「漂泊論」・48・キャッチボールの恍惚

   1・それは、コミュニケーションじゃない
多くの人は、キャッチボールの醍醐味の本質は、相手のことがわかり自分のことをわかってもらう「コミュニケーション」にある、と思っているらしい。
そうじゃないのだ。そんな関係は、たがいの自己愛や権力欲をまさぐり合っているだけのことにすぎない。
コミュニケーションとは、「わかり合う」といいながら、じつはたがいに支配し合う関係になることだ。
いったん私の手から離れて空間に向かってボールが放たれれば、それを受け取る義務が相手に発生する。相手が受け止めてくれてうれしい、ということは、そういう権力を行使していることのよろこびでもある。
しかし実際にキャッチボールをしているものたちにとって相手がボールを受け止めることは当たり前のことで、そんなことにこだわってなどいない。ただもう、空間を行き交うボールにときめいている。
純粋にキャッチボールをたのしんでいるときは、相手が暴投してもあんがい腹が立たないものである。夢中になってそのボールに飛びつこうとする。
キャッチボールの恍惚は、ただもうイノセントに空間を行き交うボールにときめいてゆくことにある。
内田樹先生は、キャッチボールにはコミュニケーションの本質があるといっているのだが、おまえら、なんにもわかっていない。これだから鈍くさい運動オンチや、権力の好きな人間のいうことは、嘘くさくいやらしいのだ。
キャッチボールの恍惚(カタルシス)は、二人のあいだの「空間」をボールが行き来することにある。それ以上でも以下でも以外でもない。それだけのことさ。しかし、それだけのことに夢中になれるイノセントこそもっとも人間的な心の動きであり、そのイノセントをもたらしてくれることにキャッチボールの値打ちがある。
キャッチボールはコミュニケーションである、だなんて、キャッチボールの恍惚(カタルシス)を知らないやつらの言い草なのだ。
そのときわれわれは、ひたすら、たがいの身体のあいだの「空間」を行き来するボールと対話している。そうやって「相手と自分を成り立たせる場」としての「空間=すきま」を共有している。
人と人の関係のカタルシスは、「わかり合う」ことにあるのではない。たがいに向き合って存在しているという「場=空間」に対するときめきを共有してゆくことにある。
それは、相手の心がわかることでも、相手の心に干渉してゆくことでもない。現代社会はそういう「コミュニケーション」の上に成り立っているのだろうが、その非人間的な生々しさが「支配=権力」の関係を生み、人の心を危うくさせている。
自分で自分を支配しながら他者の心も支配していれば、その人の世界はひとまず調和を保っていられるのだろうが、他者の心を支配すことができなくなれば、まるごと自分で自分を支配するという袋小路に閉じ込められてしまう。つまり、悪魔に支配されてしまう。
そうして、この世の他者がすべて自分を支配しようとしている存在に思えてくる。
支配し支配される関係とは、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」を失っている関係である。二本の足で立っている猿である人間は、そういう馴れ馴れしさに耐えられない。
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   2・もっと他愛ないイノセントがはたらいている
キャッチボールはコミュニケーションのよろこびである、などといっても、おたがいの自己愛をまさぐり合っているだけである。
相手の投げたボールが自分のグローブに吸い込まれたときのバシッという音の手ごたえに醍醐味があるとか、内田樹先生なんかもそんなことをいっているのだが、やめてくれよ、と思う。おまえら、そうやって自己愛と権力欲をまさぐり合っているだけじゃないか。
そんなことがよろこびであるのなら、相手を選ばなければならない。下手な相手とはやっていられなくなる。
そうやって、キャッチボール共同体をつくりたいのか。
そうやって相手の力量を探り合うことが、そんなに楽しいのか。コミュニケーションとは、相手を値踏みし合うことか。現代社会には、相手にときめく心を失って相手を値踏みすることばかりしている人間がたくさんいる。「わかり合う」とは、ときめく心を失って値踏みし合うことなのか。そういうことばかりしていれば、この社会でうまく立ち回れるが、うまく立ち回っているほどには相手から魅力的な人間だとときめかれてはいない。
人と人がときめき合う関係の根源的なかたちは、コミュニケーションにあるのではない。
キャッチボールの名人は、相手の力量なんか値踏みしない。たがいの投げたボールが行き交う「空間」と対話しているだけである。
相手が下手くそなら、ゆっくり投げてやらなければならない。そのためには、相手よりも高いところにゆっくり放り上げてちょうど胸のところに落ちてくるようにあんばいしてやらなければならない。遠く離れてキャッチボールするときだって同じだ。「空間」に向かって放り投げなければ相手のところまで届かない。キャッチボールの名人は、そういう「空間」と対話するセンスを持っている。
キャッチボールの恍惚は、「空間」と対話することにある。
