「漂泊論」・60・旅をすることと連携すること

   1・それは、ひとつのセットになっている生態である
人間が旅をすることと、集団をつくって連携し結束することとは、別のことではない。つまり、旅と定住は別のことではない。どちらも同じ人間性として考える必要がある。
人間は「この世界から孤立した観察者としての自我」を持っているから、旅に出るし、連携し結束もする。
旅が定住であり定住が旅だといえばいささか強引だが、人間にとって旅が理想であるわけでも定住が理想であるわけでもない。人間にとってそれらは、ひとつのセットになっている生態なのだ。
古代以前の旅は定住民の助けなしには成り立たなかったし、定住民は、旅人の新しい血や知識を必要とした。また、定住民は、旅に出る経験によって、より定住するための心構えや能力を獲得する。定住民ほど旅をしたがっている存在もないし、旅人ほど定住にあこがれている存在もない。
80年代の「ニュー・アカ」ブームのころ、「ノマド遊牧民)」という言葉が大いに流行って、それが人間の新しい生き方や人間性の本質のようにいわれたが、なんのことはない、現在のグローバル資本主義の格好の免罪符になっているだけである。
かんたんに旅をすることやグローバルということだけでは人間性は語れない。
と同時に、人と人が連携することを、手垢にまみれた「ヒューマニズム」や「共同性」などというパラダイムで語ってもらっても困る。
人間が旅をするようになったということは、定住民の助けを得られる習性を持っていたということを意味する。
原初の旅は、個人がサバンナを横切って「森=集落」から「森=集落」へと移動してゆくことだった。そしてそれは、それによってその「森=集落」どうしが連携してゆくことでもあった。
そういうことを考えれば、4〜3万年アフリカ人がヨーロッパに乗り込んでいって定住民であるネアンデルタール人を滅ぼしてしまったなどという話がいかに途方もなく嘘くさいかがわかろうというもの。
それは、原始的根源的な人間性と矛盾している。
この国の人類学者の多くは、直立二足歩行以来の人類700万年の歴史の重みと厚みというものが、何もわかっていない。
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   2・原初の連携のかたち
ちょっとここまで書いてきたことのおさらいをしておこうと思う。
チンパンジーの群れどうしは、たがいのテリトリーがくっついているどころか、外側の一部が重なり合っていて、そのオーバーラップゾーンでときどき殺し合いが起きている。彼らの群れどうしはそれくらい緊張関係をはらんでおり、群れどうしで連携するということはまずない。
しかし原初の人類の群れどうしは連携し合うことによって生き残ってきた。彼らがなぜ連携することができたかといえば、群れどうしの緊張関係を解体して、群れと群れのあいだに緩衝地帯としての「空間=すきま」を必ずつくっていたからである。
だから、人間の群れは、猿よりももっと広く拡散していった。そうして、猿よりも身体が大きくなってゆき、しかも猿よりももっと大きく密集した集団をつくり、さらには直立二足歩行して行動範囲も猿よりも広いのであれば、とうぜんテリトリーも格段に広くなる。
そうやって猿よりもずっと広いテリトリーを持ち、猿と違ってたがのテリトリーのあいだに緩衝地帯としての「空間=すきま」をつくりながら、とうとう地球の隅々まで拡散していった。
人間の群れどうしは、たがいのテリトリーのあいだに緩衝地帯としての「空間=すきま」を持っているから連携できるし、この連携として、この「空間=すきま」を移動する行為として、「旅」という習俗が生まれていった。
原初の旅は、群れどうしの連携としてはじまった。そしてこの旅は、どちらの群れにも属さない空白地帯を行くことだから、そこでいったんもとの群れに対する帰属意識が消えてしまう。だから、いったん旅に出てしまうと、もうもとの群れには戻らなかった。このメンタリティもまた、人類が地球の隅々まで拡散していったひとつの要素になっている。
もとの群れには戻らない、という気になれるから、女を交換するという関係も盛んになっていった。女だって、群れの中の慣れ親しんだ男よりも、よその群れの知らない男の方に新鮮なセックスアピールを感じていった。
人間は、慣れ親しんでコミュニケーションがスムーズになっている関係に倦んでしまう生き物である。そこには、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」という緩衝地帯がない。二本の足で立っている猿である人間にとってこの「空間=すきま」を失うことは、そのまま身体の危機を意味する。
人間は、この「空間=すきま」を止揚し憑依してゆく生き物だから、深くときめき、深く幻滅する存在になり、旅をするようになっていった。閉塞感に倦んだものは、この「空間=すきま」に向かって旅立ってゆく。
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   3・土を掘る人と運ぶ人の連携
人と人は、コミュニケーションによって連携してゆくのではない。コミュニケーションとは、たがいに支配し合う関係でもあるのだ。
人間は、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を共有しながら連携してゆく。
命令されてそれにしたがうのは、連携ではない。それでは、共同作業になっていない。
また、マスゲームのように同じことをする行為でもない。
たとえば、土を掘る人がいて、その土を運ぶ人がいる。これが連携のかたちであって、一緒に土を掘ることは連携とはいわない。そのとき二人のあいだの「空間=すきま」には土があって、土に対する意識が共有されているが、仕事の内容はまったく違う。
一緒に土を掘る、というたぐいの行為なんか、猿でもしている。
その人が土を掘ることは、土を運べというメッセージか。そうではない。運ぶ人は、そこに土があるから運んでいるだけだ。運べといわれて運んでいるのではない。運ぶ人がいなければその仕事が成り立たないから運んでいるだけだ。人と人の関係は、自然にそういう連携が生まれてくる。人と人は、普通、そんなコミュニケーションなどとらなくても、自然にそういう連携になってゆく。いちいちコミュニケーションなどとっていたら、かえって作業ははかどらない。
