閑話休題・ショッピングモールの栄光

   1・郊外のショッピングモールはディズニーランドみたいだ
先日、17歳の女子高生が、ショッピングモールのトイレでお産した赤ん坊をフードコートの隅にこっそり置き去りにしてきた、という事件が起きている。見つけられたとき、赤ん坊はすでに死んでいた。
ショッピングモールは新しい公共空間だという人もいるが、これなどは、そこにたくさん人がいてもいかにひとりひとりの関係が疎遠な場所かということを物語っている。
いや、すぐに見つからなかったということではなく、その女子高生がそこに置き去りにしてくる気分になれた、ということが問題なのだ。そのとき彼女は、それほどに意識がその場の空間から離れてしまっていた。まるで自分が異星人になっているかのような気分だったのだろう。彼女にとってはもう、山奥の森の中に捨てるのと同じような感触だったのかもしれない。これが、ほんとうに「公共空間」なのか?
現在のこの国では、郊外のショッピングモールが大増殖しているのだとか。
売店舗が集合した大規模商業施設。買い物の便利だけでなく娯楽施設などもあって、まあちょっとしたディズニーランドみたいなところだ。
そこには大きな駐車場があって、広い地域からたくさんの人が車で集まってくる。
駅からは離れた閑散とした場所のバイパス沿いなどに建てられていることが多い。ここに人が集まってくれば、市街地の駅前の商店街などはどんどんさびれてゆく。
そこでは、建物の内部が街そのもののようになっている。
というわけで、この新しい消費施設を文化の破壊だと批判する知識人と、東浩紀氏をはじめとして「ここにこそ未来の希望がある」と肯定的にとらえている知識人と、意見が二分されているらしい。
これは車文化のアメリカから輸入された消費スタイルで、店内のつくりも、ほとんどアメリカのものと似ているのだとか。
デパートだって、小売店を呼び入れて、だんだんショッピングモール化してきている。
この勢いは、しばらく続くのだろう。お台場や羽田空港東京スカイツリーも、ショッピングモールとセットになって繁盛している。
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   2・買う気満々の人たち
ショッピングモールは消費意欲を刺激し、日本経済の活性化につながる、ということだろうか。
しかし僕は、日本経済が活性化することがどれほど重要な問題であるのか、よくわからない。ショッピングモールがあるとないとで、日本経済がそう大きく左右されるわけでもないだろう。みんながんばって経済活動をしているのだ。
ショッピングモールの景観の空虚な貧しさとか、そこでは客の財布を空っぽにしてしまうとか、そういう批判はこのさいどうでもいい。
今のところ、消費者は、ショッピングモールの出現によろこんでいるのだろう。
いつまでもよろこび続けるのなら、それが存続しつづけるのもしょうがないことだ。
問題は、ほんとうによろこび続けられるのだろうか、ということだ。
アメリカの地方都市では、休日にショッピングモールに買い物に行くことがひとつの娯楽になっているらしい。
日本人も、今はそんな気分の人が多いのだろうか。
ほんとにそれが楽しいのなら、それでいい。
日本人が試されている。
たしかに、駅前の商店街よりも効率よく充実した買い物ができる。
駅前の商店街に魅力がないのなら、さびれてゆくのは当然である。
まだまだこの国は豊かで、庶民は消費したがっている。つまらない駅前商店街で買い物をするよりも、設備や商品が充実したショッピングモールの方がいいに決まっている。
しかしそれでも、ショッピングモールは楽しいのか、という疑問は残る。
ショッピングモールはディズニーランドみたいなところで、ディズニー−ランドみたいなところは楽しいのか。
アメリカは、砂漠のような荒涼とした景観の広がる土地だから、その対比ととして、人工的にデコレートした景観を好むのかもしれない。そしてそこに入れば、都市住民になった気分が味わえる。
日本だって、そこには原宿や渋谷にあるのと同じ店があるわけで、原宿や渋谷を歩いているような気分になるのだろうか。
人々はそこに、都市住民の気分を味わいにくるのだろうか。
消費者になることは都市住民になることだ、という意識がある。
都市住民であることが、日本という社会の一員であることの証しである、という意識があるのだろうか。
知識人だって、都市を語ることが現代社会を語ることだ、というような傾向がある。
戦後社会において農村が崩壊し、日本人の誰もが、都市住民でありたいという願いや、都市住民であらねばという強迫観念を持つようになってきたのだろうか。
でも、先祖代々のほんとうの都市住民は、イオンのショッピングモールなんかによろこばないのである。
