隠されてあるものの発見の起源・漂泊論71

隠されてあるものの発見の起源*1346296591*[漂泊論]71
   1・服の下には裸が隠されている
夏が終わろうとしている。
秋が近づいてきている。
われわれはこの残暑の中にそうした気配が隠されているのを感じる。
隠されているものを感じるのが、人の心である。
人が着ている服の下には、裸が隠されている。
では、その下の裸を想像することが人の心かというと、そういうことではない。
服を着ていれば、その下の裸はわからない。そんなことは、服を脱いで、はじめてわかる。
それでも、「裸が隠されている」ということはわかる。
服を着ているということは、裸が隠されている、ということだ。
その服の美しさは、「裸が隠されている」ということの上に成り立っている。
その下の裸がどんなものかということが大事なのではない。
「裸が隠されている」ということ、すなわち「隠されている」というそのことが大事なのだ。
その服装をおしゃれだなあと思うとき、われわれはべつに、その下の裸を想像してときめいているのではない。
しかし、その下に裸のない服装なんかおしゃれでもなんでもない。
その「裸が隠されてある」という気配そのものにおしゃれが宿っている。だから、服そのものだけでなく、「着こなし」のおしゃれとか野暮を感じる。着こなしとは、「裸が隠されてある」という気配のことだ。
それは、裸を想像させることであって、想像させることではない。裸を想像させないことであって、想像させないことではない。
「隠されてある」というそのことに美がある。
何が隠されてあるかということ以前に、「隠されてある」というそのことに対する心の動きを人間は持っている。
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   2・隠されてあることに気づく
すべてのものに、何かが隠されてある。
「隠されてある」と気付くのが人の心である。
日本列島の古代人は、このことを「かみ=神」といった。
この心の動きは、日本的であると同時に、普遍的な人間性の基礎でもある。
人の姿には、心が隠されてある。
どんな心が隠されてあるのかがわかることによってときめくのではない。心が隠されてあるというそのことにときめく。
美人は得である。美人であることそれ自体が、心が隠されてある気配を持っている。
ブスでしかもすぐ感情を顔に出す女は、あまり魅力的だとはいえない。
しかしたとえ美人でも、一緒に暮らせばその心がなんとなくわかるような気がしてくる。そうして男は、飽きてくる。
心がない人間なんか、魅力的じゃない。でも、心がわかったからといって、ときめくわけではない。わかれば相手を支配するのに都合がいいが、ときめきはしない。
心が隠されてあるというその気配が魅力になる。
その姿の奥に胸がはちきれそうな思いが隠されている、という気配は魅力的だが、そんな思いを表面に出して押し付けてこられたら、「やめてくれよ」ということになる。
ともあれ人間は、誰の心の奥にも「生きてあることの嘆き」が隠れている。どんなにお気楽な顔をして生きていようとも、誰もが心の奥にそんな「嘆き」を抱え込んでいる。
人の心なんかわからないし、さらにその奥の無意識なんかなおわからない。
それでも、人の心の奥には何かが隠されてある、と誰もが思っている。それは、自分でも自分の心の奥はのぞけないからだ。それでも、何かが隠されてある、と思う。
だから、「無意識」という言葉がこの世に存在している。
ともあれ、人が人にときめくとき、その姿の奥に心が隠されてあることを感じている。
人の心なんかわからないし見えないのに、それでも誰もが「人間は心を持っている」と信じている。
心とはまさに「隠されてあるもの」である。
人間は、「隠されてあるもの」に対する意識が発達している。「隠されてある」というそのことに感動する。というかまあ、そのことに怒ったり悔しがったり悲しんだり苛立ったりもするのだから、「隠されてある」というそのことに大きく心が動く、というべきだろうか。
学問の探求だって、ひとまず「隠されてあるもの」の探求といえるだろう。
しかし、あらかじめ答えが用意してあって、それに向かうとかわかるということではない。そんなことは、たんなる「お勉強」である。
まずは、何かが「隠されてある」、と気づかなければならない。
気づいたところからから探求がはじまる。
気づかなければ、問題など存在しないと思って通り過ぎるだけである。
たぶん、本格的な研究者になれるかなれないかは、この「隠されてある」ということに気づくセンスがあるかないかの問題なのだろう。それはきっと、お勉強の能力とはまた別のことだ。
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   3・隠されてあるものの発見(起源)
人間は、この「隠されてあるもの」に対する意識を、いつどこで持ったのだろうか。
文化・文明の進歩は、この意識から生まれてきた。
二つの違う形質の石を両手に持って、その石と石をぶつけてみる。ぶつけたらどうなるのだろう?と思う。そうやって何かが「隠されてある」ことに気づく。
ぶつけてみたら、片方の石が欠けて尖ったかたちになった。これが、「石器の発明」である。
べつに答えを知っていたのではない。「どうなるのだろう?」と思っただけであり、何か知らない現象が隠されてあるのではないか、と思っただけである。
原初の人類が、過密状態の群れの中で他者の身体から押されるようにして二本の足で立ち上がっていったとき、四足歩行のときよりも体をぶつけ合わないで行動できることに気づいた。そうしてそれを習慣化してゆくうちに、新しい世界の見え方とか、新しい他者との関係とか、さまざまなことに気づいていった。
それは、隠されていたものに気づく体験だったにちがいない。
そうして、自分たちはもう猿ではない、と無意識のところで自覚したかもしれない。これだって、隠されていたものに気づく体験である。
原初の人類は、サバンナをはさんだ向こうの森の中には自分たちの仲間が棲んでいる、と思った。それは、もともとひとつの森のひとつの群れだったのだが、地球気候の乾燥寒冷化によってサバンナに浸食されて森も群れも二つに分断してしまったのだった。
これもまた、「隠されてあるもの」に対する意識である。
そのようにして、人類は「隠されてあるもの」に対する意識を発達させてきた。
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   4・新しいもの
「新しいもの」は、いまここの中に隠されてある。「隠されてあるもの」が「新しいもの」である。
やまとことばでは、「新しいもの」のことを「初(はつ)もの」という。
「初(はつ)」は「果(は)つ」でもある。遠くに消えてゆくこと。そのようにして、「隠されてあるもの」も「はつ」という。
「初(はつ)もの」の梨は、夏の向こうに隠されてある秋の気配である。
人間は、そういう「初(はつ)もの」が好きである。
原初の、サバンナを横切って向こうの森からやってきた女だって、まあ「初(はつ)もの」であり、向こうの森に「隠されてあるもの」だった。
人間が「隠されてあるもの」に思いを馳せる生き物であるかぎり、「新しい時代」は、いまここの延長としてやってくるのではなく、いまここの向こうに「隠されてあるもの」があらわれ出る事態としてやってくるはずである。
前回の話の続きになるが、現在のショッピングモールによって新しい時代がつくられるのではなく、このブームの向こうに隠されてある人々の心の動きから、新しい時代のムーブメントが起きてくるのだろう。
ショッピングモール礼讃者たちは、そのような「隠されたもの」に対する視線がなさすぎる。それは「疑う」という知性を持っていないということである。「疑う」とは、何かが隠されてあることに気づき、驚き震えながら「なぜ?」と問うことである。
ようするに彼らは、自分たちの田舎っぺ根性に居直っているだけなんだけどさ。都会的であらねば、という強迫観念に凝り固まっている田舎っぺが、すでに「未来」がわかったつもりでいやがる。
「未来=新しいもの」は、「いまここ」の向こうに「隠されてある」のだ。
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