相手は、そこに存在していてくれるだけでいい。値踏みなんかしない。それは、「わかり合う」というコミュニケーションではない。そのとき、相手がそこに存在しているというそのことにときめいている。
言葉を交わし合うことだって同じだ。それは、たがいにたがいの身体のあいだの「空間=すきま」に向かって言葉を投げ入れ合うことにほかならない。
人と人は、コミュニケーションの不可能性においてときめき合っている。コミュニケーションによってわかり合い相手を値踏みし合うことによってではない。人をすぐそのような目で見たがる人間は、付き合い上手のわりには好かれていない。
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   3・「わかり合う」ことと「ときめき合う」こと
コミュニケーションなんて、たがいの自己愛をまさぐり合っているだけの行為だ。
人と人の関係の根源的なかたちは、そんなものではないだろう。
かくれんぼにしろトランプゲームにしろ、遊びは、コミュニケーションを解体したところでなされている。
自分の居場所を教えたら、かくれんぼにならない。
自分のカードの手の内を教えたら、トランプゲームにならない。
遊びは、コミュニケーション不能になることの上に成り立っている。
そしてそのとき人は、それでもたがいのコミュニケーション不能の「わからない」という「空間」をはさんで向き合い、ときめき合っている。
コミュニケーションが成り立たないからこそ、ときめき合うことができる。
キャッチボールをする人は、たがいに相手を吟味することを忘れて、純粋にボールが行き交う「空間」にときめき合っている。
現代人は、そういうイノセントを失って、「わかり合う=コミュニケーション」の論理で人と人の関係の問題を解決しようとしている。
つまり「愛されている」という自覚を与え合うことが人と人の関係の根源のかたちだと思っているのだが、そんなことはたがいの自己愛をまさぐり合っていることであり、「愛し合っている」ことではないのである。
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   4・空間意識の目覚め
「わかり合う」ことと「ときめき合う」ことは違う。
「愛されている」と自覚することによって自己を確認する……これが赤ん坊の自我の目覚めであり人間性の目覚めである、と心理学者はいう。
しかしそんなものはたんなる自己愛の目覚めであって、厳密な意味での自我=自意識ではない。それに、実際問題として、赤ん坊はそんなことに目覚めるのではなく、しだいに体が動くようになってきたことによって、みずからの身体の物性から解放されて世界にときめいてゆく心を獲得しはじめるのだ。
お母さんに愛されていることに気づくのではいし、気づいたからといってそんなことが赤ん坊に解放をもたらすわけではない。
そのとき赤ん坊が体験している「ときめき」は、お母さんに愛されているという自覚によってもたらされているのではない。おたがい、勝手にときめいているだけだ。
そうして赤ん坊は何よりも、ただもう体が動くようになってきて、この世界の「空間」と関係してゆけるようになってきたことにときめいているのだ。
発達心理学は、コミュニケーションの自我に目覚めてゆくことにあるのではない。その心の成長は、体が動くようになってゆくことのよろこびとともにある。そんなこと、あたりまえじゃないか。そしてそれは、「空間感覚」が成長することにある。そうやって赤ん坊の心は、少しずつ少しずつ開放されてゆく。
親にとっては、赤ん坊が歩けるようになることはとても待ち遠しいことかもしれないが、赤ん坊にとっても、そこにいたるまでの艱難辛苦の歴史がある。そういうことを思いやることができなくて、コミュニケーションの自我に目覚めてゆくことが赤ん坊の成長だなんて、そんなへりくつは、おまえら大人の側の自己満足をまさぐっているだけのことなんだよ。
赤ん坊の心は、心理学者が考えているよりもはるかにイノセントで苦労に満ちているのだ。
お母さんに愛されているかどうかということなど赤ん坊にわかるはずがないし、そんなことが赤ん坊の関心でもない。
鬼のような母親からでも清らかな子供が育つこともあるし、手とり足とりやさしいお母さんからぞっとするような冷たくニヒルな子供が育つこともある。
お父さんとキャッチボールをして、お父さんは僕が受けやすいようなボールを投げてくれているのに気づき、お父さんのやさしさがわかってうれしかった、てか?君は、そんなこまっしゃくれたことばかり考えているから、キャッチボールがうまくなれないのだ。
内田先生のような自己愛のつよい人間は、すぐこんな思い出話を語ってかっこつけてくる。そのさかしらな心こそ、あなたの運動神経や思考や感受性の限界なのだ。
そんなことよりも、純粋に空間を行き交うボールにときめいてゆけ。キャッチボールはそういう子供が上達するのであり、そこから世界や他者にときめく心が育ってゆくのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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