田舎者だから、都市住民であろうとする。田舎者ほど着飾って街を歩くことが好きである。
都市住民は、おしゃれなんかしない。どんなに高価で垢抜けた服を着ても、それは都市住民にとってのユニフォームなのである。
都市住民は、都市住民になろうとなんかしない。なぜなら、すでに都市住民だから。
ショッピングモールは、「都市的」であるがゆえに、都市の景観ではないのである。
お台場のショッピングモールに来てよろこんでいるのは、地方から出てきたものや中国人観光客ばかりである。
消費者になれば、都市住民になった気分を味わえる。消費者になれば、田舎者でも都市住民になれる。
金さえあれば、都市住民になれる……この意識が、戦後の高度成長を生みだした。消費者になることに、都市住民であることの内実など何もいらない。金さえあれば、都市住民よりもっと都市住民であることができる。
バイパス沿いのイオンのショッピングモールは、新しい時代の都市の景観でもなんでもなんでもない。田舎の景観そのものなのである。そこには、都市住民になりたがっている田舎者であふれかえっている。
ショッピングモールを称揚している知識人たちだって、田舎っぺである。彼らは、そこに行くと、妙にうきうきした気分になるのだとか。「私は消費者の立場に立って考え発言している」などというが、消費者であることが、そんなにえらいのか。誰もが消費者になることが、この国を救うのか。
彼らは、人々の消費行動をうながすことによってこの国の未来を展望しようとしている。それはまあ、都市住民になりたがっている田舎っぺの発想である。田舎っぺは、消費者であることが都市住民であることの証しだということに、どうしてもしておきたいらしい。そういうかたちでしか都市住民になれないから。
消費者であることは、都市住民であることの証しでもなんでもない。そんなことくらい、金さえあれば誰でもできる。
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   3・人間の自然とショッピングモール
都市住民とは、都市住民になろうとしないもののことだ。なぜなら、すでに都市住民であるから。
ビートルズジョージ・ハリスンザ・フーロジャー・ダルトリーは生粋のダウンタウンの街っ子であるが、有名になってからは郊外に住んで庭の土いじりやマスの養殖みたいなことをして暮らした。
それでも彼らの精神性というかセンスはずっと街っ子であり、街っ子だからそういう暮らしをしたがった。
田舎者でも都市住民でもどちらでもいいのだが、人それぞれの性根というものがあり、それにしたがって生きてゆくしかない。人の性根は、もう変わらない。なかなか変わるものではない。変に自分をつくろうとばかりして生きていると、心が混乱したり空虚になったりしてしまう。
そして、その性根のもうひとつ奥のところに、普遍的な人間性があり、これははみな同じだ。
日本人としての普遍性、人間としての普遍性、生き物としての普遍性……死を意識すれば誰もがそういうところに遡行していってしまうし、時代や世の中の中の流れも、けっきょくそういうところに落ち着いてゆくのだろう。
どんなに作為的に生きようとしても、性根は透けて見えている。
消費者になれば都市住民であることができるわけでもないし、都市住民になれば救われるというわけでもなかろう。
都市住民になろうとするその性根に問題がある。
たとえば、最近の凶悪で不可解な事件の多くは、大都市郊外の新興都市で起きている。いじめなどの学校崩壊も、そういう地域がいちばん過激である。そしてそれは、家族が崩壊している、ということでもある。
なぜ、新興都市は住みにくいのか。
誰もが性根は都市住民でもないのに、誰もが都市住民であろうとし、都市住民であらねばという強迫観念に追い立てられている。
東京近郊の新興都市は、つねに東京という大都市から照射され、そういう強迫観念が避けがたくふくらんでしまう。そこでは多くのものが東京との関係を持っている。会社とか学校とか遊び場とか、そういう場所が東京にあれば、どうしても都市住民であろうとする強迫観念から逃れられないし、どうしても都市住民になり切れない性根も思い知らされてしまう。
東京に行っても、けっきょくは新興都市の家に戻ってきて寝るのだ。本物の都市住民を知っているからこそ、そうではない自分とのギャップに落ち着かなくなってしまう。
その落ち着かなさは、イオンのショッピングモールで買い物をすれば癒されるか。
それはむしろ、落ち着かなさ(=強迫観念)を飼いならしてゆくことではないのか。そうやって学校が崩壊し、家族が崩壊し、やがては個人としての心も崩壊してゆく。
郊外の新興都市は、都市住民になろうとする強迫観念がいちばん過激にふくらんでしまう場所である。そうしていま、ショッピングモールとともに、その強迫観念が日本中に広がろうとしている。
