関係が深まる・ネアンデルタール人論79

 人は、生きてあるのはどういうことかと考えようとし、考えるまいともしながら生きている。とりあえずお金や幸せがあれば、考えなくてもすむ。
 この場合の「考えない」というのは、「わからない」ということではなく、「すでにわかっているつもりになる」ということ。お金や幸せがあろうとお金や幸せを欲しがっているだけだろうと同じことで、そういう人たちほど生きてあることの何かをわかっているつもりの言い方をしたがる。彼らは、生きてあることの何かを考えるまいとしている。お金や幸せがあれば考えなくてもすむし、考えなくてもすでにわかっているつもりになれる。
「考える」とは「それは何か」と問うことであって、わかったつもりになることではない。ひとつのことがわかれば、そこから三つのわからないことが生まれてくる。われわれはもう死ぬまで問い続けてゆくしかない。わからなさの中で身もだえすることが「考える」ということで、その果てに「気づく=ときめく」というカタルシスが体験される。
 生き延びる能力があるということは、生きるとは何かと問わないでもすむ、ということだ。人はそうやって知性や感性が鈍磨してゆく。
 この生が生きられるようにできているのなら、この生とは何か、と問う必要などない、そうやってお金や幸せを持っている人やお金や幸せを目指している人は、その答えをすでに見つけたつもりになっている。
 とはいえそれでもこの生とは何かと問わずにいられないのが人のつねで、問わないのは怖くて問うことができないからであり、わかっているつもりになるのは、そうやって怖くて問うことができない自分を正当化しているにすぎない。
 人は、生きられない生を生きている。そこから人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。生きられる生を生きているつもりになることによって知性や感性が鈍磨してくる。
 生きられない生だからこそ、目の前の「今ここ」の世界や他者に心の焦点が結ばれ、ときめいてゆきもする。
 生きられない生を生きているからこそ、この生とは何かと問わずにいられなくなる。
「生きられない」、すなわち「わからない」ということ。知性とは「わからない」ことと向き合うことができる心の動きであって、わかったつもりになれる抜け目のなさのことではない。その抜け目のなさでお勉強の偏差値を上げることはできるが、それがほんとうの知性だともいえない。そうやって偏差値の高い学者の世界でも一流と二流の差があらわれてきたりする。
 まあ学者の世界などどうでもいいが、それが人間性の自然の問題でもある。
 この世の中には、「生きるとは何か」と問える人と問えない人がいる。問えない人はそれがわかっていないのではなく、わかっているつもりになっている。わかっているという前提でしかものを考えない。
 より深く豊かに問うている人ほど「わからない」という問題を深くたくさん抱えている。すなわち「生きられない生」を生きている。


 戦後のこの国は、この生のことがわかっているつもりの人が増えて、知性が衰退してきた。彼らは、「この生とは何か」と問うことができない。まあ、何もかも自分で勝手に決めつけてわかったつもりになって問うということをしてこなかったから、つまり手探りで問うて気づきときめいてゆくという体験をしてこなかったから、認知症鬱病やインポテンツになってしまう。
 その「問う=気づく」という体験は、何も偉い学者の世界だけの問題ではなく、人間性の自然の問題にほかならない。それはもう、ちんちんが勃起するかどうかとか、人や世界にときめくことができるかどうかとか、さらには人にときめかれる人間的な魅力を持っているかどうかというような問題でもあるのだ。
 人が人間性の自然としてそなえているのは、生きられる能力ではなく、生きられなさ(=わからなさ)に身を置きながらこの生とは何かと問うてゆくことができる能力なのだ。そのときめきが、高度な知性や感性になってゆくし、人と人の関係が深まる契機にもなる。
 ちんちんが勃起するとは、この生とは何かと問いながら心が華やぎときめいてゆく体験なのだ。人は、生きられないことのくるおしさとともに感動しており、だからそのとき鳥肌が立ったりする。そのとき身体は、生命の危機に遭遇している。ちんちんが勃起することだって、大げさにいえばそういうことになる。
 この生のことがわかっているつもりになってこの生とは何かと問うことができない人から順番に認知症やインポテンツになってゆく。断わっておくが、これはあくまで心の問題としての範疇のことで、体質とかのややこしい問題についてはひとまず除外している。そんなことを語れる知識も教養も僕にはない。ただ、生き延びる能力や幸せを自慢しながら他人の生きることにぶざまで無能であることをさげすんでも、あなたたちの知性や人間的な魅力だってべつに感心するほどのものでもなんでもない、あなたたちこそ認知症やインポテンツの予備軍だ、といいたいだけです。
