「漂泊論」・54・自我は他者の複製か?

   1・「わかり合う」ことによって連携が生まれるのではない
ひと目惚れであろうとなかろうと、好きなろうとして好きになるわけではあるまい。いつだって、「気がついたら好きになっていた」というかたちで恋がはじまるのだろう。
相手が好きになってきたから自分も好きになる、というようなことではあるまい。
人と人の関係の基礎は、つねに一方通行だ。まず、そこからはじまる。この一方通行の関係に連携がはじまる契機がなければ、連携は起こり得ない。相手も自分が好きかどうかということなど、永久にわからない。わからないまま人は恋をする。
人の心などわからない。それでも人と人は連携する。というか、それゆえにこそ連携する。
わかり合うことが連携の契機になるのではない。そこにあなたがいて私がいるという事実が連携をもたらす。
そういう「状況=なりゆき」に動かされて人と人は連携してゆく。連携は、相手のことがわかることによって起きるのではなく、たがいに「状況=なりゆき」を察知することによって起きる。
「俺はこのように動くからおまえはこのように動け」という意志を伝え確認してから行われる連携など、その速度も緊密さもたいしたことにはならない。ネアンデルタールの集団的な狩りにしろ、現代サッカーにしろ、そんなふうに連携が生まれてくるのではない。
そんなことを確認している時間的な余裕も心の余裕もない。
おたがい相手の心などわからないのだから、自分はどうしたいとか相手にどうしてもらいたいというような気持ちなど持たない方がいい。たがいに無心になって「状況=なりゆき」を察知し、「状況=なりゆき」にしたがってゆくことによって、もっともスムーズでタイトな連携が生まれてくる。
連携が生まれてきた起源は、そこにあった。伝えあってわかり合ったのではない。
言葉を使おうと使うまいと、人と人がわかり合うことなど、根源的に不可能なのだ。したがって、わかり合うことによって連携が生まれてきたということはあり得ない。
連携するようになって言葉(の意味)が育ってきたのであって、言葉が連携を生み出したのではない。
言葉なんかなくても連携は成り立つ。
人間は先験的に他者との関係の中に投げ入れられている存在ではあるが、他者と心がわかり合っているのでも、他者の身体と共鳴し合っているのでもない。
それでも、たがいに「孤立」して存在している。
人と人のあいだには、心と心がわかり合うことも身体と身体が共鳴し合うこともできない「空間=すきま」が横たわっている。
身体と身体のあいだにこの「空間=すきま」をつくり合うというかたちで二本の足で立ち上がり、この「空間=すきま」を止揚しながら歴史を歩んできたのだ。
このわかり合うことのできない「空間=すきま」を持ったことによって、すなわちたがいに「孤立」した存在になることによって人間的な高度な連携が生まれてきたのだ。
人間は、根源において「孤立」して存在している。人間的なあつい友情もせつない恋も、ここから生まれてくる。
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   2・俗物め
われわれのこの人間理解は、J・ラカンの「自我」の概念と決定的に矛盾している。
ラカンは「人間の自我は他者の自我の複製である」という。孤立した存在などあり得ない、自分の欲望は他者の欲望を模倣しているにすぎない、という。
赤ん坊は、生まれてきたとき、すでにまわりに自我があふれている。その自我を模倣して自分の自我をつくってゆくのだとか。
僕は、こういうえらそぶった俗物の話を聞くと、むかむかする。こんなもの、人間の真実だとは、ぜんぜん思わない。こういう愚劣な説をありがたがって鵜呑みにし、人間のことがわかったつもりになっている人たちもどうかしている。
それでも人間存在は孤立してこの世界の裂け目に立ってしまっているのであり、他者の気持ちや欲望を模倣することなどできないのだ。
自分だけがこの世界の外側に立たされている……という孤立感は、実存感覚として誰もが抱えている。
ラカンはいう。体をうまく動かせない赤ん坊は神経が未発達で自他の区別がついていない、と。
