「漂泊論」・47・自己愛の行方

   1・自己愛という制度性
いじめのことは気が重いから書きたくないのだが、内田樹先生が書いていて自分は書かないというのは、何か気がとがめる。そして、あんなふうにすっきりと解決策があるかのようにいって「ドヤ顔」をされると、むかむかする。
この国のみんなが解決策を探しあぐねて右往左往しているときに、たとえば俺が総理大臣ならすっきりと解決してみせるというようないい方をして自分だけはそういう「けがれ」から無縁であるかのような顔をしているなんて、その鈍感さと無神経さには、ほとほとあきれ果てる。
内田樹先生は「子供の自己愛(自尊感情)を守り育ててやるのが大人のつとめだ」というようなことを以前からいっておられる。まあ自分自身がひといちばい自己愛に執着して生きておられるから、ついそんな物言いにもなるのだろう。
しかしいまどきはまさに、そうやって子供と一緒になって自己愛に執着するということばかりしているから、いじめをしないと生きられない子供を大量に生み出しているのではないのか。
制度性の犬ほど、自己愛に執着している。
自分が好きな人が恋をすれば、失恋はきっとつらいだろう。そうして相手を恨んだあげくに、刃傷沙汰になったりもする。相手が自分を好きになっていることを確信していたから、そうではないことはどうしても認めることができない。
相手の気持ちをわかることは、ほんらい不可能なことである。もともとたしかなことは、自分が相手を好きだということ以外には何もない。そこで人は、恋をあきらめる。
相手を嫌いになってあきらめる、ということはほとんどの場合できない。嫌いになれる相手なら、最初から恋なんかしない。
何はともあれ、そのときすでにたくさんの「確信」を持ってしまっている。だからそれが、つらい体験になる。
「確信」とは、自分を好きになっている心である。神がいる、と確信することも、自分を好きになっている心からもたらされる。深い信仰は、自己愛によってもたらされる。現代人は自己愛が強いから、かんたんにデマや迷信を信じてしまう。かんたんに生まれ変わりのスピリチュアルを信じてしまう。
混沌とした狂気などというものは、原始人のものではなく、現代人の自己愛なのだ。
確信するとは、自分を好きになるということだ。
そしていじめをすることにも、こうした制度的な「確信=自己愛」の機制がはたらいているのだろうと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・
   2・第三者を排除するという制度性
現代人は、その成長発達段階のいつどこで「自己愛」とか「確信」という心を持つのだろうか。
いじめの衝動だって、異様な自己愛の強さから起きてくるのだろう。自己愛は、第三者を排除する(いじめる)ことによって満たされる。
お母さんが子供をかわいがる。そのときお母さんは、この世に大事なのはお前だけだよ、といってこの世のほかの子供たちを第三者として排除している。その態度が、子供のいじめをしようとする心を培養している場合もある。
三者を排除しながら子供を囲い込んでしまう。それによって、子供の心は、他者や世界に向かって旅立ってゆくことができなくなってしまう。そうして。他者を排除し(いじめ)ながら自己愛をまさぐる態度ばかり肥大化してゆく。
子供たちによるいじめをしようとする心は、親や大人たちが培養している。それはもう、きっとそうなのだろうと思う。
自己愛の強い大人ばかりの世の中で、とりわけ自己愛の強い大人に育てられたら、子供だってとうぜんそのようになる。
自己愛は、他者の承認を得ることによって満たされる。他者の承認を得る方法はさまざまで、ホリエモンのように金を稼いだり有名人になったりすることも、その効果的な方法のひとつであろう。
たくさん金を稼いでいると、この社会の他者の承認を得ている、という満足が得られる。つまり、自分は社会の一員である、という自覚こそ、他者の承認を得ているというもっとも確かな手ごたえであるのかもしれない。
しかし子供は、その自覚で自己愛を満たすことはできない立場に置かれている。自己愛を満たすことが目的なら、それはとても不安なことにちがいない。
彼らは、家族の中では承認されている。そうして承認されることが生きることだという意識になってしまえば、家の外に出て大いに戸惑うことになる。
金を稼いでいない彼らには、「社会の一員である」という承認が与えられていない。しかし彼らはすでに、他者の承認を得ることなしに生きるすべを知らない。家の外に出れば、他者の承認を得ることができていない身であるという不安が、つねに付きまとっている。
そこで彼らは、第三者の子供を排除しながら(いじめながら)仲間どうし承認し合う、という作法に目覚めてゆく。
いじめの快感というのは、どのようなところにあるのだろうか?
