「漂泊論」・58・自我は、「私を知る」のではなく「世界に気づく」

   1・自我の問題はややこしい
「自分とは何か?」と問う。
おっちょこちょいでお人よしで、とかなんとか分析するが、それはともかく、そのとき「自分とは何か?」と問うている「自分」がいる。問われている対象としての自分よりも、問う主体としての「自分」の方こそがじつは問題なのだ。
「自分とは何か?」と問うとき、意識は自分に向いて、世界や他者に対する関心を失っている。「自分のことをよく知っている」などというが、いつも自分のことばかり気にしている人間は、そりゃあ自分のことをよく知っていることだろう。そういう人間が、他人に関心があるといっても、他人の目に映る自分に関心があるだけだ。そうして他人の目によく映るように自分を飾ったり取りつくろったりするわけだが、それはつまり、他人の心を操作しようとしているということでもある。一種の支配欲だ。自分のことをよく知っている人間は、他人を支配するすべもよく知っている。彼は、他人に知られていない自分の中の凶悪な心も自覚していないわけではないが、ひとまず他人の目に映る自分で生きている。社会にうまく適合していれば、そういう生き方ができる。
つまり、他者の自我を自分にインストールして自分を知り、そういう自分で生きてゆく。まあ、社会にうまく適合していればこその自分の知り方だ。
しかし適合できていないのに他者の目に映る自分ばかり気にしていたら、他者の自分に対する悪意ばかり感じていなければならなくなる。実際に悪意があろうとなかろうと、他者の自我を自分にインサートすることが習い性になっていれば、もう勝手に他者の悪意を捏造してしまう。そうやって「見知らぬ他人が自分の悪口をいっているのが聞こえる」、などという幻聴を体験する。
ラカンの「人間の自我は他者の自我の複製である」という説は、自我の本質でも自然でもなく、そういう病理的な自我のかたちを意味しているだけである。ラカン自身はもちろんのこと、多くの現代人がこうした病理的な自我で生きている。社会にうまく適合していればこの自我こそ有力な武器になるし、適合できなければこの自我によって追いつめられ病んでゆかねばならない。
現代人は、そういう「客観的」な自分で生きてゆこうとする。まあ処世術としてはそれが有効なのだろうが、それでも人間は、「主観的な存在」として生きている。
・・・・・・・・・・・・・・
   2・「自分さがし」はつらい
他人の気持ちなんかわからない。他人が自分をどう見ているかなど、主観的にはけっしてわからないのだ。誰もがじつは、この「わからない」という主観的な自分を携えて生きている。
この「わからない」という自分が、他者の姿や言葉にときめいているのだ。
世界に対する関心とは、「わからない」という心の動きのことだ。「わからない」から、その姿や言葉に心が動く。姿そのもの、言葉そのものに対する関心になる。そのとき他者の自我に対する関心は断念されている。断念というより、ほんとに「わからない」のだ。
「自分とは何か?」と問う「自分」がいる。この「自分」が「主観=主体」であり、「自我」である。
「わからない」から問う。問えばわかるかというと、そうはいかない。「わからない」ということが答えだ。なぜなら、問うている主体としての「自分」を意識すれば、問われている客観としての自分はすでに消えている。そのときすでに、「問うている自分とは何か?」と問うている。
このあたりが「自分さがし」のやっかいなところだろうか。われわれは、他者の目に映る自分すなわち「鏡像」をまさぐって満足していることはできない。世間ずれした大人はそれで生きてゆけるだろうが、若者は、そうはゆかない。他人の気持ちなんかわからない。「わからない」という自分を抱えて生きている。
「自分のことを知っている(わきまえている)」つもりの大人なんて、ほんとにどうしようもない俗物だなあと思う。
みんなが何を思っているかなどわからない。自分の好きなことが他人も同じように好きかどうかなんてわからない。
人は、他人も同じことを思っているつもりになって他人を支配しにかかるのだ。他人も同じだと思うから、自分が世界だという独我論になる。他人も自分と同じなら、自分が世界だといっても、何の矛盾もない。そうやって他人と連携しているつもりだが、じつは他人を支配しているだけである。たがいに支配し合って、みんなして「俺が世界だ」と思っていやがる。
他人の自我なんかわからないし、他人の自我を自分にインストールすることもできない。
われわれの自我は、孤立した「観察者」である。だからこそ他人の姿や言葉にときめき、連携してゆくことができる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
   3・自分と向き合っている自分と、世界と向き合っている自分
われわれは、自我によって世界に気づく。世界に気づく心の動きが自我(=主体)であって、「自分とは何か?」と問うたその答えが自我=自分であるのではない。答えの「自分」なんか何も考えていない、たんなる対象であり「鏡像」にすぎない。
問うている主体こそ、自我=自分というのではないのか。
その、問うている主体としての自我=自分は、「意識」として、この世界の外で生成している。この世界の外から、この世界の中の自分を見ている。
われわれにとって「自分」とは、この世界の中に存在する自分ではなく、その自分を「何か?」と問うて眺めている自分である。
