「漂泊論」・46・別れの坂道

ちょっと閑話休題
京都に、「蹴上(けあげ)」という地名がある。
東山の外れにあって、京都の内と外の境界のようなところである。ここの坂道を登って山科から琵琶湖方面に抜けてゆく。
ちなみに、やまとことばとしての「山科(やましな)」は、山の中の静かな隠れ里というような意味である。昔は、この坂道を登れば、都の喧騒から離れた別天地だった。大石内蔵助もここに隠れ住んだというから、江戸時代でもまだ鄙びた里だったのかもしれない。
それはともかく、坂道だから「蹴上(けあげ)」という。
この「蹴上(けあげ)」という地名の起源に関しては、さまざまな伝説があるらしい。
昔このあたりに刑場があって、罪人を後ろから「蹴り上げ」ながらそこに連れていったからだとか。
あるいは、義経が京都を追われて東国に落ちてゆくときに、このあたりで盗賊に合い、見事に切り捨て追い払ったところだからだ、という説もある。
しかしこういうたぐいの伝説はぜんぶ嘘だと思う。
地名は、そうかんたんには変わらない。たぶん、平安京がつくられたときからすでにこの地名だったのだろう。
坂道のことを「蹴上(けあげ)」というなんて、なんだかしゃれている。ちょっと前かがみになり、つま先で地面を蹴るようにして登ってゆく。いかにも「蹴上(けあげ)」という感じだ。
しかし、ただ単純にそれだけというわけでもないかもしれない。
「けあげ」。
古代において、「け」という音韻は、かならずしも「蹴る」という意味だけではなかった。
「消す」の「け」でもある。
漢字は、あとから当てられた。はじめは、字も知らない庶民たちがただ「けあげ」という音声を呼び習わしていた。
「け」と発声するとき、息だけが勢いよく出ていって、音声は口の中にとどまっている。息と音声が瞬間的に分裂する。
「分裂」「変化」の語義。蹴るという行為は、足と対象が勢いよく分裂する現象だろう。
「消す」というときは、灯火を吹き消す行為から生まれてきたのだろうか。しかしそれによって、部屋の中の明るさが急変する。そういう「分裂」でもある。
「けっ」といってふてくされる。「どうでもいいや」と思ってしまう。気持ちがその場から離れてしまうこと。「分裂」とは「離れる」ことでもある。
とくに、劇的に離れることや変化することを「け」という。だから、妖怪変化のことを「もののけ」という。
つまり「け」という音韻には、「劇的な別れ」というニュアンスもある。
義経が京都から落ちのびてゆくとき、この坂道の途中か上から、万感の思いで京都の街を振り返ったことだろう。
もう二度と戻ってくることはあるまい、という覚悟があったにちがいない。
見送る家来や縁者も、ここまでは付いてきたかもしれない。
ここまでは都で、ここから先はもう都ではない。
もしかしたら、もっと昔から、都落ちをしてゆく人とはここで最後の別れをするという習慣があったのかもしれない。
昔の旅立ちは、二度と会えないことを覚悟する別れだった。
ここでの別れは、貴族がちょっと吉野に花見に行ってくる、というような別れではなかったのだ。
たとえ貴族であっても、この坂道を上ってゆけば、もう二度と帰ってこなかった。
都落ち」を象徴する坂道だった。
とすればこのときの「けあげ」の「け」は、「蹴る」という意味よりも、「劇的な(つらい)別れ」というニュアンスの方が濃かったのかもしれない。というか、坂道を登るという意味の「蹴る」と両方の意味を懸けていたのかもしれない。
まあ旅の別れというのは、見送るものの方に思いが残る。そのときその場では旅立つものもそれなりに万感の思いがあるとしても、旅立ってしまえば、新しい物事と出会いながらしだいに忘れてゆく。
しかし見送ったものは、いつまでも思い出し懐かしまずにいられない。その地名はきっと、見送ったものたちによって語り合われていったのだろう。
見送ったものたちは「蹴る=登る」という体験なんかしていない。つらい別れの記憶が残っているだけである。そういう思いを込めて「け」といったのかもしれない。
「蹴上(けあげ)」とは「(つらい)別れの坂道」という意味。
去ってゆく人を万感の思いを込めて見上げる場所だから「蹴上(けあげ)」という。これは、地名として残っているのであって、坂道だけの名ではない。
別れの当事者ではない地元の住民だって、「ああ、あの人はさぞや無念の思いをいっぱいためて去ってゆくのだろうな」という感想を抱いたにちがいない。
古代人のそういうせつない感慨が込められた地名だったかもしれないのに、後世のものたちがその文字から「蹴り上げる」という殺伐な意味だけに限定してあれこれ伝説をこじつけていった。
人間が文字を持ったということは、ほんとに因果なことだ。
「けあげ」と「蹴り上げる」は違うのだ。
僕は、この地名をはじめて知ったとき、なんだか情緒のある名前だな、と思った。「蹴り上げる」ということなど、ぜんぜん思い浮かばなかった。
高校生のころはじめて京都に旅行し、南禅寺の境内を出てふらふら歩いていたら、この坂道に出た。
夕暮れ時だった。近くに都ホテルが見えた。
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