「漂泊論」・37・幻滅を知らない世代

   1・正義ぶって人格者ぶって、何をえらそうなことを
人をさげすんでいるのはいったいどっちだ。おまえらが清廉潔白だとでも思っているのか。
僕がなぜ「生きはじめる場」ということにこだわるかというと、自分がすでに生きて存在してしまっていることがなぜだろうと気になるからであって、生きてゆきたいからではない。
たどり着くべき目的地などない。われわれは、ひとまず旅に出てしまったのであり、この世に生まれてきてしまったのだ。
このシリーズの最初は縄文時代のことが考えたかったわけで、ちょっともう漂流してしまっているな、と思うのだけれど、目先のことにかんたんにとらわれてしまうのが僕のだめな性分だ。
生きてゆくという目標をちゃんと持っているのなら、目先のことにとらわれたりはしない。
また、べつにこの社会の行き詰まりにブレイクスルーを与える方策を考えたいわけでも提案したいわけでもなく、ただただ、自分のまわりの言説空間が示す人間の真実などぜんぶ嘘だといいたいだけだ。
そういうことじゃないだろう、といいたいのだ。
この社会の未来のために「こうすればいい」とか「こうするべきだ」というようなことをいうつもりはない。あくまでも、人間というのはどんな生き物だろうか、というところが知りたいだけだ。
「そんな批判ばかりしておまえは何さまか?」という意見はあろうかと思う。
じゃあ、批判しないでいい子ちゃんぶっているのが、そんなにえらいのか。そうやって自分の人格をつくろうのが、そんなに大切か。そうやって制度の枠から一歩も抜け出られないのが、あなたたちの思考の限界だ。
あなたたちは、ほんとうに僕よりも純粋で清らかな人間であるつもりなのか。誰の心だろうと、根源までさかのぼれば純粋で清らかなものさ。
わざわざそんなつくりものの人格をまさぐったり見せびらかしたりして悦に入っている余裕など、僕にはない。そんなつくりものの人格に感心したり引け目を覚えている暇もない。
人格破綻者でけっこう。自分の人格を解体して「そうじゃない」といわなければ分け入ってゆけない地平もある。
そんなことあるものか、そうじゃないだろう、と嘆くところが僕の思考の「生きはじめる場」だ。
気取ったことをいわせていただくなら、僕にとって思考することは、共同体に飼い馴らされてしまったみずからの人格を捨てて知の荒野に分け入ってゆくことだ。そういう漂泊の旅である。
べつに、趣味のいい書斎でパイプをくゆらせながら考えているのではない。
僕は、この世の「そんなことあるものか、そうじゃないだろう」と身もだえしている人にシンパシーを抱かないですむほどの人格者でもなければ、社会の恩恵に浴しているわけでもない。
不平不満を抱くのは、悪いことか。人は、そこから生きはじめるのだ。悪いけど僕は、そういう態度をさげすんで人格者ぶっている人たちよりもずっと深く遠くまで考えているという自信がないわけではない。
おまえら、僕の人格をさげすんでいるだけで、思考力や想像力で僕に勝てるという自信があるのか。おまえらがどんなに僕の人格をさげすんで正義の側に立とうと、それが僕よりも思考力や想像力が優れているという根拠になるわけではない。
僕は、正義の側に立つことよりも、思考力や想像力を磨くことを選ぶ。なぜなら、人間とはそういう生き物だと思っているからだ。
おまえらみたいに、何がなんでも正義の側に立って自分を正当化しようとする強迫観念など持ち合わせていない。
自分を正当化したい、とは、他者に承認されたい、ということ。おまえらは、そういう強迫観念で正義の側に立とうとしている。そういう強迫観念で精神を病んでいる大人たちが、この世の中にはごまんといる。
正義の側に立てば、おまえらのその病理や無知性は解消されるか。そうはいくかい。
誰しも、ものを考えるなら、誰も考えたことのないところに分け入ってゆきたいではないか。そのためには、ひとまず「そうじゃない」という場に立つしかないし、その向こうはもう荒野なのだ。
おまえらみたいに、人に好かれたりかまわれたりする人格を確保しておこうというような趣味はない。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   2・仲間=味方がいれば正義だ
むしろ、彼らがなぜ共同体の仲よしこよしの場を確保したがるのかということこそ問題である。そうやって仲よしこよしを確保しつつ第三者を排除してゆこうとする制度性の凶悪さがある。
僕は、そういう仲よしこよしの場に参加しようとしないし、「おまえらみんなアホじゃないか」といってしまうから嫌われるのだろう。僕よりもろくにものを考えていないくせに、僕をさげすむことだけはいっちょ前なんだよね。なんといっても共同体という仲よしこよしの場を確保している彼らには、味方がいる。味方がいるということだけが彼らの根拠で、真実とは何かと問う意欲も能力もないのだ。