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   4・ショッピングモールは、病める新興地の象徴である
都市を、「景観」というタームだけで語ろうとすること自体、想像力の貧困である。
都市には都市の歴史があるし、田舎には田舎の歴史がある。そしてその歴史において、いちばん大きな問題は、景観でも産物でもなく、人間そのものにある。それぞれの人と人の関係の歴史がある。その歴史の上に、それぞれの性根とかセンスというものが成り立っている。
ところが、都市近郊の新興地には、その「歴史」がない。都市住民にも田舎者にもなれない。まあ今の時代なら、誰もが都市住民になろうとしてなり切れない土地柄なのだ。そうして農村社会が崩壊の危機にあえいでいるこの国では、ほとんどの場所が、都市住民になりたがっているものたちの集まりとしての新興地になってしまっている。
そういう場所で、ディズニーランドや都市の街角みたいなショッピングモールが歓迎されている。
それは、「消費」という行為で都市住民であることを味わえる場所だ。そこは、都市住民のいない都市だ。都市住民になりたがっているものたちの消費都市。彼らは、都市住民でも田舎者でもない。戦後社会は、そういう地域とそういう人種を大量に生み出した。
それは、この国だけの現象ではない。現代のグローバル資本主義は、世界中にそういう地域とそういう人種を生みだした。
今や、ディズニーランドみたいなショッピングモールは世界中にある。とくに東アジアの新興国で急速に増えつつあるのだとか。そりゃあ、そうだろう。そこには、都市住民でも田舎者でもない人たちがあふれているのだから。
で、お台場や東京スカイツリー六本木ヒルズあたりなどの例もあるように、今や都市そのものがショッピングモール化しつつある、といわれたりもするのだが、それは、都市のまわりからやってきたものたちに消費によって都市住民になった気分を与えるための施設なのだ。
それは、都市住民のための施設ではない。都市住民は、都市住民であるために消費を必要としない。すでに都市住民だから。
言い換えれば、都市がショッピングモール化することによって、都市住民もまた消費によってしか都市住民になれない人種になりつつあるのだろうか。
ショッピングモールは、都市住民でも田舎者でもない人間たちの遊び場である。それは、都市の景観ではないし、都市の精神性やセンスを象徴しているのではない。
都市住民でも田舎者でもないことの不幸や受難は、ショッピングモールで果たして癒されるのだろうか。
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   5・「町」であること
ショッピングモールに吸い寄せられてしまうことの不幸というのはないのだろうか。
やはり、都市でも田舎でもない場所は「町」なる必要があるのだろう。
新興地の大型ショッピングモールは、都市のようだからやっかいなのだ。たとえば、そこのスーパーマーケットなどは、都市では見ることがができないほど立派である。
そうやって、かりそめに都市住民の気分になる。そうして自分たちの住むところは、いつまでたっても「町」になれない。固有の「町」の文化がつくれない。
文化のない街に住むと、気持ちがすさんでしまう。そうやって時々とんでもない凶悪事件が起きる。
清潔で快適で都市的なショッピングモールには、「町」の文化がない。
たとえば、駅前の商店街の裏の路地に気のきいた飲み屋とかはあるか。安くて美味いものを食わせたり、ちょいと色っぽくてやさしいママがいるとか、そういう店だ。そういう店があらわれてくるためには、町の歴史が必要だ。
町の色気のようなもの、そういうものががなければ、町に住んでいることの自覚やときめきは生まれてこない。ショッピングモールは、そういう自覚やときめきは与えてくれない。中途半端な町で暮らしていることの不満をいっとき忘れさせてくれるだけであり、ますます自覚がなくなってゆく。
人々が右往左往して暮らしていなければ、「町」の文化など生まれてこない。右往左往して暮らしているから、そのような路地裏の飲み屋に行きたくなる。
右往左往して暮らしている男が来なければ、ママだって色気も愛嬌も発揮しようがない。
右往左往して暮らしていなければ、人と人の会話も空疎化してくる。
もともと言葉とは、生きやすくなるための道具ではなく、生きにくいこの生をなだめるための道具として生まれてきたのだ。つまり言葉は、右往左往して暮らしていることをやりくりするための道具として育ってくる。そうやって主婦たちの井戸端会議に花が咲くのだし、若者たちの恋や友情が育つのだし、大人の男たちの酒場通いにも味が出てくる。
