思想に飛びついていったとき、西洋人のようなしんどさはなかった。彼らにとって自己実現を目指すことこそ、もっともラディカルに自分を捨てることだったからだ。自分を捨てるよろこびで、自己実現に向かった。
だからそのとき日本列島の住民は、西洋人よりももっと無邪気にダイナミックに自己実現を目指した。
西洋人にとって自己実現を目指すことは、自然に立ち向かって自然を克服してゆくようないとなみであるが、戦後の日本人は、自分を捨てて自然の懐に抱かれるような調子で自分に執着していった。
つまり、誰もがそういう時代の様相にやすやすと染められていった。
いまどきの大人たちは、自分を捨てて自分に執着している。無作為に作為的になっている。西洋人よりももっと作為的に生きながら、自分を捨ててすっかり社会の制度性に囲い込まれてしまっている。
自分をしっかり持っているのではなく、ただ無邪気に自分に執着しているだけである。人が自分に執着するようになってしまう時代の波に流されて、自分に執着しているのだ。
自分に執着しているだけで、自分の顔を持っていない。そこにいるのは、ただの制度性の番犬なのだ。
日本列島の歴史においては、自分をしっかり持つとは、自分(の身体)は鬱陶しいものだという自覚を持つことであった。
西洋人は、そういう自分(の身体)と対峙し克服してゆく作法を伝統的にそなえている。
それに対して日本列島の住民は、そういう自分(の身体)を洗い流す作法を洗練させてきた。
いまどきのこの国の大人たちは、そのどちらでもなく、じつに無邪気に自分に執着してしまっている。まあ、若者よりも、この国の大人たちこそ新人類といえるのかもしれない。人間の変種だ。
内田樹先生などはこの典型で、この人ほど無邪気に無節操に自分に執着し、喜々として制度性の番犬になっている大人もそうはいないにちがいない。それはまあこの人の強みで、この人がこの社会のオピニオンリーダーになっていることは、多くの自分に執着している人たちのお手本やあこがれになっている。
彼らは、自分に執着するというかたちで自分を持っていないから、もはや変わるということができない。自分を捨てるというかたちで自分に執着しているから、もはや変わるということができない。
自分を捨てているつもりだから、変わるということをかたくなに拒む。だから、若者に変われと要求する。自分とは違う存在である若者はすべてだめな存在であると決めつけてはばからない。
内田先生をはじめとする世の大人たちは、自分とは違う若者をだめな存在として決めつけることはしても、その思考力や感受性に気づき反応してゆくことができない。変種であるのは、おまえたちなんだぞ。
・・・・・・・・・・・・・・・
   2・つくりものの自分がそんなにすばらしいのか
大人たちは、自分を捨てている状態にあるから、人が自分や自分の身体を持っていることのしんどさを知らない。つくりものの自分をまさぐって生きている。
自分に気づくことの鬱陶しさといっても、人間の心の底にはコンプレックスやしっと心や殺意などのグロテスクな心がうごめいている、ということではない。そういう心を克服せよという思想もあるのだろうが、さしあたりわれわれの興味ではない。つくりものの自分をまさぐって悦に入っている彼らは、克服したつもりでいる。彼らこそ、自分の心の底にはそういう心がうごめいている、と自覚している。自覚しているからこそ、そんな自分を捨ててというかそんな自分にふたをして、ひたすらつくりものの自分をまさぐっている。
ここでいう自分に気づくことの鬱陶しさ(けがれ)とは、そんな人格や性格のことではない。生き物としてこの世界に存在してあることの受苦性というものがある。それは、暑い寒いとか痛いとか空腹であるとか、そういう身体の苦痛を感じる「自分」もあれば、生きてあることそれ自体に煩悶している「自分」もある。
人は、意識の根源において、生きてあることそれ自体に身もだえしている。何はともあれ人間とは、そういう存在なのだ。ここが、人間の生きはじめる場なのだ。
この国の大人たちは、そういう「生きはじめる場」としての受苦性を負った「自分」を喪失しつつ、つくりものの自分をまさぐり続けている。
彼らにとって「自分」とは、「つくる」ものであって「さがす」ものだとは思っていない。だから、若者には、「自分さがし」などやめろ、という。ときには「自分など存在しない」という。そりゃあ、そういうだろう。「生きはじめる場」としての「自分」など捨てて、自分とはつくってゆくものだと思っているのだから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   3・「自分さがし」とは「自分つくり」のことか?