 生きることにぶざまで無能であることは、この生とは何かと問い続けていることであり、人はそこでこそ「気づく=ときめく」という体験をする。
 人は、存在そのものにおいて、すでに生きることにぶざまで無能なのだ。だから、この生とは何かと問う。人間的な知性や感性が生きることに有能なものたちにあると思うのは、ただの幻想にすぎない。彼らには「わからない」という不幸を生きる知性や感性が欠落している。今どきの人生論や人間論は、すでにわかっているつもりの彼らの言説にリードされているが、彼らは「わからない=生きられない」場面に遭遇すると、とたんに思考が停止(フリーズ)してしまう。つねに「すでにわかっている」つもりになって生きているから自信たっぷりに人生論や人間論を語ることができるが、「わからない=生きられない」場面に立って「何か?」と問いながら気づいてゆく知性や感性のはたらきにおいては限界を抱えている。


不幸を克服することが偉いんじゃない。彼らはそうやって自慢話を垂れ流しているが、不幸を克服した瞬間から思考は停止する。そうやってこの生の何かがわかっているつもりになってゆき、偉そうなことをいう。しかし「わからない=生きられない」不幸それ自体を生きることができるのが知性や感性のはたらきであり、人の心は根源=無意識においては死と生の境目に立ってはたらいている。彼らは、そういう無意識を生きるタッチを失っている。そういう「他愛なさ」を。
「わかっているつもり」のものたちは、この世界や他者を「裁く=値踏みする」ことばかりして、他愛なくその存在そのものにときめいてゆくことができない。ときめくことは、問うことだ。
 他者のことが分かったつもりになって「裁く=値踏みする」ことが、そんなに立派なことか?そうやって「わかり合う」ことが人と人のほんらいの関係なのか?尊敬しようと褒めちぎろうと、それ自体が「裁く=値踏みする」態度であり、その裏返しで他者をさげすみもする。
 他者が正義の人だろうと悪人だろうと、聡明だろうと愚鈍だろうと、それ以前に人は、他者の存在そのものに他愛なくときめいてゆく心模様をどこかしらに持っている。
 世界や他者は、存在それ自体において輝いている。その感慨が心のどこかしらにあって、われわれを生かしている。いたたまれない生きられない生なのに、それでもそのいたたまれなさの向こうから世界や他者が輝いて立ちあらわれる。
 世界や他者の輝きは、生きてあることのいたたまれなさの中に身を置いているものがもっとも深く豊かに体験している。誰だって、心のどこかしらに生きてあることのいたたまれなさを抱えている。そしてだからこそ、誰だって、心のどこかしらでこの世界や目の前の他者の輝きを体験している。心は、そのいたたまれなさを契機にして華やぎときめいてゆく。


人は、他者のことが「わかる」ことによってときめいてゆくのではない。他者のことがわかっているつもりの他者を裁き値踏みしているものがもっとも他者にときめいているのではない。
「尊敬する」といったって、そうやって他者を値踏みしているだけの場合も多い。他者をさげすむ傾向の強いものほど、他者を尊敬してこびへつらい、まねばかりしていたりもする。
「学ぶ=まなぶ」とは「まねぶ」であり、まねることである……などとよくいわれるが、これはどうしようもない安直な言葉遊びの俗言であり、人間性の真実でもなんでもない。「学ぶ」とは「気づく」ことであり、自分の知性や感性で咀嚼してゆくことだ。
 学ぶものに知性や感性がなければ学ぶことなんかできないし、学ぶことができるものは教えなくても勝手に学んでゆく。だから昔の職人は弟子に教えることなんかしなかったし、それでも見込みのある弟子はそばにいるだけで勝手に学んでゆき、ときに師匠を超えていった。そしてそれは、じつは昔の職人の世界だけのことではなく、現代の一流の学問の研究室だって同じで、教授は、見込みのある弟子ほどほったらかしにし、まねる能力しかない弟子だけに手とり足とり教えている。
 人と人の関係の本質・自然は、「ほったらかしにする」ことにある。ほったらかしにし合いながらときめき合っている。束縛されたら息苦しくなるのは、ほったらかしにし合うことが自然の存在だからだ。
原初の人類は、密集しすぎた集団の中に置かれ、その、体と体がくっつき合うことの鬱陶しさから逃れるようにして二本の足で立ち上がっていった。それは、他者の身体とのあいだに離れた「空間=すきま」をつくり合い、離れながら向き合いときめき合うという体験だった。人と人は離れようとし、離れながらときめき合っている。
