「漂泊論」・36・旅立つこととたどり着くこと

   1・生きはじめる場
現代社会は何かが変だ、と誰もが思っている。
社会的に成功して何不自由なく生きている人でも、何かしらこの社会の状況を嘆く発言をしている。
人間は、嘆く生き物だ。嘆くとこところから生きはじめる。
現在の状況を嘆いているからこそ、よりよい社会を実現したいという発想が生まれてくる。よりよい社会を実現したいという願いを先験的に持っているのではない。もしも現在の状況に対する嘆きがないのなら、そんな願いなど絶対生まれてこない。
世の中には、自分の既得権益を守るためにこの社会をできるかぎりこのままにしておきたいと思っている人はいくらでもいるだろう。
それでも、彼らだって、やっぱり嘆いてみせたがる。
根源的には、人間は、よりよい社会を実現しようという願いで生きているのではない。生き物の根源に、生きようとする衝動などははたらいていない。
それは、石ころに転がろうとする衝動もエネルギーも持っていないのと同じくらいの、厳然たる宇宙の真理なのだ。自然の法則なのだ。
石ころは、坂道という危うい斜面に置かれて、はじめて転がりはじめる。
人間だって、嘆きにせかされるようにして生きはじめる。
生き物は、生きようとする先験的な衝動など持っていないから、生きさせられる契機がなければ生きはじめることができない。この世界からの圧力を受けていることの嘆きがあって、はじめて生きはじめる。
生き物は、この世界(自然)から圧力を受けて存在している。その圧力に対する嘆きが生きはじめる契機になっている。二本の足で立って歩く猿である人間は、その姿勢の危うさによって、ほかの動物以上に強く環境世界からの圧力受けて存在している。だから、自分という意識が生まれ、知能が発達し、文化や文明が生まれてきた。
この生がはじまるのは、よりよい社会を実現しようと願うからでも生きようとする衝動があるからでもない。そういう願いや衝動は、生きはじめた結果としてもたらされる観念のはたらきにすぎない。
「生きはじめる場」には、そんな願いも衝動もはたらいていない。ただ、この世界からの圧力を受けて存在していることの「嘆き」が発生しているだけだ。
「いまここ」の「嘆き」が人間を生かしている。「いまここ」に「嘆き」がなければ、人間は生きられない。「嘆き」が人間を人間たらしめている。だから、誰もが現在の社会の状況を嘆く。
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   2・人間はこの生を嘆いている存在である
どんないい社会になっても、人は嘆く。
生きはじめる場は、嘆きとともにある。
何かを欲しがり、その欲しいものを手に入れるために生きはじめるのではない。
生き物は、この生を欲しがり、この生の充実を手に入れるために生きるのではない。
生き物は、生きることを欲しがっているのではない。生きてしまっているだけだ。生きてしまってから、何かを欲しがりはじめる。
何かを欲しがることによって生きているのではない。この生すらも欲しがっていない。
それでも、生き物を生きさせてしまう何かがはたらいている。
自然は、生き物を生きさせる装置ではない。生きさせない装置なのだ。だからわれわれはみんな死ぬ。生き物は、そういう圧力を受けて自然の中に存在している。だから、暑がったり寒がったり、息苦しくなったり空腹になったりしなければならない。それは、自然における、生き物を生きさせない装置である。
そういう存在の仕方をしているからこそ生き物には生きようとする衝動(本能)がそなわっているのだ、というべきではない。死んだことがなく死ぬということを知らない生き物が、生きようとなんか思いようがない。圧力を受けたら苦しくてもがくだけであって、「生きよう」と思うのではない。
生き物は、苦しくてもがくというかたちで生きはじめる。そういうかたちで、体が動きはじめる。生きようとして動くのではない。
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   3・願い(欲望)が発生する場
凡庸な生物学者が「生き物には生きようとする衝動(本能)がそなわっている」というとき、「生の尊厳」とか「この生の充実は願いがかなうことにある」というような制度的で通俗的な思想に取り込まれてしまっている。
しかし生き物が生きはじめる場においては、「願い」など発生していない。ただもう「苦しまぎれ」があり、「嘆き」があるだけだ。
願いは、願いがかなう体験から生まれてくる。その体験がなければ、原理的に発生しえない。
根源的には、願いが発生する根拠を持たない。
赤ん坊は、おっぱいを飲んで空腹が満たされたという体験の記憶によって、はじめておっぱいが欲しいという願いを持つ。しかしこの一連の時間の流れや事態の因果関係を頭の中で把握するには、それなりに時間がかかることだろう。生まれてすぐに把握できることではない。
生まれたばかりの赤ん坊は、空腹の居心地の悪さで泣いているだけで、おっぱいをくれとせがんでいるのではない。
われわれの生の根源に「願い=欲望」が発生する根拠など存在しない。したがって赤ん坊は、空腹が満たされてゆく体験の一連の流れや因果関係をある程度把握できるようになっても、そうそうむやみであからさまな「おっぱいをせがむ」という心は持たない。
そういう心の動きは、母親との関係から、母親から学ぶようにして身につけてゆく。そしてもっと本格的な願いや欲望となれば、あくまで後天的に、この社会の制度性とともに身につけてゆくのだろう。