人間にとっての「自分という意識」の問題はややこしい。かんたんに、これが「自分という意識」だ、とはいいにくい。
ただ、「自分をさがす」というのは変だ。われわれは、すでに自分を意識させられている。
他人よりもすぐれている自分を探したいのか。自分で自分が好きになる、そんな自分を探したいのだろうか。そんな自分を見つけたいのなら、大人たちのように自分でつくればいい。しかし若者は、そうはうまくつくれない。それがつらいのだろう。
大人たちと若者では、そこのところの素質に違いがある。大人たちは、そんな「自分つくり」に夢中になれるような時代を生きてきた。とりあえず欲しいものが手に入る時代で、欲しがることが正義の時代を生きてきた。そしてそういう時代だったから、正味の自分と向き合い対峙するということを避けて生きることができた。
いまどき、嫌われものの大人ほど、嫌われものである自分と対峙するということができていない。つくり物としての人格者としての自分や成功者としての自分を見せびらかせば、嫌われものである正味の自分は、自分自身からも他人からも隠してしまえると思っている。
まあ、内田樹先生などはまさにこの典型だし、僕の個人的な暮らしの中にもそんな大人が腐るほどいる。
そして彼らはこういう。性格や人格などはいくらでも変わってゆくのだから、何も心配することはない、と。
そりゃあ、つくりものの人格や性格ならいかようにも変えられるだろうが、性根のとことで、彼らほど自分を変えたがらないし変わることのできない人種もいないのである。
そういう自分にはすでにしっかりふたをしてしまっているから、変えるつもりも、変わる能力もない。
そうやって、つくりものの自分だけで生きている。
そういう大人たちがあふれている世の中だから、若者だってつくりものの自分で生きてゆけないかと模索する。そしてそれに成功する若者と失敗する若者がいる。成功するような家庭環境とそうでない家庭環境がある。
今はもう、誰もがすんなりとつくりものの自分だけで生きてゆける時代ではない。物理的な環境が厳しくなってきているし、無邪気に自分つくりには励めるような時代の気分もない。
無邪気に自分つくりに励んでいる大人たちだって、うんざりするくらい見せつけられている。
あんな大人ではない自分をつくるにはどうすればいいか?
お手本がないから、そりゃあかんたんじゃない。
まあ、素直にそんな大人のまねをしたり、大人をなめきっている若者は、それほど苦労はしない。
苦労するのは、大人にうんざりしたり、大人におびえてしまっている若者たちである。そういう若者が、「自分さがし」の無間地獄にはまりやすい。
つくりものの自分で大きな顔をしてのさばっている大人がいっぱいいる世の中だから、「自分さがし」の無間地獄が起きてくるのだ。
「自分さがし」とは「自分つくり」のことだとすれば、そりゃあうまくいかないものにとっては地獄だろうし、うまくいったものにとってはさっぱりしていることだろう。
内田先生は「自分などないのだから自分さがしなどするな」と学生にいっているそうだが、じつは先生こそ「自分さがし=自分つくり」の元祖であり、ほんとうの自分などふたをしてしまえ、といっているだけなのだ。
しかし今の多くの若者は、そこまで厚かましくも小ずるくもなれない。
今の時代は、大人たちが生きてきた時代とは違うし、大人たちが生きてきた時代に人間の真実があるわけでもない。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   4・自意識に苦しむ
人間は、どうしても「自分という意識」を持ってしまう。そうして、「自分という意識」に苦しめられてしまう。
われわれは避けがたく「自分」というものを意識させられてしまう。二本の足で立ち上がった猿である人間は、ことさら強く環境世界から圧力を受けて存在している。その圧力によって「自分」という意識が肥大化する。
人間は、知能が発達したから「自分」という意識を持ったのではない。環境世界からの圧力によって「自分」という意識を持たされてしまったから、その「自分」をどう処理しどう折り合いをつけてゆくかとして知能が発達してきたのだ。
内田先生のいう「自分などない」というのは、生物学的にいえばそういうことになるのかもしれないが、問題は「自分」があるかないかということではない。われわれは「自分という意識」を持たされて存在している生き物だ、というところに問題があるのだ。まあ「正味の自分」にふたをして「つくりものの自分」を無邪気にまさぐってばかりいる人たちにとってはそれでもいいのかもしれないが、自然としての人間は、「自分」という意識に苦しめられるような存在の仕方をしているのだ。
自意識の根源のかたちは、「受苦性=けがれ」としてはたらいている。どんな陽気な人であっても、それはもうそうなのだ。根源に「受苦性」を持っているから、ときめきもするし陽気に笑いもする。
自意識に苦しむのは、人間の自然なのだ。
西洋人はそんな「自分」に打ち克とうとする歴史を歩んできたし、日本列島では「自分=けがれ」を洗い流す「みそぎ」の作法を洗練させてきた。
内田先生をはじめとする戦後のこの国の大人たちのような「つくりものの自分をまさぐる」ということばかりしているのは、特異な人種なのだ。
僕には「自分さがし」の無間地獄から逃れる方法など知る由もないが、いまどきの「つくりものの自分をまさぐる」ということばかりしている大人たちが若者や子供をそういうところに追いつめている、ということはいえそうな気がする。
リストカットをするのも引きこもるのも、ようするに自意識に苦しめられているのだろう。その苦しみに打ち克つのも洗い流すのも人それぞれだろうが、少なくとも「つくりものの自分をまさぐる」という方法が解決策になるような時代ではもはやないにちがいない。解決策にならないのにトライしてしまうから、ますますのっぴきならない事態を引き起こしているのではないだろうか。
内田先生のように自分にふたをしてしまうことが根源的な解決になるはずがない。もはや若者が、大人のように自分にふたをして浮かれていられる時代ではない。若者が、避けがたく自分(のけがれ)と向き合わされる時代になってきている。
根源的な自分は、醜悪でも凶悪でもコンプレックスに覆われているのでもない。ただ、避けがたく「受苦性=けがれ」を負っているだけなのだ。
僕には、解決策はない。ただ、内田先生のようにつくりものの自分をまさぐって舌なめずりしている愚劣な大人よりも、「自意識(けがれの自覚)」に苦しんでいる人こそ現代社会の聖なる生贄として存在しているのだと思う。
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/