原始人は、離れようとする本性にせかされながら、地空の隅々まで拡散していった。そして「離れながらときめき合っている」存在だから、新しい土地で出会った見知らぬものどうしがときめき合って新しい集団をつくっていった。見知らぬものどうしとはつまり、離れ離れの関係にあるものどうしということであり、人と人はそこにおいてこそもっとも深く豊かにときめき合っている。人の性衝動は、近親関係においてもっとも深く豊かに起こるのではない。若者は、家族の外に出てゆくことによって性衝動に目覚め、友情に目覚める。見知らぬものどうしが出会ってときめき合ってゆくことこそ、人の性衝動の根源・自然のかたちである。
人と人は、根源・自然において、ほったらかしにし合いながらというか離れ離れになりながらときめき合っている。それが人と人の関係の基礎であり、究極のかたちでもある。そうやってほったらかしにする師匠と弟子の関係が生まれてきたのだし、そうやって人はもっとも遠いところに行ってしまった死者の尊厳を思い、死者を弔う。遠距離恋愛は最終的にうまくいかないことが多いが、そのせつないときめきもまた貴重で味わい深いものであったりする。はぐれて離れてしまうのも人の自然だが、はぐれて離れながらときめき合ってゆくのもまた人の自然なのだ。
 伝達・説得することによって人と人の関係が深まるのではない。そうやって人と人がときめき合ってゆくのではない。
 もっとも深い関係にある師匠と弟子のあいだには、「伝達・説得」の関係などない。ただもう他愛なくときめき合っているだけであり、師匠は弟子の才能に気づき、弟子もまた勝手に師匠の人格や技術に気づいてゆくことができているだけです。そしてこれは、男女の関係や親子の関係でも同じであり、そこにこそ人と人の関係の基礎と究極がある。何も伝達・説得しない、ただもう勝手に気づきときめき合っていることに人と人の関係の基礎と究極のかたちがある。


学ぶことはときめくことで、ときめくことは教えられて(伝達されて)「わかる」ことではなく、みずからの知性と感性で勝手に「気づく」ことです。みずからの全人格を懸けて気づいてゆくことを「学ぶ」というのであって、「まねる」ことではない。
 知性や感性とは、「わかる」ことではなく、「気づく」こと。
 人と人の関係の本質・自然は、「わかり合う」ことにあるのではなく、「気づき合う」ことにある。
 ときめき合うとは、「わかり合う」ことではなく、「気づき合う」こと。人と人の関係は、「わかり合う」ことによってではなく「気づき合う」ことによってより深く豊かになってゆく。
人と人の関係は、「気づき合う=ときめき合う」ことによって深く豊かになってゆくのであって、「わかり合う」ことによってではない。
「わかる」ことなんか、基本的本質的には他者を値踏みし裁いていることにすぎない。
 そこでまた言葉の起源の問題に戻るのだが、言葉は人と人がときめき合う道具として生まれ育ってきたのであって、わかり合い値踏みし合い裁き合う道具としてではない。したがって言葉の本質的な機能が「伝達する」ことにあるなんて、論理的にありえない。
 日本列島の古代人が「大和はことだまの咲きはふ国」といったのは、言葉は人とと人がときめき合う道具である、という認識をあらわしているのであって、「ことだま=言葉の霊魂」という意味など何もなかった。もともと「ことだま」とは、「言葉によって人と人がときめき合う体験」という意味というかニュアンスだったのです。それが、共同体の制度性の発展強化とともに、言葉が伝達し合い値踏みし合い裁き合うことが第一義の機能の道具に変質してゆき、それとともに「ことだま=言葉の霊魂」という意味に変質していった。
 まあ、いまどきの古代文学ややまとことばの研究者のほとんども、「ことだま=言葉の霊魂」だと決めてかかっていますよ。それは彼らが現代人で、言葉の本質が伝達し合い値踏みし合い裁き合うことにあると認識するところで思考停止してしまっているからです。しかしそれは、古代人や原始人の言葉の扱い方ではなかった。古代人や原始人は、言葉を、あくまで人と人が気付き合いときめき合うための道具として扱っていた。
言葉の機能の根源と究極は、人と人が「気づき合う=ときめき合う」ことにある。


「わかる」ことなんか、たいしたことじゃない。「わかっているつもり」のえらそうなことをいわれても、尊敬する必要なんか何もない。「わかっているつもり」になることそれ自体が、思考停止の状態なのだ。「わかっているつもり」になって勝手に他者を「裁く=値踏みする」ことによって他者との関係は深まるか?
