「漂泊論」・45・進化の契機

   1・世界に色がついていることの不幸もある
人間だって猿になるずっと以前の大昔は色盲で、この世界はモノクロームに見えていたのだろう。
では、どのようにして色彩の世界を手に入れたのか。
こういうことを考えるとき、凡庸な生物学者は決まって「モノクロームの見え方では都合の悪いことが起きてきたからだ」というような合目的的なことを言い出す。
じゃあそのとき、色が見えた方が都合がいいということを知っていたのか、色の世界を見たことがない時点で色の世界があることを知っていたのか、という話である。そんなことがあるはずない。むちゃくちゃな論理だと思う。
色が見えた方が都合がよかったのではなく、色が見えるようになったからそれに合わせた生き方をするようになってきただけだろう。
彼らは、「結果」でしかないことを、あたかもそういう「目的」があったかのようにいう。
われわれ現代人は色が見えるから赤信号と青信号をつくっただけのことで、見えなければそれなりの方法はいくらでもある。
モノクロームの写真や映画にはそれなりの味わいがあるし、カラーの画像よりももっとイメージの喚起力を持っていたりする。
ある意味で、モノクロームの世界の方が高度だということはある。
水墨画という世界だってある。
生き物は、色が見えることによって失ってしまったものはたくさんある。
生きる目的で進化してきた、などというのは、嘘なのだ。
それが生きることに都合がよかろうと悪かろうと関係なく、とにかく色がわかるように進化(変化)してしまったのだ。
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   2・専門家になれない
猿というのは、じつに中途半端な生き物である。ライオンやオオカミのような戦闘能力はないし、シカやウマのように速く走れる能力もなく、鳥のように空を飛べるわけでももちろんない。
雑食になってゆくのは、当然のことだったのかもしれない。
泳ぐことだって下手くそだ。直立二足歩行する前の人類は水棲の猿だったなどという説もあるが、あんなもの嘘に決まっている。もしそうなら、われわれは、もっと上手に本能的に泳げるにちがいない。
なぜこんな中途半端な生き物が地球上にあらわれてきたのだろうか。
能力が特化することを阻む器質を先験的に持たされているのだろうか。それが、猿が猿であることのゆえんだろうか。
たいていの生き物は何か特化した能力を持ってこの地球上に存在している。
猿にはそれがないし、それでもこの地球上に存在している。それが、不思議だ。
われわれ猿は、大昔のある時点で、何かが特化するための遺伝子のようなものを失ったのだろうか。
猿は、何ひとつ特化したものを持たない器用貧乏な生き物だ。特化したものを持たないぶんだけ、手や足の動かし方に融通がきく体型になっている。そして人間は、その器用貧乏の最たる存在であり、だから二本の足で立って歩くというようなわけのわからない方向への転換が起きた。
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   3・進化の契機
つまり僕が何をいいたいかというと、われわれ猿は、「わからない」という機制を器質的本能的にというか遺伝子的にというか、そうやって先験的に持ってしまっているということだ。
身体器質が特化するということは、現象的には「わかる」というかたちで進化してゆくということである。
しかし猿は、特化するための遺伝子のようなものをあらかじめ失ったまま、猿という器用貧乏な種になっていった。
おそらく、色の世界が見えるようになったのも、一種の器用貧乏の現象なのだろう。
あるときから、りんごがだんだん赤く見えるようになってきた。
それは、りんごの姿かたちに対して「わからない」という意識を持った、ということである。
色として見ようとする衝動が生まれてきたということは、もともと色というものを知らないのだから原理的にあり得ない。しかし、「わからない」という機制は起こり得る。
人類の発見は、それを発見しようとして起こってきたのではない。「わからない」という自覚=機制とともに「何・なぜ?」と問うたその先で起きてきたのだ。
原初、りんごをモノクロームの姿として見ながら、何か落ち着かない気分になっていった。
まあ、視覚の能力だって中途半端な生き物だったのであり、みずからのそんな資質に落ち着かなくなっていった。
そのへんの身体生理学的な変化が具体的にどうだったのかということは僕にはわからないが、ともあれその「わからない」という機制が世界の見え方に変化(進化)をもたらしたのだろうと思う。
べつにモノクロームの世界で困るということもなかったのだが、その中途半端な存在の仕方をしているという居心地の悪さのために、世界の見え方が変わっていったのだろう。
あるとき視覚の機能が「色彩が見える」というかたちでスイッチが入った、ということではないはずだ。「わからない」と問いながら、少しずつ少しずつ色彩が見えるようになっていったのだろう。
中途半端な生き物だったから、環境世界(自然)に対する違和感が強かったのかもしれない。
鳥が、青い実と赤い実を区別しているとすれば、それ以前に「(食べられるのか食べられないのか)いったいどちらだろう?」と問う進化の段階があったはずだ。
