「漂泊論」69・人間存在の暗さ

レイアウトを変えてみました。それと、今まで書いた記事をカテゴリーごとに分類して表示し、すぐ検索できるようにもしたいのだけれど、まだうまくできません。
・・・・・・・・・・・・・・・   
   1・原因がわかりたいのではない  
人間はなぜ、「なぜ?」と問うのか……と誰かがいっていた。しかし、そのわけを知りたいからだ、と説明されても、それでは納得できない。
僕は、そうは思わない。
「私はなぜこの世界に存在するのか?」「なぜこの世に生まれてきたのか?」と問うたとき、われわれは答えを知りたがっているだろうか。
両親がセックスしたからだとか、自分の素になった精子がほかの精子より早く卵子に泳ぎ着いたからだとか、そんなことを知っても、今さらどうにもならない。生まれてこなかった昔に戻れるわけではないし、自分が「いまここ」に存在するというその理不尽な事態に対するいたたまれなさは、わけなんか知ってもなんにもならない。
われわれは、生まれた瞬間にこの事態と出会って驚き怖れながら「おぎゃあ」と泣き、この怖れといたたまれなさを死ぬまで引きずってゆくのだ。
死ぬのが怖いというだけではすまない、人間は、生きてあること自体が怖いのだ。
人間が生きてあることには、そういう暗さがどうしようもなく付きまとっている。だから宗教が生まれ、天国や極楽浄土を夢見る。
しかし、そういう暗さが付きまとっているから人や世界にときめき感動するのだともいえる。そういう暗さが付きまとっているから、自分を忘れて何かにときめいたり熱中したりすることにカタルシスを覚える。
人間は、自分や自分の身体や自分が生きてあることを忘れてしまいたい「暗さ」を抱えて生きている。「生命の尊厳」とやらを止揚して生きている存在ではない。
生き物は根源において、生きていたい存在ではなく、生きてあることを忘れたい存在なのだ。みずからの存在を消去することが、生きてあるいとなみなのだ。
それでも、このいたたまれなさはどうしても付きまとう。忘れても忘れても、いたたまれなさに引き戻されてしまう。そうして「なぜ?」と問う。まるで、食っても食っても空腹は必ずやってくるように、この生のいとなみの「反復」という法則がわれわれを追いつめ、問題が解決されるだけではすまない心を余儀なくされてしまう。
人類の「なぜ?」という問いは、生きてあることの怖れといたたまれなさから生まれてきた。
それは、何かをわかろうとする知能の問題ではない。生まれたばかりの赤ん坊だって、「なぜ?」と問うている。
人間は、存在そのものにおいて、すでに「なぜ?」と問うている。
たとえば、ある日会社から家に帰ったら、愛する妻が家を出ていなくなっていた。そのとき思わず「なぜ……?」と呟く。この「なぜ……?」という問いは、わけが知りたいという思いから発せられているのではない。彼は、ただもう目の前の理不尽な事態に対して気持ちをどのように向けたらよいかわからなくて途方に暮れている。
その「わけがわからない」という思いから「なぜ……?」と問うた。わけが知りたいという思いは、あとになってから湧いてくる。
この「なぜ……?」が、起源の問いだ。
人間は、この生の理不尽な事態に怖れおののいて「なぜ?」という問いを発するのであって、そのわけが知りたいからではない。
ただもうわけがわからなくて途方に暮れている思いの表出として「なぜ?」という問いが生まれてくる。そういう意味で、生まれたばかりの赤ん坊だってこの問いを持っている。
知りたいから「なぜ?」と問うのではない。「なぜ?」と問うてから、「知りたい」と思う。「なぜ?」という言葉に触発されて、「知りたい」と思うのだ。
起源としての「なぜ?」という問いは、生きてあることの根源的な不安から生まれてきた。
子供は、生きてあることの不安が生々しいから、何度も何度も「なぜ?」と問うてくる。それは、知識欲ではない。存在の不安なのだ。問うことによって、その不安が癒される。それは、不安を吐きだす行為である。
愛する妻に逃げられたその男だって、その「わけがわからない」という不安を吐きだすようにして「なぜ……?」と呟いたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   2・「なに?」と「なぜ?」
日本語の「なぜ」という言葉はそう古い言葉ではないが、そのように定着したことには、大衆の無意識がはたらいている。べつに、誰かがこういおうと決めたわけではない。気がついたら誰もがそのようにいうならわしになっていたのだ。
日本語は論理的ではない、とよくいわれる。だからこそ、人間の無意識を探るには、とても都合のいい言葉である。無意識から生まれてきた言葉なのだ。観念的な意図をともなっていない。
日本語は一音一音を確かめるように発音される。一音一音に意味や感慨がこめられている。しかも、意図しない大衆の無意識によって育ってきた言葉なのだ。