彼らには仲間と「確信=結論」を共有してゆくことが大事で、ひとりはぐれて「問う」というようなことはしない。
人間性とは、他者と「確信=結論」を共有してゆくことか。
そうじゃない、他者とのあいだに「空間=すきま」をつくり、「わからない」という問いや感慨をその「空間=すきま」に向かって投げ入れあってゆくことにある。そうやって人間的な文化や文明が生まれ育ち、イノベーションが起きてきたのだ。
ときめくとは、あなたのことがわかることではなく、あなたのことがわかることを断念して、ただもう一方的な自分だけの印象であなたの存在そのものに驚き胸を震わせてゆくことだ。
この社会には、いろんな不自然な病理が存在している。そしてその不自然な病理が正義になることもあれば悪になることもある。
「味方がいる」という場を確保して、「味方がいる」ということを根拠にして物事を判断してゆく。
いまどきのいじめだって、仲間=味方がいるということを根拠にしているのだろう。また、親や先生がどんな人間をさげすんでいるかということを物差しにして、その相手をいじめてもいいと判断している場合もある。
親が飲食店でクレームをつけて店員をいじめている姿などから学んでいたりもする。まあほとんどの場合は、親や教師や社会の制度が、その子供のいじめをしようとする衝動を培養し、いじめをしてもいいと判断する根拠を与えているのだろう。
「味方がいるということを根拠にして物事を判断してゆく」という制度性が、いまどきの正義になり、いじめという悪にもなっている。いまどきの大人たちの正義が、いじめという子供の悪を培養している。
「味方がいるということを根拠にして物事を判断してゆくという制度性」……これは、現代社会の病理だ。
「哲学はなぜ間違うのか?」という、リタイアした団塊世代の高名なロケット学者のブログがあって、そこではまさに「人は味方=仲間がいるということを根拠にして、自分や他者を知るということをしている」と語っておられる。これが、人間の意識のはたらき(=人間性)の本質なんだってさ。
くだらない。こんなものはただの俗物の処世術であって、人間性の本質でもなんでもない。アホか、頭おかしいんじゃないのか、あんたにはものを考える能力がなさすぎるんだよ、と思う。まあ、向こうは社会的に名のある科学者のブログなのだから、そのことを根拠にしてこのブログよりも向こうの方が高度で正しいことを語っていると思われるのなら、どうぞこんなブログなどさっさと見限っていただきたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
   3・普通は、ビートルズが好きだった自分にけりをつけるためにビートルズを回顧するんじゃないの?
団塊世代ほど「味方=仲間がいる」ことを根拠にして物事を判断してゆくという「制度性」を色濃くそなえている世代もない。
ビートルズ世代」なんだってさ。若いころは感受性が豊かだから、若いころのそうした強烈な体験が、その人の基準となって一生ついてまわる。だからわれわれはもう、その基準を通してしか音楽と向き合えない……などという。
しかし、そういうことじゃないんだなあ。「基準を持っている」というそのことが、団塊世代の限界なのだ。「基準」という物差しで物事を判断しようとすることが、彼らの限界であり、制度性なのだ。
その「基準」とは、「味方=仲間がいる」ということだ。そのことが彼らに「確信」を与えてしまって、もう基準を物差しにしてしか物事を判断できない(=物事に反応できない)人間になってしまっている。
いじめをする子供だって、大人たちを見習ってそういう「基準」を強く持ってしまっているから、そういうことをしてもいいと思うのだ。だから大人たちは、もう無意識的に、いじめを隠蔽しようとする。
「基準」という「確信」を持ってしまう病理。
「基準」の良し悪しなどというものはない。「基準を持っている」というそのことが人を無知にもし、凶悪にもするのだ。団塊世代は、自分のそういう無知や制度性に無自覚すぎる。おまえらのそういう無知が、いじめをする子供をこの社会あふれさせているんだぞ。
何が「若いころは感受性が豊かだから」か。おまえらはそこで、「基準によって判断する」という無知で制度的な作法を決定的に身につけてしまったのだ。それは、「仲間=味方がいる」ということによって「確信」され「基準」になっている。
その「確信」と「基準」こそが、現代社会の病理になっているんだぞ。
おまえらが人間のスタンダード(基準)じゃないんだぞ。なのに、くそ厚かましくスタンダード(基準)のつもりでいやがる。おまえらほど自分がスタンダード(基準)だと信じて疑わない人種もいない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   4・基準=確信の制度性
