「漂泊論」70・女の孤立性

   1・旅の起源は女がつくった
原初の人類は、直立二足歩行をはじめたばかりの「猿人」の段階のころからすでに、群れどうしで女を交換するという習性を持っていたらしい。
そのころ人類は、サバンナの中に点在する小さな森の中で暮らしており、群れと群れは、猿のようにテリトリーがくっつき合っているのではなく、サバンナという「空間=緩衝地帯」を隔てて隣り合っていた。
猿の群れどうしはたがいのテリトリーがくっつき合ってつねに緊張関係をはらんでいるから、かんたんにメスを交換するということはしない。勝手に逃げていったり集団から追い出されたりしたメスが近くの群れに紛れ込んでゆくだけである。しかし猿のオスだって、いつも見慣れているメスより知らないメスの方がセックスアピールを感じるから、受け入れ、追い返すということはしない。
まあこの場合は、交換しているとはいえない。
それに対して原初の人類は、たぶん、男たちが女を連れて隣の集落に行き、帰りにはその集落の別の女を連れてくる、というようなことをしていたのだろう。
そのころ人間の集落(=森)どうしのあいだにはサバンナという危険な空間が広がっていたから、女ひとりでは行けない。きっと男たちが付いていったのだ。
そして、もしもその旅する小集団がサバンナで肉食獣に襲われたとき、男が女の身代わりになって殺されてしまう、ということが起きなかったともいえない。それはべつに犠牲的精神というほどのものではなく、男の方が肉食獣と戦おうとしてしまうからだ。ライオンのような強くて大きな相手ならひとたまりもないが、オオカミのたぐいなら、石を投げつけたりして追い払おうとしたかもしれない。
そのあいだに女が逃げる。
ではなぜ、そのようにしてまで隣の集落に行こうとしたのか。
原始人は死と和解していたから、そういう不測の事態は仕方がないとあきらめることができたのだろう。
まあ人類史には、地球の隅々まで拡散していったことにせよ、そういう無数の「不測の事態の死」が横たわっている。
とにかく、それでも人類はサバンナを横切っていった。原初の人類にとってサバンナは、べつに食料の宝庫でも安全な場所でもなく、たんなる不毛の空虚な空間だった。
それでも、その不毛で空虚であることそれ自体に引き寄せられるように若い女たちは旅立っていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   2・女は男を手なずけようとする
猿の場合は、若い成長したばかりのメスが、たとえばボスに近づいてゆこうとして、既得権益を守ろうとする大人のメスたちから追い出されるのだとか。
猿のメスは、ボスの庇護なしには生きられないし、成長したばかりのメスなら、なおさらボスにたよるにちがいない。そうして逃げていったメスは、やっぱりその群れのボスのもとに飛び込んでゆく。ボスにとっても、目新しいメスならよろこんで承認するだろう。なんとなく紛れ込むのではない、ボスの承認を得るのだ。
しかし人間の群れにはボスなどいなかったから、若い女自身が出ていこうとしたのだろう。
そうして、新しくやってきたその女は、集団の男たちの共有の相手になっていった。
猿の群れだろうと人間社会だろうと、新しい女は歓迎される。男たちは、新しい女の方がセックスアピールを感じる。
だから結婚している男は浮気をしようとするし、結婚している女は、本能的に結婚していない(=子供を持っていない)若い女を排除しようとする衝動を持っている。それはもう、猿であったときからの生態であるし、人間になってからでも、男たちがよその集団からやってきた女ばかりをかまいたがるということに対する対抗心はあったにちがいない。
しかしまあ、その、よそからやってきた女だって子供を産んでしまえば、集団の中の女としてひとまずセックスから離れて育児に専念する時期を持つことになる。たぶん、そうやって群れの一員の女として承認されていったのだろう。
また、群れの中の女たちだって、男たちのそうしたうわついた行動様式に対抗する措置として、群れの若い男たたちを手なずけるということをしていったにちがいない。こうして人間社会は、徐々に猿の群れとは違う女権制の傾向になっていった。