「なぜ」の「な」は、「なる」「なれる」「なつく」の「な」、「親密」「和解」「定着」の語義。
「ぜ=せ」は、「背中」の「せ」、背中は見えない。つまり「不可能性」の語義。「急(せ)く」とは不可能性を克服しようとすること。「競(せ)る」とは、同じになることが不可能性な状態のこと、同じになるまいとすること。
すなわち「なぜ」とは、不可能性と和解している感慨からこぼれ出てきた音声=言葉、ということになる。
「なぜ」とは、あり得ないことに対する驚きや怖れのこと。この言葉には、わけを知ろうとするような意識は含まれていない。
もうひとつ「なに?」という言葉がある。「に」は「似る」の「に」、「接近」「到着」の語義。だから「東京に行く」という。このときの「に」も、「接近」「到着」のニュアンスで使われている。
「なに?」は、その物事の存在の必然性を認めつつ興味しんしんになっているときにこぼれ出てくる音声=言葉。
「なに?」は、必然性に対する親密さの表出。
「なぜ?」は、あり得ない物事がどうしようもなく気になることの表出。
どちらも、知ろうとして生まれてくる音声=言葉ではない。無意識のうちにその音声=言葉を発してしまってから、表層の意識(観念)かがそれを知ろうとするのだ。
「なに?」も「なぜ?」も、もともと無意識のうちに発せられる音声=言葉だったのであり、無意識には知ろうとする欲望などない。
根源的な意識に、知ろうとする衝動=欲望などはない。意識は、「なに?」「なぜ?」と問うて発生し、その「結果」として避けがたく知ってしまうのだ。
人間は、ほかの動物以上に「なに?」「なぜ?」と問わずにいられない存在の不安を深く抱えてしまっている。だから、知ることもときめくこともより豊かに体験する。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   3・「わからない」という闇
「わかる」ことにカタルシスがあるのではない。「問う」ことにカタルシスがある。
だから子供は、次々に「なぜ?」と問うてくる。
「なぜ?」という問いは、「わからない」ということの表出であって、「知りたい」というたんなる知識欲ではない。その問いは、「知りたい」という契機から生まれてくるのではなく、「わからない」という存在の不安から生まれてくる。問うてから、「知りたい」と思うのだ。
1、2歳の子供が「飛行機はなぜ空を飛ぶの?」と聞いてきて、教えてやってもわかるはずがないし、子供だって、そのわけを知りたがっているのではない。ただその不思議(わからなさ)に心が震えているだけだ。
だからそんなときは、下手な説明するよりも「ほんとに不思議ねえ。どうしてなんでしょうねえ」と反応してやればいいだけだったりする。そうやってお母さんと「わからない」ということを共有することによって、ひとまず気持ちが落ち着く。
そのとき子供は、自分がたったひとりで世界から置き去りにされているような不安を味わっているのであり、その気持ちがなだめられればいいのだ。
なだめられて、はじめて「知りたい」と思う。そうなれば、お母さんに教えてもらわなくても、いつか自分で知るようになる。
下手に説明したら、さらに次々と質問が飛んでくるだけだし、あげくの果てに「うるさいわねえ、子供がそんなことを知らなくてもいいの!」と突き放してしまうのがいちばんよくないのだろう。
子供は、大人よりもずっと根源的で深い生きてあることの不安を抱えている。彼らは、苦労人なのだ。知ることよりも、その不安を共有してもらうことの方が子供の慰めになる。
みんなしょうがなく生きているだけだ、ということがわかる方が子供にとっては大きな慰めになるし、それこそが大きな発見になる。
わかることが子供のよろこびなのではないし、わかることや知っていることが第一の世の中なら、子供はますます生きづらくなる。
人間は「わかる」ことによって生きているのではない。「わからない」と問い続けながら生きているのだ。
吉本隆明氏はむかし「自分にもし200年の命があればたいていの哲学的な問題は解決してみせるという思いがないわけではない」といっておられたが、そういうことじゃないんだなあ、それでも「わからない」と問い続けるのが人間なのだ。
哲学は、問題を解決する学問ではない。「わからない」と問う学問なのだ。
凡庸な科学者に「そういう問題は科学が解決してやる」などといわれると、「しゃらくさいことをいうんじゃないよ」とわれわれは思ってしまう。
人間の心の闇に分け入ってゆくことは、闇(謎)を解き明かすことではなく、闇(謎)を味わいつくすことなのだ。
われわれは、闇を解き明かしたつもりで哲学を見下している凡庸な科学者よりは、生きてあることの闇を味わいつくしている「この世のもっとも弱いもの」の方をずっと尊敬する。
