「漂泊論」68・「けがれ」からの旅立ち

   1・それは、集団ヒステリーか
人と人の関係や集団性は、その根源においては「共生」や「共鳴」や「共感」などというべたべたした作為的な共同性(制度性)の上に成り立っているのではない。
人と人の関係はつねに一方通行で、「寄生」し合う関係として、ときめき合い連携してゆく。これが基本であるのだが、社会の制度性はこれとは逆立したかたちで連携がつくられている。制度的な連携は、「共生」の論理の上に成り立っている。
たぶん、そうやって逆立していた方がいいのだ。その方が人間性の基礎に立ちかえるカタルシスがより深くなる。
社会の制度性の中で生きるのはしんどい。しかし人間は、あえてそういう危機的な状況に身を置こうとする衝動がある。生き物の命は、危機的な状況にせかされるようにしてはたらいている。そうやってわれわれは、密集し過ぎた群れの中で、あらためて「身体の孤立性」を見出している。つまり、たがいに孤立した存在として寄生し合っていることのカタルシスを体験してゆく。
サッカースタジアムに10万人が集まる。そんなにも一度に集まれば鬱陶しくて息がつまるだけで、猿なら発狂してしまうにちがいない状況なのに、どうして人間はそんなことができるかといえば、たがいに一方通行の関係で寄生し合ってゆくことができるからだ。
一方通行で寄生し合っているだけだから、たがいの身体は「共鳴」も「共感」もしない。
共鳴も共感もしないから、10万人が集まることができる。たまに共鳴・共感し合ってヒステリーを起こし、大乱闘になってしまうことはあるが。
まあ一部のインテリは、そうした集団ヒステリーを起こすことが人間の本性だといっているのだが、そうじゃない。人間の本性は、そんな状況でも、たがいに「身体の孤立性」を確保し合ってゆくことできるところにある。孤立し合おうとするこの本性がなければ、10万人のスタジアムは成り立たない。
その熱狂は、集団として「一体化」しているのではない。誰もが「孤立した観察者」として試合の流れと向き合っている。
そこでは、誰もがひとまず社会人や家族人としての「定住し共生している」ふだんの暮らしから旅立って集まってきているのだ。俗ないい方をすれば、誰もが孤独な漂泊者なのだ。
家族でディズニーランドに行くことだって同じだろう。それがふだんのくらしの延長の集団であっても、そこに来ればひとりひとりは孤独な漂泊者であり、だからこそ気持ちが大いに盛り上がる。
人は、集団の中に置かれ、みずからの存在が「集団の一部」になってしまえば、世界や他者に対するときめきを失って心は倦んでくる。そうやってインポになったり鬱病になったり仲間どうし衝突し合ったりしてくる。古代人はその状態を「けがれ」といった。
そういう「けがれ」をそそぐ旅として、スタジアムやディズニーランドに集まってくるのだ。
心は、「世界から孤立した観察者」になることによってダイナミックなときめきを体験する。スタジアムで熱狂する観衆だって、ひとりひとりがそのような孤立した観察者になっているのであって、まわりのものたちの心や体と共鳴し合っているのではない。
あとになって「さっきのプレーはすごかったよね」と語り合ったときにはじめて「共感」というようなことを体験する。しかしそれは、その瞬間にたがいの心が共鳴していたのではない。あくまで「結果」として同じだったことを確認しているだけであって、そのプレーが生まれた瞬間においては、誰もがそのプレーと自分との一対一の関係を結んで感動している。
人と人は、そういう感動を「共有」するが、「共鳴・共感」し合うのではない。
共鳴・共感するのではなく、そのとき他者の存在が壁(圧力)になって、より深く確かに「孤立した観察者」になってゆく。そうやって観衆は熱狂してゆくのだ。
したがってそれは、「集団ヒステリー」とはいえない。その他者の存在の壁(圧力)が崩壊して観衆どうしの乱闘が生まれたときに、はじめて「集団ヒステリー」となる。
猿だって、群れが密集し過ぎれば仲間どうしの殺し合いになることもある。
しかし人間は、密集し過ぎた集団の中に置かれているときにこそ、もっとも深く確かに「孤立した観察者」になっている。それが、いつ猿の時代に先祖がえりして「集団ヒステリー」に変わるかもしれないという危険があるにせよ、「孤立した観察者」にならなければ心はときめかないし熱狂しない。
共鳴し合って盛り上がる、などということはない。誰もが「孤立した観察者」になっているところで盛り上がってゆくのだ。
みんなで酒を飲んで盛り上がるといっても、そのとき誰もが孤立した存在としてその場の「なりゆき」に反応しているのであって、心や身体が共鳴し合っているのではない。他者の心などわからないし、他者の心に反応することなどあり得ない。
心や体が共鳴し合うことなんか不可能なのだ。だからこそ人は、その場のなりゆきや言葉に豊かに反応してゆく。
心や体が共鳴し合って言葉が生まれてきたのではない。言葉は、心や体が共鳴し合うことの不可能性の上に生まれ育ってきたのだ。その不可能性の上に人間的な連携が成り立っている。
人間は、その不可能性を自覚し嘆いている「孤立した観察者」である。
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   2・人間の自然
私は人と共感し合う能力がある、などといって人格者ぶる……それは、その作為的に仮構された「共感」の関係を利用して自分を押し付け相手を支配してゆく態度である。そんなくそ厚かましい人格のどこが素晴らしいというのか。
彼らが人と人を共感・共鳴し合う存在だということにしたいのは、人を支配したいからだ。