女は、育児からはじまって、男を手なずけようとする本能を持っている……といったら、女たちに叱られるだろうか。まあ、ウーマン・リブとかフェミニズムというムーブメントだって、一種の男を手なずけようとする生態なのかもしれない。それだけとはいわないが、女にはそういう歴史的無意識がないとはいえないような気がする。
人類が一夫一婦制の家族を持つようになったのは、つい最近のここ1万年以内のことである。それまではずっと乱婚社会だった。そういう社会で、子供を持つ女が男を確保するための措置として若い男を手なずけながら女権制になってゆくのはもう必然的ななりゆきだったといえる。
現在の母親が教育ママになったり「勝ち組」として自己正当化したがる生態だって、人類史のそういう無意識がはたらいているのかもしれない。
人類の支配意識の基礎は女がつくった……ここのところは、猿社会とは大いに違うところだろう。
それがいいとか悪いとかといってもはじまらないが、やっぱり子供を持つ母親は、どうしても子供に対しても亭主に対しても権力者になりがちである。それはたぶん、人類史の宿命なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
   3・一緒に暮らせば、「けがれ」がたまる
人類は、その歴史のはじめから、よその群れからやってきた女を受け入れ男たちで共有してゆくということをしていた。これが、売春制度の起源かもしれない。
猿は、発情期が限られているから、こういう生態は成り立たない。どうしても限られた個体にメスが占有されてしまうし、限られた個体の遺伝子しか残らない。そうやって個体が均質化して群れの結束や排他性が維持されてゆく。
しかし人間の集団は多くのオスの遺伝子が残って個体が多様化してゆくから、集団からはみ出てしまう個体はどうしても出てくるし、また、多様な個体が結束できる集団性が生まれ育ってくる。
連携とは、同じことをする行為ではない。たがいに違うことをしながら集団として一つの成果を実現してゆく行為である。こういうことは、人間のような遺伝子が多様な集団の方が発達する。
人間の集団は、多様な個体が連携・結束できることにある。それは、誰もが孤立した存在としてありながら連携・結束している、ということだ。
孤立した存在としてのメンタリティによって連携・結束している、ということだ。
人間は、誰もがこの世界の孤立した観察者であることによって他者にときめき、連携・結束してゆく。
誰もが孤立した異質な存在として自覚しているから、スタジアムに10万人がひしめき合って集まることができる。猿はそのような孤立性を持っていないから、もしそうなったらヒステリーを起してしまう。そういうメンタリティだから、群れどうしの熾烈なテリトリー争いや個体間の順位争いが起きる。
人間は、少なくとも「孤立性」を自覚している部分においては、順位争いやテリトリー争いをしないで、ただもう無邪気にときめいて連携・結束してゆく。
そのとき、人格や姿かたちが異質だから孤立性を自覚するというのではないし、コミュニケーションが通じないから異質だというのでもない。人類は、コミュニケーションの通じないよその集団の女を受け入れ共有してきたのだ。
人間は、存在そのものにおいて「孤立性」を自覚している。だから、コミュニケーションなどなくても連携・結束できるし、だからこそコミュニケーションを頼りにもする。
だいたい、原初の人類が二本の足で立ち上がったことが、すでに身体の「孤立性」を確保する行為だったのだ。そこから歴史がはじまっている。
身体の「孤立性」を持っていたから群れを離れて旅をするようになっていったし、身体の「孤立性」を持っていたからコミュニケーションの通じない旅人を受け入れることができた。
他の集団に受け入れてもらうことができたからこそ、人間のような身体能力のない猿でも旅をすることができた。
原初の人類は、サバンナを旅しなければ隣の集落に行けなかった。
女を交換するというかたちで、集落どうしの連携がはじまった。
すべては、「身体の孤立性」を自覚したところからはじまっている。人間の生態は、「身体の孤立性」の上に成り立っている。
原初の女たちが、成人したばかりの若い女を追い出そうとしたのも、その若い女がよその集落に行こうとしたのも、「身体の孤立性」ゆえのことだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・
