「漂泊論」・59・自我の自然

「自分を知る」ことが「自我」であると規定する論理なんて、ほんとに愚劣だと思う。
自分を取りつくろい見せびらかすことばかりに執着して生きている人間が、そういうことを言い出す。
つまり彼は、誰もが自分と同じようにそうやって自分に執着して生きている、と思っているらしい。ひとまずそれが人間性の基礎であり自然だということにして、みずからのうさんくさい自己愛に居直っている。
冗談じゃない。誰もがおまえみたいに自分のことばかり執着して生きているとはかぎらない。自分の外見的な姿とか、人から評価されている人格とか、人生体験とか、財産とか地位とか、交友関係とか、まあそんなものが「自分」だと思っているらしい。そこに自分が生きてあることの証しがあると思っているらしい。
そういう生きてあることの証しが欲しいというスケベ根性、そういうスケベ根性を誰もが持っているということにしておきたいスケベ根性がよくわからない。
人間の根源的な自我は、そういう生きてあることの証しが欲しいという欲望などたぎらせていない。ただもう、ほんとに生きてあるのだろうか、と問うている。人間は、無意識のうちに自分や自分の身体を忘れてしまう習性があり、そういう習性によって生きてあるから、どうしても生きてあるという実感を持てない存在の仕方をしている。
だから、つねに「自分ははたして今ここに生きて存在するのだろうか?」と問いながら生きているしかない。
そういう問いを抱く意識を「自我」というのであって、生きてある証しを持っている意識のことではない。
ほんらい、人間にとって、意識が自分の中に滞留して生きてあることの証しや実感を持つことは鬱陶しいことであり、古代人はそれを「けがれ」といった。
基本的には、生きてあることの実感は、暑いとか寒いとか痛いとか空腹とかというかたちで自分の身体に気づかされる体験としてある。
人間はそういう生きてあることの「けがれ」を自覚している存在だから、自分を忘れて世界に気づきときめいてゆく。
自分とは何か?と問うなら、今ここに生きて存在しているひとりの人間である、ということになる。ひとまず「自分ははたして今ここに存在しているのだろうか?」というような疑問はさておいて、最大限に自分を見積もっても、それ以上にはならない。そういう裸一貫の人間になれないやつが、「自我とは自分を知る意識である」などと言い出す。
自分が生きてあることの証しなんかよくわからない、というのが自然な自我のはたらきなのだ。
「わからない」という問いを持っているのが、自我のはたらきの自然なのだ。それはもう、原始人だろうとわれわれ現代人だろうと変わることはない。人間の自我意識は、そのようにして世界と向き合っている・
生きてあることを忘れてしまうのが、人間なのだ。人間の記憶力が発達したのは、たぶんそういうことと関わっている。生きてあることを忘れてしまうその空白を記憶でつないでゆく。猿は、忘れないで意識が線でつながっているから、記憶する必要がない。
忘れることが、人間に記憶力をもたらした。まあ脳科学の問題に立ち入りするつもりも能力もないが、忘れなければ記憶力など生まれ育ってくるはずがない。
意識のはたらきに、この空白という「すきま」を持っているところが、人間の人間たるゆえんである。
二本の足で立ち上がって、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を意識するところから人間の歴史がはじまった。それは、「相手の心はわからない」という意識で関係をつくってゆく作法に目覚めた、ということだ。
だから、われわれが他者と向き合っているときの自我は、けんめいに相手のしぐさや表情や言葉に関心を寄せている。相手の心がわかるといっても、相手のしぐさや表情や言葉によって判断しているだけである。それでわかったつもりになるのは現代人の処世術であって、原始人や古代人は、相手のしぐさや表情や言葉そのものに反応していた。
心は、相手の胸の中ではなく、相手の言葉そのものにあった。だから、言葉には「ことだま」が宿っている、といった。それは、言葉そのものに反応して、相手の心はわからないし詮索しない、という作法だった。
そういう「わからない=空白=すきま」に対する意識が、人間の文化や文明を発達させた。
そのようにして人間は「ゼロ」という概念を発見した。
「自分を知っている」とか「人の気持ちがわかる」といっても、それがその人の知性や感性の証しになっているわけではない。われわれの自我は、根源においても究極においても、そういうことに対する関心を持っていない。
「自分を知っている」とか「人の気持ちがわかる」などといって自慢するのは、ただの俗物の自己愛である。
ほんとに高度な知性や感性を持っている人は、世界や他者に対して驚きときめいている。それは「わからない」という自我のはたらきである。
他人の心どころか、自分の心だってわからない。だから人は、「あ、鳥だ」「わ、すごい」といって驚きときめく。その思わず口からこぼれ出る「あ・わ」という音声=言葉に「自我」が宿っている。
自分が今ここに生きてあることは「予期せぬ出来事」なのであり、そのことにカタルシスを覚えながらわれわれは生きている。
自分がこの世に生まれおちてきたことだって、「予期せぬ出来事」ではないか。そのことと和解しなければ、人間は生きられない。
われわれの自我は、「予期せぬ出来事」との出会いに驚きときめきながらはたらき続けている。その「わからない」という一瞬の反応が「意識」の発生であり、そこから意識は、世界のさまざまなニュアンスに気づいてゆく。
ほんとに知的な人は、「わかる」ということに「けがれ」の意識を持っている。だから、つねに新たな「何・なぜ?」という問いを紡いでゆく。感性の豊かな芸術家もそうにちがいない。彼らは、「予期せぬ出来事」との出会いに驚きときめきながら生きている。
いや、われわれの自我にしても、程度の差こそあれ、そのようにしてはたらいているのだ。
生きてあることは、「予期せぬ出来事」なのだ。自我とは、そのことに驚きときめく意識である。
「あなた」がこの世に存在することも「私」にとっては「予期せぬ出来事」であり、「私という自我」は、「あなた」の心はわからないし、「あなた」が自分と同じ心を持っていることはさらにわからない。
そういう「わからない」という心こそ、自我のはたらきなのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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