「漂泊論」・38・制度性から旅立つということ

   1・おまえらだけが無傷というわけにいかないし、おまえらのその頭の悪さはなんなのだ
僕が、内田樹先生とか上野千鶴子氏とか吉本隆明氏とかもろもろの人類学者とかの既成の研究者・知識人を「おまえらみんなアホだ」といって批判するとき、この世のいじめられ追いつめられている者たちに対する連帯感のようなものがいつもこのブログを書くことの通奏低音としてあるかららしいと、さっき気づいた。
そうしてこのことを、ろくにものを考える能もない人格者ぶった人間から「そういう下品な批判はするべきではない」というようなことを今まで何度も繰り返し言われてきたことを思い出し、無性に腹が立ってきた。
彼らはこの社会が円滑に機能していることを守りたいわけで、それはつまり自分の生活の安全安泰に執着しているということだ。
彼らは、彼らが持ち上げるそうした研究者・知識人を批判すると、まるで自分がけなされたかのような過剰反応をしてくる。
そのとき僕は「人間とは何か」という問題に向けて彼らと議論したかっただけで、彼らを非難しているつもりはなかった。
なぜ、それは通じなかったのか。
そのとき彼らにとっては、そのテキストの著者の知識人と連帯してゆくことが一義的な問題で、書かれたことの当否を問う意識はなかったらしい。彼らは、それが自分の考えと同じだったから取り上げたのではなく、それを自分の考えにしようとしていたのだ。
だから、あれほど喜々として持ちあげていたくせに、「全面的に賛成しているわけではない」というようないいわけをしてくる。
同意していったのではなく、なついていっただけなのだ。もともと、同意できるような自分の意見など持っていないのだ。だから、著者に代わって責任を取ろうというつもりも能力もない。
彼らは、問題の当否よりも、著者と連帯してゆくことが大事なのだ。
共同体とは、外部の第三者を排除しながら成員どうしが連帯結束してゆくシステムである。
成員は、そういう三角関係の意識が習性として身にしみついている。
彼らが著者と連帯してゆくとき、それを知らない無知な庶民を無意識のうちに差別し排除している。あるいは、無知な庶民を啓蒙しようとしている。自分がインテリの仲間入りをしてゆくことは、無知な非インテリを差別し排除することである。差別し排除しながら啓蒙している。
啓蒙することは、連帯結束してゆくことであるようでいて、じつは啓蒙するものとされるものとして差別化してゆくことである。それは、人間的な関係の本質ではない。
人と連帯結束する(仲良くする)ことは、第三者を排除する行為でもある。それはもう、どうしようもなくそうなのだ。
彼らが人格者だからといって、彼らだけはこの社会のいじめが多発していることから無傷だというわけにはいかない。彼らもその現象に加担している当事者にほかならない。
ひとまずわれわれの誰もが当事者なのだ。
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   2・人類は歴史とともに想像力を失ってきた
人と仲良くできる人間だからやさしい人間かというと、そうとはいえない。その仲良くしようとする衝動そのものが、第三者を排除しようとする凶悪な心の動きなのである。
その子供たちは仲間と仲良くする作法を持っているがゆえに、いじめをしようとする衝動を肥大化させてしまっている。彼らは、その行為になんの後ろめたさもない。むしろ正当なことだと思っている。この社会の大人たちのいうことやすることがその行為に免罪符を与えている。
共同体の制度に適合すること自体が、第三者を排除している状態なのだ。
いじめはいつの時代にもあった。しかし現在ほどいじめるものたちがみずからのその行為対する後ろめたさを持たなくなってしまっている時代もないのだろう。それほどに現代社会や大人たちが痴呆化してしまっている。
まあ、知識とか仕事をするスキルとか、そんなのものは特化しているのかもしれないが、心はひどく痴呆化してしまっている。
仲よしこよしの集団をつくってその中でまどろんでいれば、心は痴呆化してゆく。
家族という集団はもちろんのこと、共同体(国家)そのものが仲よしこよしの集団であろうとする強迫観念の上に成り立っている。そうして現代は、そういう集団であるための制度性がとても精緻で高度になってきている。
仲よしこよしの集団をつくるためには、「確信」という「基準」を共有してゆくことである。
「りんご」という言葉がりんごを意味していることは、その共同体のみんなが確信して共有し、ひとつの基準になっている。このかたちの延長として、現代社会の精緻で高度な制度性がつくられている。
現代社会の仲よしこよしの集団は、確信という基準を共有してゆくことの上に成り立っている。
しかし古代や原始時代は、ひとつの言葉がひとつの意味に限定されていたわけではないのである。「はし」とか「もの」とか「こと」とか「やま」とか「かみ」とか、それらの言葉の意味は無限にあって、意味はあってないようなものだった。つまりそれは「確信という基準」ではなかった。
確信という基準にするために、時代とともにひとつの意味に限定されてきて、その代わりとしてわれわれはたくさんの言葉を持つようになった。そのようにして、ひとつの言葉から想起されるほかの意味をどんどん排除してゆき、ほかの意味にはほかの言葉を与えていった。