たとえば、鏡に映った自分を眺めながら「それはもうひとりの自分だ」とあっさり納得している大人よりも、「果たしてこれは生き物なのか?」と問うている子供の方が、ずっと深く哲学的な思考をしているのだ。
謎は謎のまま残しておいた方がよいとか、そういうことではない。人間の心の闇は、魔物を見てしまうし、みずからの「けがれ」を深く思い知ったりもする。ただ謎を前にしておもしろがっているのではない。謎に分け入って怖れおののいてしまうのが人間なのだ。
べつに、魔物がいるというのではない。しかし生きてあることに怖れおののく心は、避けがたく魔物を見てしまう。
誰だって、心の底では、生きてあることに怖れおののいている。そしてそれは、この世に生まれおちたときに体験したことだ。
たぶん、生まれたばかりの子供のような視線を持っていないと哲学はできないのだろう。それは、訳知り顔の凡庸な科学者が解き明かしてくれるのではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   4・生まれてきてしまったという過失
心は、闇に分け入ってゆく。闇を前にして「闇(謎)は闇(謎)のままにしておいた方がいい」というのでも、闇(謎)を解き明かしたつもりになるのでもなく、闇そのものを味わいつくそうとする。
人間は、「わからない=闇」という事態のいたたまれなさに身悶えしながら生きているのだ。
自分がこの世に生まれてきてしまったという事態の過失は、その原因がわかったからといって何の解決にもならない。過失そのものと和解し、過失そのものを生きるしかない。そうやって人は「なぜ?」と問う。
それは、闇の中に立ちつくし、闇を味わいつくしている心である。
わかろうとして「なぜ?」と問うのではない。「わからない」という事態のいたたまれなさの表出として「なぜ?」と問う。そしてそのいたたたまれなさは、「わかる」ことによってではなく、「表出する」ことそれ自体によって癒される。
「なぜ?」という音声を発し、いたたまれなさを表出することのカタルシスがある。
心ある科学者はきっと、「自分は知っても知らなくてもいいことを知ろうとしている」という後ろめたさがあるにちがいない。そりゃあそうだ、人間の暮らしなんか、べつに原始時代のままでもかまわない。生きて飯を食ってセックスをして死んでゆくだけだ。どうせ死んでしまうのなら、スムーズに死んでゆけるのが何よりだ。
それでも「知る」といういとなみをせずにいられないのは、人間は「わからない」という状態に身を置いてしまう習性を持っているからだ。知ることの向こうに、さらに深い「わからない」というう闇が待っているからであり、とりあえず知らなければそこに分け入ってゆけない。
その問題を解き明かすことは、その向こうのさらに本格的な闇に分け入ってゆくことだ。彼は、闇に引きずり込まれるようにして、問い続け知り続けている。
問題という闇の中にたたずんでいれば、問題は避けがたく解き明かされる。しかし、解き明かされたからといって、なんの得にもならない。さらに深い闇に分け入ってゆくパスポートを得ただけである。
彼(科学者)は、ただもう、闇に分け入ってゆきたいだけである。
ここのところがわからないんだよなあ……という「嘆き」があってはじめてそれを知ろうとする心の動きが生まれてくる。この「わからない」という「嘆き」持っているかいないかが、科学者の資質になる。
芸術家だってたぶん、闇に分け入ってゆく作法を持っていなければ、美と出会うことはできない。
闇は闇のままでいいというわけにはいかないし、わかったからそれでいいというのでもない。われわれがこの世に生まれてきてしまったことは、もっとのっぴきならない事態であり、そんなことではすまないのだ。
人間は、その「のっぴきならない」ということを自覚している存在だから、学問や芸術や遊びを生みだし、セックスや恋に深く耽溺するようになった。
わかったからそれですむというものではないし、わからないままでいいわけでもない。そういうのっぴきならないこの生の不安やいたたまれなさに急き立てられて人は「なぜ?」と問う。
わかりたくて「なぜ?」と問うのではない。「なぜ?」と問うたことの「結果」として、「わかる」という事態がやってくるだけである。
この生に答えなんかないし、答えを求めてもいない。ただもう、このいたたまれなさをなんとかしたいだけだ。そうやって人は、「なぜ?」と問う。
まったく、生きてあることなんか、女房に逃げられて呆然と部屋に立ちつくしているようなものだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ブロングランキングに登録しています。このブログなんてこの程度のものかと思い知らされるばかりだけど、記事の内容を充実させるための励みにしたいと思っています。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/