団塊世代が「ビートルズ世代」であることは、彼らの停滞と限界を意味しているのであって、彼らの知性や感性の豊かさを意味しているのではない。そこにおいては、こんな貧相な世代もないのだ。
彼らは、人と仲良くする技術が発達している。つまり、仲間どうしでつるむということは、じつに上手だ。だからこそ、ぞっとするような冷たいところがある。彼らにとって大事なのは人と仲良くすることであって、人にときめくことではないらしい。そして、仲良くすることを確保しながらいっちょ前にときめいているつもりでいるところがいやらしくやっかいだ。
僕は、自分が人にときめいている人間だといったことは一度もない。そういうことは「この世のもっとも弱いもの」から学ぶ、といっているだけだ。
まあ、60年代70年代は、団塊世代をはじめとする鈍感で貧相な人間をつくってしまう時代だったのかもしれない。
あの時代の特異性は、若者の知性や感性がことさら豊かに花開いたということにあるのではなく、「仲間=味方」と「確信」や「基準」を共有してゆくことに熱狂していたことにある。あの時代には、そういうムーブメントがたしかにあった。
全共闘運動だってまあそのようもので、若者はすぐみんなで同じことに熱中してゆく傾向があった。つまりそれを、自分たちの生の「基準」だと「確信」していったのだ。
ビートルズは、彼らの「確信」であり「基準」であった。
彼らは、いつまでたっても若いころを懐かしむという貧弱な作法から逃れられない。彼らが若いころを懐かしむのは、彼らが歳をとったからではなく、歳を取らないでいまだにあのころにとどまり続けているからだ。
「基準」という「確信」を持っていることの貧相。神の教えという確信と基準、社会の正義だという確信と基準、親や教師の教えだという確信と基準。この社会の制度性は、人にそのような「確信」と「基準」の心を持たせるような仕組みになっている。
しかしそれでも人は、そこから旅立って、この世界や他者にときめき、ものを考えるということをしている。
いまどきの大人たちのようなろくにときめくこともものを考える能力もないやつらが、「仲間=味方」とともに「確信」や「基準」を共有しながら、自分や自分の若いころの時代にいまなおとどまり、それらをまさぐり続けている。
そうして「おまえの人格は……」などとさげすんできやがる。
悪いけど僕は、あなたたちよりは、自分や自分の若いころの時代から旅立ち、「確信」も「基準」も持たないところで身もだえしながら思考を続けている。
そして現在の「ジャパンクール」の「かわいい」の文化は、「基準などない」という「即興性」がコンセプトになっている。それは、団塊世代をはじめとするいまどきの大人たちに対する「幻滅」から生まれてきた。彼らは、この生そのものに幻滅している。
おまえらは、若者に対してどんなにやさしいことをいっても、幻滅することのくるおしさやなやましさを若者と共有していないんだよ。
だから「批判はよくない」などといって人格者ぶっていられる。「幻滅」ということを知らないから、そういう態度がとれるのだ。たぶんおまえらはこの生に対する幻滅を知らないし、若者たちは知っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   5・幻滅することを知らない世代
平和で豊かな時代は、人の心から「幻滅する」ということを失わせる。しかしじつは、人類の文化や文明は「幻滅する」という心の動きから生まれてくるのであり、「幻滅する」という心の動きを失って人は精神を病むのだ。
あのころの若者がなぜみんなしてビートルズに熱狂していったかというと、若者が「幻滅する」という心の動きを失っている時代だったからだ。ビートルズの素晴らしさはともかく、みんなでこの生を謳歌したいという意欲が旺盛だったのだ。若者がこの生を謳歌している時代だった。
彼らは、いまだに、この生を謳歌するということを手放すまいとして、あのころに回帰し続けている。
まあたしかに、あのころほど若者が生きやすい時代もなかったのかもしれない。適度に豊かで、今ほど大人からのプレッシャーもなく適度に自由で、適度に未来を夢見ることができて、彼らは、この生に幻滅している暇などなかった。
ここから、この生は豊かで充実したものであらねばならないという現代社会の強迫観念が肥大化していった。
人と人は、この生を謳歌するということを共有して仲良くし、つるんでゆくこともできるが、それと「人と人の心が響き合う」ということとはまた別のことだ。
根源的には、人と人の心は「嘆き」を共有して響き合ってゆく。
たぶん、「もらい泣き」ということは、団塊世代よりも、いまどきの若者の方がずっとよく知っている。
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きま
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/