そのとき二人とも、一心にみずからの仕事に没頭している。たがいの身体のあいだに「空間」に土がある。その「空間」に憑依してゆくことが、人間的な連携なのだ。
猿は、みんなで同じことをすることはできるが、このような連携はできない。たがいの身体のあいだの「空間¬=すきま」にときめいてゆくという心の動きを人間ほどには持っていないからだ。
この「空間=すきま」において、人間的な連携がつくられている。
たがいの身体のあいだに「空間=すきま」があるということ、このことにときめいて人と人が連携している。
サッカーのパスという連携は、まさにこの典型的な行為かもしれない。そのとき誰もが、たがいの身体のあいだをボールが行き交っているという「なりゆき」を共有し、その「なりゆき」が起こる空間に憑依しときめいてゆくのがサッカーというスポーツだ。
メッセージを込めたパス、などといわれるが、そんな「コミュニケーション」がゴールを生むのではない。サッカー選手はよく「パスの出し手と受け手が同じイメージを持ったときにいいプレーが生まれる」という。コミュニケーションで動いていたら間に合わないのだ。彼らは、同じイメージに向かって連携しているのであり、同じイメージが持てるようになるまで練習を繰り返しているのだ。
人間的な連携は、コミュニケーションから生まれてくるのではない。もっとスムーズで根源的な、コミュニケーション以前の関係がある。それが、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を共有するという「出会いのときめき」である。コミュニケーション以前に、「出会いのときめき」によって連携してしまうのだ。
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   4・親密さと鬱陶しさ
人と人の関係は微妙なのだから、あまり「コミュニケーション」だの「共生」だのという生々しい言葉を押し付けないでいただきたい。
人間は、そういうことに向かう存在ではなく、存在そのものにおいてすでに連携しているのだ。そういうことに対する信憑が原始人にはあったし、現代人には希薄になっている。だから、「コミュニケーション」だの「共生」だのと言い出す。
二本の足で立つ姿勢は、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」をはさんで正面から向き合うというかたちで連携することによってはじめて安定する。そういう先験的な連携を持っているから、他者に対する親密さも鬱陶しさも生まれてくる。その親密さと鬱陶しさを調合したかたちで連携するわけで、それは、ただの馴れ合いでもなければ、わざわざコミュニケーションをとって確認してゆく行為でもない。たがいにその中間の「すきま」に憑依してゆくことによって、親密さが確保され、鬱陶しさが取り払われる。そうやって人間的な連携がうまれてくる。
人間は他者にときめいている存在であるが、他者に馴れ馴れしくしてゆくことの不可能性と馴れ馴れしくされることの拒否反応を持っている。
人と人は、たがいの身体のあいだにコミュニケーションが不可能な「空間=すきま」をはさみ、ときめき合っている。ときめき合うとは、コミュニケーションが解体される体験である、ともいえる。
「東京に行こうか」といわれて、イエスともノーとも答えないであいまいに微笑む。しかし「ノー」といわないのは「イエス」といっているのと同じである。うなずくまでもなく、すでに一緒に行く気になっている。すでに一緒に行く気になっているのなら、「イエス」と答えるよりも、「どんな服を着て行けばいいかしら」といういい方になる。それは、コミュニケーションの解体であると同時に、たしかな「連携」でもある。
こういう「イエス」といわない作法もある。「イエス」といわないディスコミュニケーションの場において起きているのが「連携」なのだ。
まあ、コミュニケーションなどという関係は、西洋の奴隷制度から発展してきたのだろう。奴隷とか異民族との関係は、コミュニケーションを取らなければつくれない。コミュニケーションを取らなければ、奴隷は働かない。しかしそれは、親密な連携プレーではない。働かせる側のものに、関係に対する親密さも鬱陶しさもない。関係に執着しつつ、親密さなどない。コミュニケーションによって、親密さの不足をカバーし、関係に対する執着を満足させている。そういうところから、コミュニケーションの技術が発達してきたのだろう。
まあ奴隷制度も異民族との関係も切実に持ってこなかった日本列島の住民は、コミュニケーションの技術において西洋人にはとうていかなわない。しかしだからといって、連携プレーの密度において劣っているわけでもない。
人間的な連携は、親密さと鬱陶しさの微妙な調合であり、その調合は、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」でなされる。
人間が旅をすることの「別れのかなしみ」も「出会いのときめき」も、この親密さと鬱陶しさの調合から生まれてくる。
また、鬱陶しくなければ旅になんか出ないし、親密になるから鬱陶しくなってくる。そうして、別れるとなれば、いっそう親密さがよみがえる。
さらには、先験的な親密さがなければ、旅人は迎えてもらえてもらえないし、迎える側は鬱陶しさを抱えているからたどり着いた旅人に対する親密さが湧く。
原初の人類は、他者とともにいることの鬱陶しさ(けがれ)をそそぐというかたちで二本の足で立ち上がり、他者との出会いのときめきを体験していった。そしてそのときみんなで一緒に立ちあがっていったのであり、それ自体がひとつの連携だった。
そのとき誰もが、「群れが密集しすぎて鬱陶しい」という「状況=なりゆき」に反応し、その「状況=なりゆき」から立たされていったわけで、一緒に立ちあがろうとしたのでもなければ、立ちあがろうとする意思すらなかった。
それでも、気がついたらみんなで立ち上がっていた。
ときめき合い連携している場においては、すでにコミュニケーションは解体されている。
つまり、最初に書いた「旅と定住はセットになっている」とは、そういう他者とともにいることの親密さと鬱陶しさの調合の上に人間存在が成り立っている、ということだ。
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