そのように人は、右往左往して暮らしながら文化を育てているのだ。
言葉は、人々の暮らしを快適にするためのたんなる「コミュニケーション」だけの道具ではない。人々が便利で快適に暮らすことばかり志向している町では、会話の文化も町の文化も育ってこない。そうして、都市に対するコンプレックスと都市のようであらねばという強迫観念がふくらんでゆくばかりである。
そんな町の若者たちはきっと、町を捨てて都市に住もうとするだろう。町の中で恋や友情が生まれなければ、そうなるに決まっている。
便利で快適なショッピングモールの存在は、言葉などの町の文化が生まれてくる芽を摘み取っている。そうして、人々の「都市住民であらねば」という強迫観念を肥大化させる。
清潔で快適な暮らしをしていると、人の心はすさんできたり衰弱したりしてくる。
右往左往して暮らしているところから、言葉や文化が育ってくる。
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   6・みんな右往左往して生きている
多摩ニュータウンをはじめとする現在の都市近郊の新興地の町では、若者がどんどん少なくなって空洞化してきているといわれる。清潔で快適な町づくりをしてきた結果、そうなったのだ。
同じ都市近郊の町でも、多摩ニュータウンは空洞化して、吉祥寺には若者があふれている。
吉祥寺には、ディズニーランドのような大型ショッピングモールはない。そんなものがなくてもすむ町になっている。なんのかのといっても、人々が「町」という意識を持って町づくりをしてきたからだろう。
吉祥寺には若者の恋や友情が育つ文化があるし、ちょいと色っぽくてやさしい下町酒場のママもいる。
吉祥寺だって、昭和の新興地だったのである。そこでみんなが右往左往して暮らしながら、町の文化を育ててきたのだ。
吉祥寺の住民には、都市住民であらねばという強迫観念はない。いまどきの空洞化する新興地の若者は、そういう強迫観念で町を出てゆくのだ。清潔で快適な暮らしに倦んで町を出てゆくのだ。路地裏酒場や井戸端会議の場をつくれなかったことのつけが、ここにきてあらわれている。
それは、言葉の文化が育つ空間がない、ということだ。
吉祥寺の場合、大学があったということも幸いしたのかもしれない。町の文化は、右往左往して生きている若者が育てる。
快適で健康的で清潔な暮らしから文化が生まれてくるのではない。生きてあることの暗さやしんどさをなだめる装置として文化が生まれてくる。どんなに快適で健康的に生きても、この生はそうした暗さやしんどさに引き戻されてしまう。そういう人間の自然としての生のいとなみから離れて町の文化なんか育たない。
どんなに快適で健康的に暮らしても、必ず人間の自然としての暗さから裏切られてしまう。
ショッピングモールは未来の都市の「景観(ランドスケープ)」だとはしゃぎまくっている知識人も多いのだが、日本中が都市になることなどできないのだ。
「歴史」があって、はじめて都市になる。
現在は、日本中に都市でも村でもない地域が広がりつつある。そういう地域に必要なのは、都市になることでも消費を活性化させることでもなく、「町」になることだ。そしてそういう「町」の文化は、快適で健康的な暮らしからではなく、みんなが右往左往して生きているところから生まれてくる。
彼らは、ショッピングモールこそ新しい公共空間だ、と主張するのだが、何いってるんだか、近所の主婦たちの井戸端会議や路地裏酒場の方が、よほど公共空間だ。
家族で車に乗ってショッピングモールにやってくれば、家族だけで行動することになる。それは、公共空間でもなんでもないだろう。行き交う人間の数だけは多いが、みんな家族だけで閉じている。そうやって隣近所の付き合いなんか、どんどんなくなってゆく。そうしていつも家族だけで行動していると、家族関係もどんどん煮詰まってきて、夫婦げんかや親子げんかも増えてくるし、やがて夫婦が離婚したり、子供が親と口を聞かないということも起きてくる。その家族には、公共空間がない。
夫婦喧嘩をしても別れないとか親子の関係が保てるということは、けっきょく言葉の文化の問題かもしれない。そういう言葉の文化は、井戸端会議や路地裏酒場で磨かれる。ショッピングモールにはない。
まあ、住民どうしのつながりが大切だという前に、みんなが右往左往して生きていれば、自然にそういう関係が生まれてくる。人間社会なんて、そういうもんじゃないの?
ショッピングモールがこの社会にすでに存在するということは、もうどうしようもないことで、仕方がない。しかし、意気がってそれを称揚する知識人たちの思考の薄っぺらさと田舎臭さは、やっぱりどうにかならないものかと思う。
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