冗談じゃない、赤ん坊は、ちゃんと自分の体を意識している。うまく動かせるとか動かせないとか、そんなことは関係ない。うまく動かない自分の体に身もだえして生きている。赤ん坊は、どこを触られてもちゃんと反応するではないか。それは、自他の区別がついているということだ。
自分がほかの赤ん坊をぶって自分で泣きだす赤ん坊がいる。世の中では、そういうことを自他の区別がないことの証拠のようにいうが、そのときその赤ん坊は、そこで何かが起きたということを知っているのである。つまり、何はともあれそこで自分が世界と関係した、ということを悟っているのだ。自他の区別がないのなら、何かが起きたという自覚すらない。よその赤ん坊の髪を引っ張ったりぶったりしようとすることは、すでに自我を持ち、自他の区別をしているということだ。
自我がなければ、おっぱいを吸おうということすらしない。赤ん坊は、ただの「機械」ではないのである。そのとき赤ん坊なりに、すなわち彼の自我は、その行為によってもたらされるカタルシスを体験しているのだ。
「自我」などというものは、生まれおちて「おぎゃあ」と泣いた瞬間から発生している。
「自他の区別がない」だなんて、くだらないことをいってんじゃないよ。おまえらそれを、赤ん坊から聞いたのか。
生まれおちた赤ん坊は、みずからの身体が世界(空気=空間)の中に置かれて存在していることに気づきつつも、体を動かしてその世界と関わってゆくことのできない「無力さ」を「孤立感」としてひしひしと味わっている。そういう苦労人だから彼らは、すぐ泣いてしまうのだ。ただ空腹だとかおむつが濡れて気持ち悪いとか、それだけのことではない。
人間の赤ん坊は、猿の赤ん坊よりも体はずっと未熟で無力だが、猿の赤ん坊よりもずっと意識のはたらきが活発で知能が高いのだ。だから、あんなにも泣いてばかりいる。それは、この世界の外側に孤立して存在させられている、という実存感覚でもある。
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   3・人間存在の孤立性
「人間」というシステムは、未熟で無力な赤ん坊として生まれてくることや、二本の足で立って歩いていることなどによって、ほかの動物よりもずっと自我のはたらきが強く、ずっと「孤立感」が深い意識を持つほかないようにセットされている。
「人間の自我は他者の自我の複製である」だなんて、俗物どもが何を愚劣なことをほざいてやがる。
人間の自我は、他者の自我にまとわりつかれることの鬱陶しさを骨身にしみて感じるほどに孤立しているし、まとわりつかれて振り払えなくなったときに病理現象が起きる。
とはいえ、他者の自我にまとわりつかれるかたちで自我を形成していった人間がこの社会の成功者になっていることも事実で、成功者になるか精神を病むかは、その複製の自我が社会に適合しているか否かで決まる。いずれにせよそれらはともに制度的な病理であることにちがいないのだが。
人が精神を病む原因を知りたければ、勝間和代とか内田樹とか上野千鶴子とか、ああいう連中の俗物根性(=他者の複製としての自我)を分析してみればいい。
しかしわれわれの心は、あそこまで不健康にはなれない。その「あそこまで不健康になれない」というところに、人間の自我の普遍性がある。
人間の自我ほど孤立感の強い自我もない。そういう孤立した自我が人間的で高度な連携を生み出し、言葉を生み育ててきたのだ。
人間は孤立した自我を持っているから、無際限に大きく密集した群れの中に置かれることにも耐えられるのだ。孤立した自我が、人間の文化や文明をつくってきたのだ。そこのところ、ラカン信者のおまえらにはわかるまい。
われわれの自我が、他者の自我にまとわりつかれているのなら、猿のように一緒に暮らせる仲間の数にも限度がある。たくさんの自我にまとわりつかれたら「私」の自我は混乱する。言い換えれば、共同体の制度性とは、同じような自我がまとわりつき合う関係になり、第三者を排除してゆくシステムである。そういうシステムの基礎としてなら、ラカンの「鏡像段階」という概念は成り立つ。
しかしそうやって自我がまとわりつき合う関係になることが鬱陶しくないはずがない。だからそこからの解放として、われわれは恋をする。そうして恋が長く続けば、また自我がまとわりつき合ってきて、やがて恋の終わりになる。