他者のことなど何もわからない。そのつどその場のその表情や声や言葉から気づいてゆくしかない。その知性や感性は「わからない=生きられない」場に立っていることの「問い=ときめき」とともにあり、そこでこそ人と人の関係は深まるのだ。
 猿よりも弱い猿として歴史を歩みはじめた人類が生き残ってこられたのは、個体としての生き延びる能力が進化発展してきたからではない。人類の身体能力は、むしろ今なお退化し続けている。それでも生き残ってこられたのは、「他者を生かす」という人と人の関係が深まり進化発展してきたからだ。つまり。他者にときめきながら他者の「感慨のあや」に気づいてゆくという人間的な関係性が深まっていったからだ。
 人と人の関係は、自分の気持ちを伝えることによってではなく、たがいに他者の気持ちに気づいてゆくことによって深まってゆく。起源としての言葉は、自分の気持ちを伝えるための道具だったのではなく、他者の気持ちに気づいてゆく体験とともに生まれ育ってきた。
 言葉を発しようとしたのではない。それは、思わず発してしまう音声だった。そしてその音声が気持ち(=感慨のあや)を表出する言葉であることに気づいていったのが言葉の起源だ。その音声を発するものも聞くものも、ともに「聞くもの」になってその音声に感慨のあやがこめられていることに気づき、その感慨のあやを共有していった。
 言葉は「聞く=気づく」という受動的な体験から生まれてきたのであって、伝達しようとする能動的な意図=欲望から生まれてきたのではない。
人は、根源・自然において、伝達しようとする意図=欲望を持っていない。持っていないのが、たがいの身体のあいだに離れた「空間=すきま」をつくろうとする二本の足で立つという姿勢の基本的なコンセプトなのだ。
伝達する=くっつくことの不可能性こそ人と人の関係の基本であり、そこでこそ人と人はときめき合っているのだ。
くっついてしまうなんて、鬱陶しいばかりではないか。


 たとえば、女(あるいは男)に泣いてすがりつかれるなんて鬱陶しくてたまらないことだが、その「捨てないでくれ」と伝達・説得してゆく「共生関係」や「緊張関係」が、人と人のもっとも深く豊かな関係だといえるだろうか。
 それはくっつき過ぎた関係であり、それを嫌って原初の人類は二本の足で立ち上がった。生きものの集団において身体がくっつき合うことはひとつの危機的な状態であり、集団ヒステリーを起こす原因になる。だから彼らは、二本の足で立ち上がってたがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくり合いながらその危機から解放されていった。ただそれは、そうやって危機から解放される姿勢であると同時に、その不安定で危険極まりない姿勢になることによって猿としての身体能力を失うという、危機それ自体を生きることでもあった。つまり、集団や人と人の関係としては危機からの解放だったが、個体としては生命の危機を背負い込んでしまうことだった。そのときから人類は、そういうややこしい存在の仕方をするようになっていった。
たとえば人と人が抱きしめ合うことは個体としての危機的な状態であり、だからセックスのときに女は、今にも死んでしまいそうな悲劇的な声を上げる。人類にとって個体としての身体の危機は、そのままひとつのカタルシス(快楽)になる。そうやって人は、集団や他者の生贄になろうとする衝動を持つ存在になっていった。女が子供を産むことは、赤ん坊という他者の生贄になって生命の危機を生きる体験であり、それはそのままセックスのカタルシス(快楽)でもある。原初の人類が二本の足で立ち上がったことはそういうカタルシス(快楽)を汲み上げる体験だったのであり、そうやって人類は一年中発情している存在になっていった。
 セックスの快楽は、他者の生贄になって死んでゆくことにある。女はそういうことを本能的無意識的に知っている。
人と人の関係が深まるというこということは、根源的には、たがいに他者の生贄になって死んでゆくことにある。原初の人類はそうやって二本の足で立ち上がったのであり、それが人間性の本能=自然なのだ。いや、ほかの動物だって基本的にはそうやって子育てしているわけで、それはもう生きものとしての本能=自然だともいえるのかもしれない。