そうやって、押し付けがましいや広告やセールスや政治的プロパガンダが幅を利かせている世の中だ。
しかし世の中には、そういう態度を忌避して生きている人もいる。なぜなら、それこそが普通の人間の心の動きであり、その「孤立性」こそが人間性の自然であるからだ。そしてそういう人の方が、人間としての魅力も、人にときめく能力も、人と連携してゆく能力も豊かにそなえている。
生きてあることは、人と別れることと人と出会うことのバイブレーションであって、くっついて「共鳴・共感」し合っていることではない。一緒に暮らしていても、そういう「孤立性」のタッチを持ってときめき合っていないとすぐ関係が煮詰まってくる。
内田樹先生は、いつも「共生」だの「共感」だの「共鳴」だのという概念に固執して「孤立性」のタッチを持っていないから、奥さんや子供に逃げられたのだろうか。よく知らないけど、まあ世の中にはよくあることで、多くの現代人がそういう病理を抱えてしまっている。
「共生・共感・共鳴」などという現代社会の不自然で制度的な観念の病理が、人間を追いつめている。それは、人を支配するための単なる方便であり、現代人はそうやってたがいに支配し合いながらこの社会をいとなんでいるらしい。
「相手の気持ちはわからない」という前提で生きられないのが現代人の病理であり、わかったつもりになってしまうことこそ、その思考の限界なのだ。
人間はもともと猿よりももっと自然で本能的な生き物なのである。「猿という自然」を克服(超越)したのではなく、「猿という不自然」から根源的な自然に遡行してゆくように二本の足で立ち上がったのだ。
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   3・猿の不自然
人間が二本の足で立っていることは、「身体の孤立性」を止揚している、ということである。
猿(チンパンジー)は、哺乳類として進化し過ぎてしまった。森の中の安定した暮らしを得て、進化の袋小路に迷い込んでしまった。安定した暮らしを持っているから、群れどうしの熾烈なテリトリー争いをしなければならない。
生き物はもともと死ぬことを宿命づけられて不安定な存在の仕方をしているから当然安定した暮らしを望むが、安定しているだけでは生きられない。生きることを急き立てる緊張感がなければ生きられない。生き物は、「生きようとする衝動(本能)で生きているのではない。生きることを急き立てる「状況」によって生かされているだけなのだ。だからどうしてもそういう急き立てられる「状況」を生みだしてしまう。
安定した暮らしをしている猿を生かしているのは、テリトリー争いや個体どうしの順位争いなどの緊張関係である。そういう緊張感が生まれる「状況」にせき立てられて、はじめて生きるという行為が起きる。
森の中の猿に比べたら、サバンナのライオンやシマウマの方がずっと苦労して生きている。つまり、ずっと「個体」として自然という世界と向き合って生きている。たとえ群れで暮らしていても、一頭一頭はそういう「身体の孤立性」を持っている。
森の中の安定した暮らしを得てしまった猿(チンパンジー)は、孤立した個体として世界と向き合うという緊張感を失ってしまった。そうして「世界の一部」として存在するようになっていった。
「世界の一部」になってしまったら、床の間の壺と同じで、生きるといういとなみは起きてこない。だから、その安定感を解体するかのように、群れどうしの熾烈なテリトリー争いや個体どうしの順位争いが起きてくる。
猿(チンパンジー)は、進化の袋小路に迷い込んで、孤立した個体として世界と向き合って存在しているという緊張感を失ってしまった。
現在、チンパンジーやオランウータンやゴリラなどの霊長類が絶滅に向かいつつある、といわれているのは、ただ単純に生息域が狭められているということだけでなく、ライバルが少なくなってますますその生存が安定してしまっていることもあるのではないだろうか。
進化の袋小路に迷い込んで生存が安定してしまった種は、もう滅びるしかない。彼ら霊長類は、最初からすでに滅びる宿命にあった。人間は、その宿命を乗り越えて二本の足で立ち上がり、いったん猿よりももっと弱い猿になって「生命の危機」を生きる歴史をはじめた。
「生命の危機」を生きようとして、地球の隅々まで拡散していった。
だから現代人は、平和で安定した暮らしとともに「世界の一部」になってしまったことの埋め合わせとして、さまざまなテリトリー争いや個体どうしの順位争いを生みだしているのだろうか。生き物が生きるためにはそういう「生命の危機」が必要なのだが、そのために猿のレベルに先祖がえりしてしまうのも芸のない話で、それはもう人間であることを捨てる作法にちがいなく、それによってさまざまな社会的病理を引き起こしている。
直立二足歩行をはじめたときの志を捨てて、われわれは人間であることができるのだろうか。
しかし現代でもなお「孤立した観察者」である人はその志を捨てていないし、誰にだってそうやって人間に立ちかえる瞬間はある。
いや、基本的には、誰だって人間として存在している。そうやって「身体の孤立性」を紡ぎながら遊んだり恋をしたり友情を育てたり、学問的な知性や芸術的な感性を得ている。
人間だって生き物なのだから、「身体の孤立性」失って生きてなんかいられない。
お願いだから、「共生・共感・共鳴」などという言葉で人を追いつめないでくれ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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