したがってその「主体としての自分」は、この世界の外の孤立した存在だから、自分は特別だとかみなと同じだという自覚もない。根源的な主体としての自我には、そんな物差しがない。ただ「孤立している」というだけのこと。誰もがそういう孤立した自我を抱えて連携し合っているのが人間社会であり、そうやって恋や友情や学問的な知性や芸術的な感性が生まれ育ってくる。
意識は、「主体としての自分」を意識した瞬間、「自分とは何か?」と問う「対象としての自分」のことを忘れている。「主体としての自分」は、「対象としての自分」を忘れて、「自分」そのものになり、「世界」に気づいてゆく。
自我とは、「自分」を知るのではなく、「世界」に気づく心の動きである。
われわれは、自分を知るために世界や他者と関わっているのではない。自分(の身体)は先験的に存在し、その自分によって世界や他者と関わっている。
われわれは、すでに「自分」であり、「自分」として世界に気づいている。
大きいものを見て大きいと驚き、小さいものを見てかわいいとときめく。それは、先験的にみずからの身体のスケールを「主体としての自我」として持っており、それを基準にして世界を眺めているからだ。だから、そばにいる人が自分よりも背が高いか低いかということを背比べをしなくてもわかる。
われわれは、そうした「主体としての自我=自分」を先験的に持っており、それによって世界と向き合って存在している。そしてこの「主体としての自我=自分」は世界から孤立して世界の外に存在している。すなわち、世界の外の「非存在の自分」として存在している。
まあ社会的な身すぎ世すぎはこの社会の一部になることの上に成り立っているとしても、われわれの根源的な生のいとなみは、孤立した世界の外の「非存在の自分」として世界と向き合うことによって成り立っている。そういう「自分」によってわれわれはものを見たり考えたり思ったりしている。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   4・身体というもうひとつの自分
人は、鏡に映った自分を見て、はじめて「自分」に気づくのではない。
赤ん坊は、生まれおちて「おぎゃあ」と泣いた瞬間から、すでに自分の身体に気づいている。自分の身体の物性に気づき、それに驚き鬱陶しがって泣いている。
自分の身体に気づいていなければ、世界や他者とのどんな関わりも持てない。もちろん、おっぱいとのかかわりだろうと。そのとき赤ん坊にとっておっぱいは、自分の外の世界であり他者なのだ。
そうしておっぱいにときめいた体験をもとにして、世界や他者にときめくという体験を積み重ねてゆく。赤ん坊はそのとき、「おっぱいの自我」を自分にインストールしているのか。そんなことはあるまい。「おっぱいの自我」などわからないままときめいているのだ。
そのとき、おっぱいを強く吸えば、自分の身体の物性に対する鬱陶しさが消えてゆくのを体験する。すなわちそれは自分が消えてゆく体験であり、自分(の身体)が消えることにカタルシスを汲み上げている「自我」がはたらいている。
赤ん坊にとって自分の身体は、もうひとつの自分である。そしてその無力な存在である身体が、赤ん坊の自我にとってどんなに鬱陶しい対象であることか。その鬱陶しさをトラウマとして持っているから、けんめいにおっぱいを吸って自分の身体が消えてゆくことにカタルシスを覚える。
われわれは、そのようにして「もうひとつの自分」が消えてゆくことにカタルシスを覚える体験を基礎に持っているのであれば、「自分とは何か?」と問うても、意識は、その「もうひとつの自分」を消して、問うている自分(=主体)だけの自我になってしまう。
われわれの根源的な自我は、「自分とは何か?」という問いの答えを持っていないし、永久にその答えは得られない。問うた瞬間、その「もうひとつの自分」は消えている。
赤ん坊は、「もうひとつの自分=自分の身体」を消しながらおっぱいを吸っている。
われわれは、本能的に「もうひとつの自分」を消してしまう。
なぜなら、その「もうひとつの自分=自分の身体」は鬱陶しい対象として知らされるものだからだ。
われわれにとって「自分」は、知ろうとする対象ではなく、赤ん坊にとっての自分の身体のように避けがたく知らされてしまう対象なのだ。
いや、われわれだって、暑いとか寒いとか痛いとか空腹だというようなかたちで、いやおうなく身体を知らされる体験の中で生きている。
だから自我は、避けがたく「自分の身体=もうひとつの自分」を消そうとするかたちではたらいている。
自分が消えてゆくことが、自分がたしかになることだ。そうやって人は、我を忘れて何かに熱中してゆく。そのとき、「自我」がはたらいていないわけはなかろう。「自我」が熱中しているのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   5・自我の受苦性
我を忘れている自我のもとに「自分」がある。古代人はそのことに気づいて、思わず口をついて出てくる「あ」とか「わ」という音声に「吾=私」という意味を与えた。「あ、花だ」、「わ、きれいだ」の「あ・わ」である。このときの「あ・わ」は、他者に伝達することを意識していない。われを忘れて、この世界の裂け目で発せられている。
われわれの原始的根源的な自我は、自分を知るのではなく、自分を忘れる。すなわち原始的根源的な自我は、自分を忘れて世界に気づいてゆく心の動きとしてはたらいている。
人間は、根源において自分を意識させられることの鬱陶しさを生きている。これが、人間の自我の自然であり根源のかたちなのだ。