 くっつき過ぎた関係になれば身体の動きがままならない生きものとしての危機的な状態に陥るわけで、そこからの解放はもう、自分が死ぬか相手が死ぬかしかない。猿はそうやって余分な個体を群れから追放しているのだが、二本の足で立ち上がって猿から分かたれた人類は、たがいに自分が生贄になって死んでゆこうとすることによってそこからの解放を果たしていった。
 四足歩行の猿が二足歩行を常態にしてゆくことがどれほどありえない奇跡的なことかということは、もっと検討されてもよい。現在の地球上にはたくさんの猿がいて、猿ならたいてい二本の足で立って歩くことができるのに、その姿勢を常態にしていったのは今のところ人類だけです。それは、「手を使うため」とか、そんなことではない。猿だって、必要なときは前足を手のように使っている。そんなことは必要なときにそうすればいいだけのことで、二本の足で立つことを常態にする理由にはならない。つまり、何であれ、その契機は「生き延びるため」という合目的論では説明がつかないのであり、その不安定で危険極まりない姿勢は、「もう死んでもいい」と思い定めないことには常態にすることはできないのです。しかしその姿勢になることによって、世界や他者により深く豊かにときめいていった。
 人類は、「もう死んでもいい」と思い定めながら生き残ってきたわけで、そこにこそ知能(=知性や感性)が進化発展してゆく契機があった。そのとき人類は「生きられない」存在になった。誰もが生きられなさを生きながら他者にときめき、他者を生かそうとしていった。そうやって生き残ってきた。まあ人が生き延びる能力を持たない原始時代はそういう純粋で自然な人間的な生態があったわけだが、文明の発達とともに生き延びる能力を持つことによって生き延びようとする欲望が芽生え肥大化してきて、その結果、戦争や競争をする生態にもなってきた。
 それでも人は根源・自然において、生贄になって他者を生かそうとする衝動を持っている。そういう人類史の無意識がわれわれ現代人の中にもはたらいていて、そこのところで人と人の関係は深く豊かになってゆく。


 人と人の関係が深まるのは「感慨」を共有してゆくことにあるのであって「意味」を共有してゆくことにあるのではないということ。そして「感慨」を共有してゆくことは、「伝達」することによってではなく、その音声を聞くものが「気づいてゆく」ことによってはじめて成り立つ。
 たがいに「気づいてゆく」ということができなければ「感慨を共有する」関係にはなれない。つまり、もらい泣きするようにこちらも同じ感慨になってゆくことは、「意味がわかる」ということではない。「意味がわかる」なんてかんたんなことだ。相手が泣いていれば、きっとかなしいんだろうとわかる。しかしそれは、自分もかなしくなってゆくことではない。かなしいという「意味」がわかっているだけで、相手のかなしみを自分のかなしみとして追体験しているのではない。
 原初の言葉は、その音声を聞くものがそこにこめられた「感慨のあや」を追体験できる道具として生まれ育ってきた。そのとき話すものも聞くものも、ともにその音声を「聞くもの」になっている。そうやってその「感慨のあや」を共有してゆく。したがってそこに「伝達」という機能=関係はない。その音声を発するものにも伝達しようとする意図=欲望はない。
 伝達し説得することによって「共有」してゆくのではない。「すでに共有している」ことに気づいてゆくのだ。そうやってその「音声」がその社会の「言葉」になってゆく。
 意味を伝達し説得しても、人の心を変えられるわけではない。ただ「意味がわかる」というだけのこと。聞くものにその「感慨のあや」を追体験できる知性や感性がなければ、その「感慨のあや」それ自体を共有することはできない。
 今どきは、自分がいやなことをいわれたら大いに傷つくくせに、自分がそれをいって相手が傷ついていることにはおそろしく鈍感な人間がたくさんいる。それは知性や感性の停滞・衰弱であり、そうやって正義を振りかざしたり平気で相手を馬鹿にしたり、そうやって相手が去ろうとしている気持を無視して「行かないでくれ」とすがりつく。つまり、そうやって相手を「支配」しにかかるのが伝達し説得するという行為の本質であり、そうやって人の知性や感性も人と人の関係も停滞し衰弱してゆく。
 伝達し説得する機能が人類の言葉の本質だなんて、そんなの大嘘だ。