   4・女の中のラディカルな「孤立性」に、男たちはもっと驚いてもよい
女を交換することは近親相姦のタブーからはじまっている、などとよくいわれるが、原始時代には一夫一婦制の家族などなかったのであり、しかしそれでも女は交換されていたのだ。
原始人が、近親相姦など意識するものか。それでも人間だけでなく他の動物だって、あまり近親相姦はしたがらない。それは一緒に育った異性に対してはあまりセックスアピールを感じないからだろう。
一緒に暮らせば、たがいの関係において「身体の孤立性」があいまいになる。だから、セックスアピールを感じない。生き物を発情させるのは、「身体の孤立性」である。身体が孤立してあることを意識することのいたたまれなさで生き物は発情している。
猿のメスの性器が腫れてきて欲情するとは、まあそういうことだ。その部分がむず痒くなっていたたまれなくなる。そうして異物をそこに入れて、その違和感によってむず痒さ=いたたまれなさを忘れようとする。
しかし、一緒に育った相手の性器は、あまり「異物」という感じがしない。
人間でいえば、「非日常=祭り」のときめきが感じられない。
べつに、近親相姦のタブーなんか関係ない。
近親相姦のタブーは、共同体の制度というか一夫一婦制の家族制度が発達して、外部の異物を(異民族や家族の外など)を排除しようとする意識が強くなってきたために起こってきたことだ。だから、王家や貴族では、伝統的に近親相姦が多い。
しかしそういう制度性を持たなかった原始人においては、異性の性器は異物であればあるほどよかった。もちろん、同じ人間という範疇においてだが。
人間は、セックスを「非日常性」の「祭り」としてイメージする。それほどに人間は、生きてある今ここの日常に倦んでいる。そうやって日常に倦んで意識がつねに非日常に向いてしまうから、一年中発情している生き物になった。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、意識が「非日常」に向いてゆく体験だった。直立二足歩行の開始とは、「非日常の発見」だったのだ。
そして原初の若い娘たちは、「非日常」としてのよその集落の暮らしやよその集落の男に思いを向けていった。
まあ現代においても、思春期の若い娘ほどラディカルに意識が「非日常」に向いている。そうやって「死=他界」に意識を向けてリストカットしてしまったりするのだし、彼女らが身にまとうそういう「非日常性」から「美少女伝説」なども生まれてくる。
そういう傾向はもう、たぶん、二本の足で立ち上がった原初の時代からはじまっていたのだ。
若い女たちが出ていこうとしたから、猿人の時代からすでに「女を交換する」という生態が生まれてきた。
それはべつに、女が男の支配下にあったということではぜんぜんない。女がそれを望んで男もそれを受け入れた、というだけの話である。
思春期の娘は、「身体の孤立性」がとても過激になってくる。思春期の娘でなくとも、おおむね、男よりも女の方がずっと深く「身体の孤立性」を抱えている。このことは、原初の歴史を考える上で、けっして小さくはない問題だと思えるのだが、多くの男の歴史家は、あまり本気で考えていない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ブログランキングに登録しています。見ず知らずの人にクリックしてもらえることは、ほんとにありがたいと思っています。知っている身内にクリックしてもらうよりもずっと感動的なことです。ネット社会は生身の人間と向き合っていないから空虚だという話をよく聞くけど、そういう空虚な一方通行の関係こそ人間的で、より大きく心を動かされることもある。そういう「外部性」の問題ですね。原初の娘たちだって、見ず知らずの人間ばかりのよその群れにお嫁に行っていたりしていたわけで、人間の「孤立性」ということを考えたら、ネット社会はたんなる空々しい虚構だともいえない。人間であることの「孤立性」の上にネット社会が成り立っているのでしょうか。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/