われわれは、この生の途中のどこかで願いや欲望という作為的な心の動きを持たされてしまう。
願いや欲望などという言葉でこの生の根源を語られては困るし、願いや欲望がかなうことが必ずしもこの生の充実だとはいえない。少なくとも、この生の根源においては。
この生の根源には、願いや欲望などという心の動きははたらいていないのだ。
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   4・願いをかなえる、という制度性
まあこの社会は願いを抱いたり願いをかなえたりいうことで動いているのだから、その動きに沿って生きてゆければ安泰だろうが、「願うことこそ人間の本性である」というわけではない。
ある人々は、願うことによって安楽に生き、ある人々は願うことによって精神を病んでしまう。
願うことそれ自体は、生き物の本性でもなんでもなく、不自然な病理なのだ。人間の本性としては、そんな衝動などはたらいていない。それは、社会のしくみによってもたらされる。われわれはすでに、そういう制度性に心を囲い込まれてしまっている。
もはや、人が願い=欲望という制度的な心を持ってしまうことはしょうがない。問題は、それが人間の本性=自然だと社会的に合意されてしまっていることに問題がある。
だから「願う」ということのブレーキがかからない。そうやって、どんどん自分で自分を追いつめていってしまう。
生き物は、存在の根源において、受苦性を負っている。そして死ぬことは、生きてあることの苦痛から逃れるもっとも有効な方法である。
ある状況に立てば、ひとはかんたんに「死にたい」という願いを抱いてしまう。そうして願いを持つことが人間の本性だという社会的合意に囲い込まれて、その願いから逃れられなくなってしまう。そのとき人は、死にたいといより、願いがかなう体験がしたいのだ。
死にたいという願いに浸されるとき、願いがかなう体験に対する飢餓感がある。
そのときもしも死ぬことを思いとどまるとしたら、それは、死に対する幻滅ではなく、願いがかなうことに対する幻滅である。
苦しんでいる人間は、けっして死に対して幻滅しない。死は、生きてあることの受苦性からの解放である。
リストカットを繰り返している若者は、今夜は手首を切ってしまいそうだな、という予感があるのだとか。それは、苦しくて耐えられないというよりも、死にたいという願いをかなえようとする高揚感で、いわば体も心も火照っているときである。
その高揚感は、死に対する幻滅で冷めるということはない。その人にはもう、死に対する幻滅はやってこない。願いをかなえるということに対する幻滅によって、はじめて冷めるのだ。
人間にとって死は、生きてあることの苦痛からの解放である。それはもうたしかにそうなのだから、生きてあることの苦痛を自覚している人に死が無意味であることを説いても、なんの慰めにもならない。
そのとき、いったいこの高揚感はなんなのだ、と自問することができるか。自問しないで高揚感に身を任せてしまえば、手首を切ってしまう。
おそらく人が自殺するときには、たいてい高揚感があるのだろう。死ねば願いがかなうと確信してゆく高揚感、とでもいうのだろうか。
であれば、願いがかなうということに対する幻滅が、その行為を思いとどまらせることになる。
その幻滅は、果たして不自然か。そうじゃない、その幻滅こそが人間の自然なのではないだろうか。
人間は、願いをかなえるために生きているのだろうか。
僕は、そうではないと思う。
人間は、「死にたい」とも「死にたくない」とも願う。どちらに願っても幸せではあるまい。死にたいという願いも、死にたくないという願いも、人の心を病ませる。そのどちらの願いも忘れてわれわれは今、とりあえずここに生きてあるのではないだろうか。
人の心には、願いに幻滅し、願いを解体してしまう作用を持っている。そのようにして失恋をあきらめ、受験や就職に失敗したことをあきらめ、「死にたくない」という願いを解体して死んでゆく。
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   5・人間は、幻滅し嘆く生き物である
生まれてきた赤ん坊は、胎内でまどろんだままでいたいという願いを解体して、この世界に生まれてきてしまったことを受け入れている。そのとき赤ん坊にとってこの世界は、胎内よりもはるかに生きることが困難な世界であることは確かにちがいない。ほとんどもう、生きることが不可能な世界なのだ。それでも、その現実は受け入れるしかない。
われわれはそんな体験をして生まれてきたのだから、先験的に願いを解体する作法を持っているはずである。
人はその成長段階のどこかで願いをかなえようと駄々をこねることを覚え、その意欲を飼いならしながら社会に適合してゆく。
しかし、駄々をこねることをしない作法を持っている人もいる。なぜなら、その作法こそが人間が先験的にそなえている人間の自然だからだ。
カミユは「侮蔑によって乗り越えられない運命はない」といったが、人間は「幻滅する」という心の動きを先験的に持っているし、このことが人間を生かしているともいえる。
幻滅して手首を切るのではなく、幻滅することを忘れた高揚感で手首を切るのではないだろうか。願うことそれ自体に対する幻滅がなければ、その行為を思いとどまることはできない。
人間は願うことに対する幻滅を先験的にそなえているが、社会の制度性がその自然を覆い隠し、願え願えとせき立ててくる。