 言葉はもともと人と人の関係が深まる機能として生まれ育ってきたのだし、それはもう誰もが認めることだろうが、伝達し説得することによって人と人の関係が深まるのではない。人に伝達=説得=支配されるなんてごめんだ。誰だっていやなことじゃないか。なのに、相手のいやな気持をを無視して、伝達=説得=支配しにかかる。それが多くの現代人の生態だ。そんな生き方ばかりしてきたから認知症やインポテンツになってしまうし、陰湿ないじめも起きてくる。僕がこの先認知症やインポテンツになってしまったら、そういう生き方化かしてきたからだと認めることにしよう。俺は何も悪いことをしていないのに、などとは思うまい。正義も、伝達=説得=支配する権利や能力も、僕のもとにはない。


 それでも言葉は、今なお人と人が「感慨のあや」を共有しながら関係を深めてゆく機能を持って人の世に流通している。しかしそのためには人の「感慨のあや」に気づいてゆくことができる知性や感性を持っていなければ成り立たないし、原始人はそんな知性や感性を豊かにそなえていた。そんな知性や感性は、文明が成熟した社会のお勉強の偏差値が高い現代人が豊かにそなえているのではない。今どきは、そんな知性や感性が停滞・衰弱しかかっている。まあ、言葉も人と人の関係も「伝達=説得=支配」が中心的な機能の社会になってしまっている。
 しかしそれでも人の世であるかぎり、死ぬまで認知症にもインポテンツにもならない人が今でもたくさんいるのも事実であり、その事実こそが言葉の起源と本質を証明している。
 言葉の本質・自然とは何かということに、「伝達」という問題設定は原理的に成り立たない。それは、現代的な言葉の扱い方のたんなる一側面にすぎない。まあその機能によって現代社会が動いているとしても、その機能だけではプライベートな人と人の関係が深まってゆく契機にはなりえない。
 他者の心模様などわかっているつもりでいるから、今ここで動いている他者の「感慨のあや」に気づいてゆくことができないのだ。「わかっているつもりでいる」から知性や感性に限界があるのだ。
本格的な知性や感性は、「わからない=生きられない=もう死んでもいい」という場に立ってひたすら問うてゆく。そういう心模様を持ったことによって人類の知性や感性は進化発展していったのだし、そういう心模様を持ったから人類は死を意識する存在になったのだ。それは何も高度な学問や芸術だけの問題ではなく、人と人の関係が深まってゆく契機の問題でもある。


人の心が「わかっているつもり」の人間ほど、今ここの他者の「感慨のあや」に気づいてゆく知性や感性が欠落している。そうやって他人の心の中を勝手に決めつけたがる人間ほど人に好かれないし、たとえちやほやされてそれをうれしがっても当人には他者の「感慨のあや」に気づいてゆく能力がないからそれ以上の深い関係にはなれない。人と人の深い関係は、自分自身の、他者にときめき他者の「感慨のあや」に気づいてゆくことができる能力によって担保されているのであって、ちやほやされることによってではない。おたがいがそうやって気づいてゆくことができなければ関係は深くならない。そしてそのとき、おたがいがちやほやされることに戸惑っていることに気づき合っているから、むやみにちやほやし合わない。
 他者の「感慨のあや」に気づいてゆく知性や感性を持ったものは、そのことだけが心の動きの中心になっているから、他者を説得しようともちやほやしようとも思わない。まあ、他者をちやほやしようとするのは、そうやって他者をうれしがらせようとしているわけで、それは他者の心を支配しようとしているのと同じなのだ。
 まあ、浮世の義理で他者をちやほやしてやらないといけない場面はいくらでもあるが、人と人の深い関係においてはそんな必要は何もない。
 ちやほやされたがるとかちやほやされてうれしがるなんて、他者の「感慨のあや」に気づいてゆく知性や感性が鈍磨している証拠なのだ。他者の「感慨のあや」に気づいてゆく知性や感性を持った人は、ちやほやして相手を支配しようとしている「感慨のあや」にすでに気づいている。だからそのときその人は、戸惑うばかりで、むやみにうれしがったりはしない。