三者を排除している、という快感だろうか。それは、正義の行為である。そうやって、この世界に自分の居場所が確保されている、という満足を得ている。そうやって自己愛を満たしている。
と同時に、それほどに、他者の承認されたい自己愛を満たせる場所がない、という不安に陥っている。
快感というより、せずにいられないわけがあるのだろう。教師に見つかってとがめられることくらいは知っている。それでも、せずにいられない。
せずにいられないわけがあるから、後ろめたくないのかもしれない。それはそれで無意識的には、正義を行使しているという確信に浸っている。第三者を排除するという行為は、そういう確信(無意識の正義の自覚)と自己愛をもたらす。
親も子も、自己愛を満たすことが生きる作法の世の中になっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
   3・自己愛の泥沼から足が抜けられない
今回の大津いじめ事件では、加害者の少年も、親も、教師も、教育委員会も、警察も、行政も、誰もが自己愛を守ることに執着して、後ろめたさを持っていなかった。
その異常さが、こんなにも大きな騒動を引き起こした。
そりゃあ、どいつもこいつも、よくもまああんな平気な態度がとれるものだと、誰だって思う。
いろいろ社会差別の問題もあろうかと思うが、部落であれ在日であれ日教組であれ普通の日本人であれ、この国全体に自己愛を守ろうとする衝動や第三者を排除しようとする衝動が渦巻いているのだろう。そういう象徴的な騒動なのではないだろうか。
ここまで来たらもう、一部の責める側も守る側も、自己愛と第三者を排除しようとする衝動をぶつけ合っている。
いったい、どのように着地してゆくのだろう。
もちろん、世間知らずで政治オンチの僕にはこの問題に深入りしてゆけるような能力も意欲もないが、この「他者の承認を得ようとする自己愛」に関しては大いに考えさせられる。
いまどきのオピニオンリーダーといわれている人たちだって、この自己愛という場所に居直ってさまざまな哲学や思想の問題を解き明かしたつもりでいるわけだが、それはもう世界中がそういう衝動で動いているからで、そういう人間たちが彼らを祭り上げているともいえる。
べつに、オピニオンリーダーに引きずられているわけではないのだ。オピニオンリーダーのいうことくらい、大衆だって知っている。ただ、大衆はそれを表現する言葉を持っていないだけで、すでに知っているからこそ、そういわれれば「そうだ、そうだ」とうなずくのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
   4・愛されたいと願い、愛されていると確信すること
いじめの加害者の少年たちは、自分たちが悪いことをしたとは思っていない。そして親も、うちの子は悪くない、という。親がかばってやらないで、誰がかばってやるのか、という。
彼らにとっては「他者の承認を得ようとする自己愛」で人間は生きているという思い込みがあるから、子供に「承認」を与えることは正義なのだ。おたがい「承認」し合って第三者を排除してゆく、という作法で生きている。そういう態度が、生きる作法として骨の髄までしみついている。
「他者の承認を得ようとする自己愛」に居座っていれば、自分を忘れて他者にときめいてゆくということはない。
誰もが「愛される」ことばかりにご執心で、自分を忘れてときめいてゆくという心の動きなんか持っていない。そのときいじめの加害者の子供の親は、「愛されている」という自覚を子供に与えているだけで、愛してなんかいないのである。
「愛されている」という自覚なんか、愛されていなくても持つことができる。「愛しているよ」といってやればいいだけのことだし、何より一緒になって第三者を排除する体験を持てば、それはもう「確信」になる。
人の気持ちなんか誰にもわからない。だけど、この社会には、言葉と態度でそれを確信してゆく制度性がはたらいている。
愛されることは不可能ではないが、「愛されている」と自覚することは不可能なのだ。なのに現代社会の制度性は、「愛されている」と自覚することを可能にした。「自己愛」の砦にこもって愛することなんかしなければ、それが可能になる。
自分を忘れて他者にときめいてゆくということをしない人間たちが、「愛されている」という自覚を与えあってこの社会の平和と秩序が成り立っているらしい。
現代社会のそうした倒錯的な関係が、あの大津のいじめ事件の騒動に凝縮してあぶり出されている。
内田樹先生をはじめとして、この社会の大人たちは、「自分はこの社会の一員として承認され、他者に愛されて存在している」と自覚している。大人たちにとってそれは、たいしてむずかしいことではない。それを確信するためには、金を稼ぎ、排除する第三者を持っていればよい。
何はともあれ、「愛されたい」と願い、「愛されている」と満足している大人ばかりの社会なのだ。そういう大人たちに囲い込まれて、子供たちのいじめの衝動が培養されている。
子供たちはその確信を得るのが困難だから、いじめに走る。
多くの大人たちが、「愛されたい」と願い、「愛されている」つもりになっていい気になっている社会なのだ。そういう大人たちが、いじめによってしか心を躍らせることができない子供をつくっている。