それでも人間は願うことを解体してしまう作法を持っているのであり、そこから人間的な文化や遊びが生まれてくる。
よりよい社会を目指すといっても、その心の底には、今ここの社会に対する幻滅と嘆きがはたらいている。先験的な「願い=欲望」などというものはない。その幻滅と嘆きこそが先験的なのだ。
人間は、幻滅し嘆く生き物である。幻滅し嘆くことこそ、人間が「生きはじめる場」である。よりよい社会を目指すなどといってどんなに制度性に毒された人間だろうと、けっきょくは誰もが「嘆き」から生きはじめるのだ。
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   6・愛されたいという願いの制度性
現代社会は、願い(欲望)の成就の「達成感」が止揚されて、「生きはじめる場」を見失っている。
「生きはじめる場」は「嘆き=幻滅」として生成している。リストカットは、死にたいという願いの達成であると同時に、そのたどり着いたところが、願いが解体された「生きはじめる場」でもある。人は、願いを解体しようとして、願いの成就に向かう。
飯を食えば、飯を食いたいという願いは解体される。その商品を買えば、その商品を欲しいという願いは解体される。こういうことを一般的には「差異を消去しようとする衝動」などといわれるのだが、それは、「差異を消去しようとする衝動」それ自体を消去しようとしている、ともいえる。つまり、願いを成就しようとする衝動それ自体を消去するために願いを成就しようとする。
死ぬことによってしか「死にたい」という願いを消去できない。
願いを持つことの鬱陶しさがある。
人は、「愛したい」という願いなんか持たない。愛してしまうだけである。
しかし、「愛されたい」という願いは持つ。この願いを持つことは鬱陶しい。この願いは、愛されることによって解体(消去)されるのか。しかし、「愛されている」という自覚を持つことは必ずしも成就するわけではない。どんなに親からやさしくされても、親から「愛されている」という自覚を持つことができないときがある。
人の気持ちなどわからない。そのとき精神科医は、「愛されている」という自覚をもたせてやることが大切だ、という。しかしそれはもともと困難なことだし、それでは根源的な解決にならない。
たとえば夫婦仲がいい両親の子供がどうしても自分は「愛されている」という思いを持つことができないとしても、それは仕方がない面もある。自己愛のつよい親の子供は、どうしても「愛されている」とは思えない。今さら親に自己愛を捨てろといっても、かんたんではない。
そのとき子供だって、「愛されている」という自覚を得ることによって解決しようとする病理を抱えてしまっている。それは、けっして健康なことではない。
そんな自覚など持とうとしないこそ健康なのだ。
人は、そんな自覚などなくても、一方的に愛してゆくことができる。その子供は「愛されている自分」を確認したいという願いがあるために、自分忘れて一方的にときめいてゆくというタッチを持っていない。
「生きはじめる場」とは、自分を確認する場ではなく、自分を忘れてしまうことができる場である。「愛されている自分」など確認しても解決にはならない。
願いをかなえるのではなく、願いを持たないようにならなければ解決にならない。
この社会は、願いをかなえることが解決だという合意がある。しかしそうじゃない。願いが発生しない場こそ「生きはじめる場」なのだ。
まわりが寄ってたかってその子の願いをかなえようとして、その子はますます「生きはじめる場」を失ってゆく。
「愛されている自分」なんかただの幻想で、何かのはずみでかんたんに失ってしまう。
世の中には、「愛されている自分」を確認しようとすることばかりしている大人たちがあふれている。そういう状況が、その子を追いつめている。
誰もがそんなことを確認しようとばかりしているから、人と人の関係が形式化し形骸化してしまう。ただかたちだけ愛想をふりまき合っているだけの予定調和の関係に。
願いが発生しない場こそ「生きはじめる場」であり、人間は、願いを解体しようとする衝動を持っている。
しかし、願いをかなえることによって願いを解体しようとするから、ややこしくなってしまうのだ。
「承認願望」などともいう。「愛されたい」という願いをもつのが人間性であるのではない。そんな自分など忘れて一方的にときめいてゆくのが人間なのだ。
他者に承認されたいという願望が強いから、人格者ぶってつくりものの自分をまさぐってばかりいなければならなくなる。愛されていると満足していようと、それは強迫観念なのだ。なぜなら、人の気持ちなどわからないから、つねに広く浅く確認していなければならなくなる。そうやってすでに他者との関係が形式化形骸化している。そうやってすでにときめきを失っているから、インポになってしまうのだ。
ひとまず社会に適合して自分は愛されているつもりになっているものたちは、他人の承認願望をバカにするが、自分だって同じ穴のムジナだということが何もわかっていない。愛されていると自覚し満足していることと、愛されたいと願うことは、同じ強迫観念なのだ。
そういうこの社会の停滞して形式化形骸化した人と人の関係が、子供や若者を追いつめている。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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