人間の恋は、孤立感の上に成り立っている。
孤立感を持っていない人間には恋はできないし、他者にときめくこともない。そのくせ、そういう人間にかぎって、他人の自我にまとわりつこうとするような無遠慮なところや、他人の自我にまとわりつかれているような被害妄想を誇大に抱いたりするところがある。
ラカンのいう「他者の自我の複製としての自我」は、制度性の病理として成り立っている。そうやって人は「自分は世界(現実)の一部である」と思い込む。みんなが「世界(現実)の一部」になることが制度性だ。それは、制度性の病理であって、人間の自然=根源ではない。
世の中は、その制度性の病理を武器にして成功者になってゆく人もいれば、そこから追いつめられて病んでゆくほかない人もいる。
だからラカン信者の俗物があとを絶たないし、だからラカンの理論は精神治療の現場ではほとんど役に立っていない。
あの連中は、現代社会の病理でしかないことを、人間の普遍性であるかのように語ってきやがる。
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   4・原始人の自我
では、言葉を生み出した原始人の自我はどうなっていたのか。
原初の、言葉による連携はどのようなかたちになっていたのか。
赤ん坊の自我は、生まれおちてみずからの身体に気づいたときに発生している。
自我とは、何かに気づく意識のはたらきのことである。
自我とは「私という意識」である、という定義は正確ではない。それはたんなる言葉の上でのことにすぎない。われわれはふだん、人と話をしているとき以外はほとんど「私」という言葉を思い浮かべていない。「私という意識」なしに「私=自我」として物事に気づいたり考えたりしている。
広義に解釈すれば、意識そのものが自我であるともいえる。
「あ、花だ」、「わ、きれいだ」というときの「あ・わ」に自我が含まれている。このことに気づいて日本列島の古代人や原始人は、「あ・わ」を「吾=私」という意味の言葉にした。
この「あ・わ」という言葉=音声は、ほとんどの場合、他者に対する自分を意識していないし、他者に向けて発しているのでもない。つまり、「私という意識」を持たない私によって発せられている。
原初の「私=自我」は、「私という意識」を持たなかった。
このことは何度も書いたが、人は自分(の身体)が消えてゆくときに自分を意識する。自我とは、自分(の身体)に気づく意識であると同時に、自分(の身体)を消そうとする意識である。
原始人は、自分が消えてゆくことの醍醐味を深く知っていた。なぜなら文明が未発達だった時代の彼らは、自分の身体の物性に対する鬱陶しさを感じるほかない状況を生きていたからだ。
この場合の「あ・わ」は、「消えている自分」である。「あ・わ」という音声とともに自分が消えてゆく体験。原始人にとって音声=言葉を発することは、自分を表出する行為ではなく、自分が消えていることのカタルシスを体験する行為だった。
誰もがわれを忘れておしゃべりに夢中になってゆく。そのとき誰もがその場の「空気=なりゆき」に身を任せて、自分を忘れている。原始人にとっておしゃべりの醍醐味は、自分を表出することにあるのではなく、自分を忘れて「なりゆき」に「反応」してゆくことだった。「なりゆき」は刻々変化する。その変化に反応してゆく即興性こそ、言葉=音声を発する醍醐味であり、言葉=音声の機能だった。
自分を携えて自分を表出してゆくのではない、自分を忘れて刻々変化してゆく「なりゆき」に反応していったのだ。これは、ネアンデルタールが集団で狩りをしていたのと同じタッチである。
そのとき「私」は世界=現実の裂け目に「非存在の私」として生成している。
原始人は、「消えている自分」を意識していた。というか、生き物は根源において、消えようとする衝動(本能)を持っている。そういうかたちで原始人の自我意識がつくられ、そこから「吾=あ・わ」という言葉が生まれてきた。そうして、この自我意識によって人間的な連携が生まれてきた。
人間的な連携は、言葉を必要としない。しかし言葉もまた、人間的な連携のひとつとして生まれてきた。人間的な連携が発展して言葉が生まれてきたのだ。人類が言葉によって連携してゆく方法を覚えていったのは、それからさにずっとあとの、おそらく共同体(国家)ができてからのことだろう。