内田先生などまさしくそんな作法で生きているし、あのいじめ事件の中学校の校長だろうと大津市教育委員会の親玉だろうと、みんなそんな作法で生きているのだ。彼らは「愛されている」つもりでいるから、そんな態度がとれる。そこがやっかいであり、だからこの世界や他者に対するときめきを失ってあんな醜い顔になってしまった。
彼らが愛されることなどほとんどあり得ないが、誰よりもしっかりと「愛されている(他者に承認されている)」という「確信」を持っている。
愛されない人間ほど、愛されたがったり、愛されていると確信していたりする。
他者に承認されることに対する飢餓感ばかり強くて、「ときめく」という心の動きを喪失している子供がいじめに走るのだろうか。いじめながら、その反作用としてじわじわと自己愛がふくらんでくるのだろうか。自己愛が強いから、いじめることができるんだろうね。自己愛の恍惚というのがあるんだろうね。
大人になって、金を稼いだり、出世したり、制度性に浸されたりしてゆけば、そんな危ない手続きをしなくてもそれなりに自己愛をまさぐる体験ができるようになってゆく。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   5・現代人は正しく人間を理解しているだろうか
愛されても愛されなくても同じことだ、その満足も不満も、自己愛に向かう。支配し支配されるという関係に閉じ込められたり、その関係に飢餓感を持ってしまうと、他者の身体とのあいだの「空間=すきま」を見失ってしまう。
自分が好きでないのなら、「確信」などという心の動きは持てない。つねに「わからない」という心の状態で「何・なぜ」と問い続けるしかない。人間はほんらいそういう存在であり、そのようにして文化や文明が発展してきた。
原始時代に「確信」などという心の動きはなかった。したがって「自己愛」もなかった。彼らは、そんな心が持てるほどの優秀な猿ではなかった。ただもう、生きてあることのいたたまれなさに途方に暮れていただけだ。そしてそこから他者と連携し結束しながら、言葉や石器の文化を生み育てていった。
人間は、他者との関係において、他者を発見するのでも自己を発見するのでもない、他者とのあいだの「空間=すきま」を発見し、これに憑依し共有してゆくのだ。
劇作家の福田恒存の言を借りれば、たがいに「相手でもなく自分でもなく、相手と自分を成り立たせる場そのもの」に憑依しながら関係がつくられてゆくのだ。
そしてこれこそがまさに、原初の人類が二本の足で立ち上がって他者と向き合ったときに体験したことなのである。そのとき人類は、おたがいが弱みをさらして向き合っているのだから、相手の能力や心の動きなど吟味することを捨て、たがいに相手を支配することも相手にもたれかかってゆくことも断念している。そうして「相手と自分を成り立たせる場そのもの」としてのたがいの身体のあいだの「空間=すきま」に憑依し共有している。
「相手と自分を成り立たせる」ことは、相手のことがわかるのでも、相手を説得することでも、説得されて満足することでもない。たがいにこれらの「権力」にまつわるすべてを断念して、この「空間=すきま」に憑依し共有してゆくことだ。
現代社会の人と人の関係は、権力によってくっついてゆく。相手にもたれかかってゆくか、相手を支配するか、そういう関係になってしまう。
しかし、人間性の基礎とし直立二足歩行の起源を考えるなら、それは、たがいに弱みをさらし合いながら、もたれかかってゆくことも、その弱みを吟味することも断念している関係になることだった。原初の人類は、そうやって二本の足で立ち上がり、向き合っていった。そして、向き合っていなければ、おたがいに立っていられなかった。
弱みをさらして向き合っているから支配するという馴れ馴れしい関係になりにくいし、相手の弱みを突いて支配してゆこうとする衝動も生まれやすい。人間は支配されやすい隙を見せて存在しているが、人間ほど支配されることにストレスを覚える存在もない。
そこに、いじめたがる心のわけと、いじめられることのつらさのわけがある。
人間は、弱みをさらしながら二本の足で立っている猿である。われわれの人間理解はここからはじまる。強くなれ、とは、いちがいにはいえない。
人間のスタンダードのかたちは、「この世のもっとも弱いもの」のもとにある。
いじめられる人間は、もっとも人間的であると同時に神のような存在でもある。理想論をいうのなら、誰もが弱みをさらしていじめられる側であろうとする社会にならないと問題は解決しないのだろうか。
まあ、「現代社会の閉塞感」というのなら「支配されている」という閉塞感だろう。それは「いじめられている」ということであると同時に、誰もが自己愛の泥沼にはまり込んでいじめる側に立ってしまっている、ということでもある。
コミュニケーションだろうと愛し合おうとどうでもいいが、それほどに人と人の関係が生々しくなってしまっている。仲よくなると、おたがいの自己愛をまさぐり合ってどんどん生々しくなっていってしまうのが、現代社会の人と人の関係らしい。
現代人は、第三者を排除しながら自己愛をまさぐり続けている。現代人の人間賛歌そのものが、いじめを生む土壌になっている。
内田先生、おまえだけが無傷であるようないい方をするな。むかむかする。まあ、そんな安っぽいへりくつに感心している連中だってどうかしていると思うけど。
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/