 他者の「感慨のあや」に気づいてゆく知性や感性が鈍磨しているものほど、他者にちやほやされたがるし他者をちやほやしたがる。内田樹上野千鶴子の書いたものを読んでいると、彼らのそういう知性や感性の限界がよくわかる。彼らは、この世界や他者の「存在そのもの」にときめいてゆく知性や感性が決定的に欠落しており、この世界や他者のことを「すでにわかっているつもり」になって決めつけ、この世界や他者がいいか悪いかと吟味し裁いてばかりいる。それはまあきわめて現代的であり、賛同者も多いのだろうが、そこから人間性の普遍や自然について学ぶことなど何もない。
 人と人の深い関係は、ちやほやし合うことにあるのではない。そんなふうにくっついてしまったら、鬱陶しいばかりではないか。モテない男や女ほど、女や男にちやほやされたがる。ちやほやされてモテたつもりになっても、彼らが男と女の関係の本質を知っているわけではない。ちやほやされることは、その鬱陶しさが骨身にしみることだ。ちやほやされたことがない人間ほどちやほやされたがるし、ちやほやされてうれしがっている人間ほど他者の感慨のあやに鈍感だ。
 まあ、ちやほやされたがるとかちやほやされてうれしがるなんて、ひとつのサディズムなのだ。相手を徹底的に痛めつけてそれでも相手が自分との関係を受け入れよろこんでいれば、そのときこそ究極のちやほやされる関係が成立する。それがセックスのSMプレイの極意であり、彼らは、誰の中にもサディズムは潜んでいるしそれが人間性の本質だという。しかし、誰の中にもそういうサディズムが潜んでいるとしても、そのくっつき過ぎた関係の中に人間性の普遍や自然があるのではない。それは文明社会の病理であり、われわれの誰もがそんな病理を心のどこかに抱えてしまっているとしても、原始人もそんなサディズムで生きていたとはいえないし、現代社会にだってそんなサディズムとは無縁の人はいくらでもいる。そんなサディズムとは無縁の人は、そんなことなどしなくても他愛なく勃起している。
現代社会では「伝達・説得」などというくっつき過ぎた関係が人間性の自然だと合意されているが、それだってつまるところ文明社会の病理としてのひとつのサディズムなのだ。相手を痛めつけてよがらせるなんて、究極の「伝達・説得」の関係だ。
 人は、他者から離れようとする。そうして離れたところに立ってときめいてゆく。心は、その「伝達の不可能性」にさらされている離れた「空間=すきま」を飛び越えてときめいてゆく。それが、直立二足歩行の起源以来の人間性の普遍=自然なのだ。
 他者の「感慨のあや」に気づいてゆくこと、現代の文明社会では言葉ほんらいのそういう機能が薄らいできている。言葉が、自分が生き延びるための「伝達・説得」のための道具になってしまっている。それはひとつのサディズムであり、生き延びようとする欲望とともにサディズムが膨らんでくる。そうやって心が未来に憑依してしまって、今ここにどんどんどん鈍感になってゆく。現代社会は、「スケジュール」で動いている。そういう社会に踊らされて生きていると、今ここにどんどん鈍感になってゆく。誰もがそういう社会で生きてゆくしかないのだが、そういう社会に居座り踊らされてばかりいると、プライベートな他者との関係がどんどん停滞・衰弱してゆく。
 現代人は、自分が生き延びることばかりに執着している。社会的に成功したものたちはそうやって自分の生き延びる能力や幸せを自慢し、そして多くの人々がその自慢話にたぶらかされている。
 生き延びようとすることは、はたして人間性の自然か?言葉は、そのための道具か?それは、文明社会の病理なのだ。そうやって文明人の知性や感性は停滞・衰弱してゆき、他者の「感慨のあや」に気づいてゆくという言葉ほんらいの機能も失われてゆく。
原始人や古代人は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに自分を捨てて、今ここの目の前にいる他者の「感慨のあや」に気づいてゆく道具として言葉を扱っていた。
生き延びる能力を持ったものに本格的な知性や感性が宿っているのではない。
 生き延びるなんて、どうでもいいことだ。人類は、そういうことを追求して歴史を歩んできたのではない。
 ネアンデルタール人は、その苛酷な環境ゆえに生きることにぶざまで無能であるほかなかったが、そのころの地球上のどこよりもときめき合って生きていたし、知性や感性を豊かにはぐくんでもいた。
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