そうやってわれわれは、ひとつの言葉からたくさんのことをイメージする想像力を失ってきた。これは、言葉だけの問題ではない。「文明=共同体の制度性」が発達することは、人々の思考力や想像力がどんどん限定化されてゆくことでもある。
そのようにして、人間が痴呆化してきた。
現代人は、この社会の複雑な制度の中で生きてゆくためのスキルや知能は発達したが、思考力や想像力はものすごく貧困になってしまっている。
すべての事柄に限定された意味が与えられているからかんたんに「確信」してしまえるようになったが、そのぶん人間がイメージ貧困になってしまった。
かんたんに確信してしまう心を持っているから、迷信にもとらわれてしまう。
この世の中に「スピリチュアル」とか「生まれ変わり」というようなことを「確信」している人がたくさんいるというのは、驚くべきことだ。それほどに現代人はイメージ貧困になってしまっている。古代人や原始人は、そんなものを信じていなかった。
そんなイメージ貧困な人間ばかりが「確信」を振りかざし合って世の中ができているのなら、そりゃあいろんな精神病理が噴出してくるに決まっているし、人と人の関係だってぎくしゃくしてくる。
でも、こんなにもイメージを限定してしまう制度が発達してきたということは、その反作用というか補償作用としての心の閉塞・停滞を解放する作法も発達してきたということを意味する。それが、プライベートな恋や友情や人間関係の文化であり、遊びや芸術や学問などの意識行為として発達してきたのだろう。
それらは、人間の心の根源の部分に遡行する意識(観念)行為である。
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   3・その馴れ馴れしさは、ぞっとするような冷たさ鈍感さでもある
われわれは、かんたんに「確信=基準」を持ってしまう。それによって仲間とつくろうとする衝動と第三者を排除しようとする衝動をセットにして活発化させている。
人と仲良くして仲間になるスキルの高い人間は、そのぶん第三者を排除しようとする凶悪な心も色濃く隠し持っている。
三者を排除するという行為は、仲間と結束してゆくことによって免罪される。
人と仲間づきあいの上手な人間は、自分は心優しい人間だと自覚しているし、まわりもいい人だとか人格者だと評価することが多い。しかし、そういう人間こそ第三者を排除しようとする凶悪な衝動を色濃く隠し持っていたりするもので、彼がなぜ仲間の付き合いがうまいかというと、かんたんに他人がわかったつもりになってひとあしらいがうまいからである。そういう確信を人づき合いの基準として持っているから、人に対して馴れ馴れしくできる。人と仲良くするため(あるいは女を口説くため)のスキルをしっかり持っていて、人に対する恐れがない。
人づき合いの基準として確信しているものがあるから、スキルが高くなるし、馴れ馴れしくなれる。
まあ、馴れ馴れしくされたら、される方も考えなくていいから楽である。こうして、おたがいイメージ貧困なものどうしの仲間づきあいがつくられてゆく。彼らは、べつにときめき合っているわけでもないが、仲良くすることは善であるという「確信=基準」を共有している。そういう人の輪をつくってゆくのが、現代社会の平和的ないとなみであるらしい。
そうやって「確信=基準」とともに社会に認知された場に立とうとばかりしているから、限定された思考や想像しかできなくなってゆく。
彼らにとってその場に立つことはひとつの達成であり到達点である。
しかし人間的な思考とか想像力とか文化とか学問とか芸術というものは、そこから旅立ってゆくことである。そしてそれは、人間の心の根源のかたちとか自然というものに遡行してゆくことである。
彼らは、「確信=基準」というものを持っているから、われわれを仲間から外れた第三者としてさげすむことができる。
人間は、共同体の成員になることを目的に生きるのではない。共同体の成員であるところから生きはじめるのだ。そこから心が旅立つのであり、共同体の成員であることの「けがれ」をそそいでゆくカタルシスが生きるいとなみになる。そうやって人と人がときめき合い、人と人の関係の文化がつくられてゆく。そうやって遊びや学問や芸術が生まれてくる。
現代社会の教育は、子供を共同体の成員にすることが目的化され、共同体の成員であるところから生きはじめるというコンセプトが構想されていない。それは、遊びや学問や芸術や、人と人の関係の「文化=カタルシス」が生まれてくる場が構想されていないということだ。
人間は根源=自然に遡行しようとする生き物であって、作為的な制度性にたどり着くことを目的にしているのではない。
人と人の関係の文化や遊びや学問や芸術は、根源=自然に遡行してゆくカタルシスとして生まれてくる。
まあ、彼らがイメージ貧困な俗物のくせになぜ僕をさげすみたがるか、少しわかってきたような気がする。
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【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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