自我は、自分(の身体)に気づくというかたちで発生し、自分が消えてゆくというかたちで生成してゆく。おそらくこれが、原初的根源的な自我である。
そのとき自分は、この世界の裂け目に「非存在の私」として生成している。これは、われわれが感じている意識がはたらいている場所でもある。われわれの意識は、みずからの脳にも世界にも存在しない。たぶん人は、そういう「意識のありか」を探るようにして自我を形成してゆくのだろう。
自分を「世界の一部」だと思うことは、普遍的な自我でもなんでもない。誰もが「この世界の裂け目に立つ孤立した非存在の私」というという自我を抱えている。われわれの生は、そこからはじまり、そこにたどり着く。
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   5・「自分さがし」と「自我」の問題のややこしさ
ラカンによれば、自我は他者の自我の複製なのだからオリジナルな自我などどこにもない、だから「自分さがし」などしても無駄なことだよ、ということになるのだが、そんなことをいっても人は「自分さがし」をしているのだ。
人が「自分さがし」をするということは、ラカンのいう自我概念など嘘っぱちだ、ということを意味する。他者の複製として存在できるのなら、自我などかんたんに見つかるさ、という話である。
そうしてラカンの説に追従している連中はみんな、そうやって自分=自我を見つけたつもりになっている。内田樹先生だろうと上野千鶴子氏だろうと、おまえらだってせっせと「自分さがし」をして見つけた気になっているじゃないか。そうやって自分にしがみついて、自分を宣伝しまくっているじゃないか。
内田先生が「師を敬え」とさかんにいっているのも、レヴィナスの複製として生きているつもりの自我意識によるのだろうか。
しかし人間の自我というのは、そういうところで生成しているのではない。
彼らは、自我の「孤立性」というものが、何もわかっていない。われわれとは人種が違うのだろうか。
われわれが「自分さがし」をするとき、避けがたくこの世界の裂け目に立たされてしまう。自我=自分は、そこで生成している。そしてその自分は、「非存在」の自分である。だから、さがしても見つからない。
しかしそれは、世界から切り離されて「孤立」したオリジナルな自分でもある。人間なら誰だって、そうした自分を意識している。だから、自分さがしがやめられない。
ただそれは、「消えてゆく自分」である。自分(の身体)が消えてゆくカタルシスがあり、そこにおいて確かな自分が実感される。
ラカンのように、他者の複製である自分を見つけろといっても、見つかるはずがない。それは、社会の一員(=世界の一部)として認知され自覚しているものしか見つけられない。社会からはぐれて「孤立」した自分を抱えている若者には、絶対見つけられない。
「世界の一部」としての「複製の自分」にしがみついているものたちが「自分さがし」なんか無意味だといっても、なんの慰めにもならない。
「自分さがし」がやめられない若者は、すでに「孤立」した自分に気づきながら、それでも社会的に認知された「複製の自分」をさがすことを強いられている。そういう「二つの自分」に引き裂かれている。
おまえらが彼らに「自分さがし」を強いているんだぞ。
根源的には「複製の自分=自我」などあるはずもないが、社会の一員(世界の一部)として認知され自覚してゆけば、たっぷり味わえる。自分が「世界の一部」であるのなら、自我は他者の複製であるに決まっている。
しかしそれでも人間は、根源において「孤立して世界の裂け目に立つ非存在の自分=自我」を抱えてしまっているのであり、そこにおいてこそ恋も友情も学問の知性も芸術の感性も育ってゆくのだ。
おまえらみたいな「世界の一部」であるつもりの俗物に自我の本質を語られてもうざったいばかりだ。
ラカンの「鏡像段階」という概念こそ、何よりえげつない「独我論」なのである。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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