「自分を好きになる」などという作為的な観念制度で生きたい人は、そうやって生きてゆけばいい。しかしそれが自我の根源のかたちだとは、われわれは断じて認めない。
自我(自意識)に苦しみ、そこから解き放たれるように世界に気づきときめいてゆくのが、人間の生きてあるかたちなのだ。
より深く世界に気づきときめいているものは、より深く自我(自意識)に苦しみ、より深く自分を忘れている。
何度でもいう。自我は、孤立した「観察者」である。
「鏡像」としての自分なんか知ってもしょうがない。われわれは先験的に「自分」として存在している。
自我のはたらきとは「自分を好きになることである」とか「自分を知ることである」とか、こんな愚劣なことをいう俗物の大人や知識人ばかりの世の中だから、若者を「自分さがし」の泥沼に追いつめてしまうのだ。
われわれにとって自分(の身体)とは鬱陶しい対象であり、自分(の身体)を忘れてゆくことが自我のはたらきなのだ。
この世の大人なんて、ブサイクで鈍くさい動きしかできない身体や顔かたちのくせに、なにが「自分を好きになる」か。収入や財産や社会的地位があれば自分を好きになれるのだろうが、それでもおまえらは、どうしようもなくブサイクで鈍くさい存在なのだ。おまえらがどんなに収入や財産や社会的地位や過去の実績や経験や大人の人格を誇ろうとも、それでも若者や子供の方が人間として美しいのだ。そういう自覚がなぜもてない。
そんなブサイクで鈍くさい自分が好きだなんて、自分を知らない証拠じゃないか。
おまえらの心も知性も感性も、原始人や若者や子供やこの世のもっとも弱いものたちに比べれば、どうしようもなくブサイク鈍くさいのだ。
比べなくても、人間の自我は、自分や生きてあることに対して絶望し苦しめられるようにできている。われわれは、笑って生きていても、存在そのものにおいてすでに絶望し苦しめられているのだ。二本の足で立っている弱い猿である人間とは、そういう存在なのだ。そこのところが、なぜわからないのか。
われわれの自我は孤立し、絶対的な「受苦性」を負っている。だからこそ人は、他者や世界にときめき、他者と連携してゆく。
言い換えれば、自分が「世界の一部」であるつもりのおまえらは、人と比べながら自分を好きになり、自分に満足しているのだ。
そんな通俗的な大人ばかりの世の中だから、若者が「自分さがし」の泥沼にはまる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
   6・原始人の自我
ある人は、こういっている。「原始人は協力しないと生きられない条件のもとに置かれていたから<集団的な自我>を共有していた」と。
どうしてこんなステレオタイプなことを安直にいってしまうのだろう。
人と人が協力し連携してゆくためには、誰もが孤立した「観察者」としての自我を持ち、誰もが深くその「孤立性」を噛みしめていないと生まれてこないのである。
それは「集団的な自我の共有」によるのではない。
氷河期の北ヨーロッパネアンデルタールやクロマニヨンの集落では、誰もが自分が生きることを忘れ、誰もがけんめいに他者を生かそうとしていた。その過酷な環境下では、自分が生きることにこだわっていたら、他者を生きさせることはできなかった。
たとえば、おそらく食いものが足りないときは、死にそうなものから順番に食っていった。みんな一緒ではなかった。
彼らがなぜマンモスなどの大型草食獣の狩を覚えていったかといえば、死をもいとわないファイティングスピリットがあったからだ。ネアンデルタールの男たちにとって、狩の最中の死や骨折は、けっして珍しいことではなかった。それは、「集団的な自我」ではない。誰もが孤立した自我として死を受け入れていたのだ。
みんなが一緒に生きようとしていたのではない。みんなが孤立した存在として死を受け入れていた。死を受け入れていたとは、死のうとしていた、ということではない。生きてあることを忘れようとしていた、ということだ。そういう「孤立性」こそ、原始人の「自我」のかたちだった。
誰もが世界=現実から孤立した存在として、生きてあることを忘れようとしていた。彼らの連携は、そういう自我を共有するところから育っていったのだ。だから、死にそうなものから順番に食べてゆく習慣になっていたはずだし、女たちは、死の気配をまとった男にセックスアピールを感じていった。そしてこの傾向は、今なおヨーロッパの女の恋愛感情のひとつとして受け継がれている。いや、世界中の女の意識の底に、そんな感情が潜んでいるのかもしれない。
たとえば、冒険家のセックスアピールは、死の気配をまとっていることにある。ヨーロッパの貴族の女が権力から追われているマルクス主義の活動家を愛人にしてかくまってやるというような話だって、そういうセックスアピールの物語にちがいない。
自我の「孤立性」こそ、人間の知性や感性をはばたかせ、人間的ないとなみにさまざまな色どりをもたらしているのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ブログランキングに登録してみました。「自然科学」のジャンルです。これはあくまで文科系の感想文だけど、科学的な思考ということにいつもこだわっているし、まあ、科学者よりも科学的に考えたいという思いもないわけではないです。よかったら、ここをクリックしてみてください。
http://blog.with2.net/link.php?1402334
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/