すべての生き物は「わからない」という機制を持っており、そこで身もだえするところから進化が起きてくる。そしてその傾向がとくに強く広範囲だった猿は、何ひとつ特化しなかった。何ひとつ特化しないというかたちで特化してきた。猿の知能がほかの動物より高いとすれば、特化しているものを何ひとつ持っていないからだろう。
猿は、ほかの動物よりも「わからない」という機制を持っている。しかし人間ほどではない。人間から見たら、猿だって持っていないに等しい。
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   4・色彩の不快
鳥のオスの羽の色があんなにも派手なのは、メスの心を魅了するためではない。
基本的に、生き物にとって色彩は違和感であり不快なものである。だから、派手な色彩を持っている個体の方が捕食されにくいという場合も多い。
鳥のオスが派手な羽の色をメスに見せびらかすのは、怖がらせめまいを起こさせ「もうどうでもいいや」という気にさせるためである。そこでメスは、みずからの身体を消そうとして立ちすくんでしまう。消えようとする衝動を起こさせるためである。消えようとして逃げるか、立ちすくんでしまうかは、そのときの状況による。発情して体に倦怠感がたまっていれば、立ちすくんでしまう。
色彩とは基本的に不快なものであり、進化の過程で色が見えはじめてきてよろこんだということはあり得ない。いやだけど、色彩が見えるようになってしまったのだ。
生き物にとって「わかる」ということは不快なことである。なぜなら生き物は、その生の根底に「わからない」という機制を持っており、そこにおいてみずからの生と和解しているからだ。
そして、「わからない」という機制を持っているから、「わかる」という体験をしてしまう。そうして、その「わかる」という「けがれ」の場から旅立とうとする。
鳥のメスは、オスの羽の色彩にめまいを起こすその「わかる」という「けがれ」の場から旅立とうとして、みずからの身体を消そうとし、逃げるか立ちすくんでしまうかという態度を起こす。
われわれ人間だって、色彩が見えることによろこんでいるのではない。色彩が見えるようになってしまった事態はもう受け入れるしかないが、受け入れながら、その不快感を消去するために、あれこれ色彩の組み合わせを工夫してきた。それは「わからない」という機制が生まれる体験としての組み合わせなのだ。たとえば緑と茶色を組み合わせるとき、たがいにその色の不快感を消去し合っている。そうして、緑が緑であることも茶色が茶色であることも「わからない」という心地になっている。
その「わからない」という感触が、人の心を落ち着かせる。
きれいな色の服だといっても、それが街の景色との心地よいアンサンブルを持っていなければ、誰もおしゃれだとは認めてくれない。
色彩が不快だから、色彩の組み合わせ(アンサンブル)の技法が生まれてきた。不快でなければ、人間はそんなことに夢中にならない。
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   5・それでも地球は回っている
生きようとして進化が起きてくるのではない。
その現象を「生きるのに都合がいいから(便利だから)」と説明すればこの社会では説得力を持つから、多くの知識人がそういいたがる。それは、彼らの「処世術」であって、彼らは真実とは何かと本気で問う意欲など持っていない。
生き物に生きようとする衝動(本能)があるかどうかという問題はまだ解決されていないのであり、僕は大いに疑わしいと思っている。
なんの疑いもなくその衝動(本能)があるという前提に立てれば、「生きるのに都合がいいから(便利だから)」とあっさり言うことができるし、そういえばみんながうなずくと思っていやがる。そういって人を説得し支配してきた実績があり、そういわれて説得され支配されてきた過去があるのだろう。
とりあえず世の中は、そういう仕組みになっているらしい。
しかしそれでも、地球は回っている。
生きるのに便利だから色彩が見えるようになったのではない。色彩が見えるようになってしまっただけであり、それは「わからない」という機制から起きてきたことだ。
色彩が見えることは、かならずしも生きるのに都合がいいことではない。生き物は、本能的に色彩を嫌っている。それでもわれわれは、色彩が見える生き物になってしまった。それはその「生きるのに都合が悪い」ということそれ自体を受け入れる機制=習性を持っていたからであり、受け入れてもがくことが生きるいとなみなっているからだ。
人の心は、「生きるのに都合がいいこと」にしがみついてまどろんでいるよりも、そこから旅立って「わからない」という荒野を漂泊しようとする。そうやって恋や友情やセックスや遊びや学問や芸術が生まれてくる。
色彩に対するセンスを持っている人は、色彩が見えることの不幸を知っている。だから、いいかげんな色では我慢できない。それと同じように、「生きるのに便利だから」というような解説で満足したり説得されたりしているかぎり、われわれの思考はけっして深くならないし、真実に届かない。
生きるのに便利な方法として人間の文化が生まれてきたのではない。そんな思考をしているかぎり、たとえばあなたたちには言葉の起源は死ぬまで解き明かせないだろう。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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