「漂泊論」・56・言葉から心が生まれてくるのではない

   1・「なりゆき」の観察者という知性が連携を生む
人間は、泣いたりすねたりふくれたりする。それだってひとつの「連携」である。で、そっと肩を抱いてやる。猿はこんなことはしない。そしてこれは、言葉以前の行為である。
言葉によって人間的な連携が生まれてきたのではない。
しかし、肩を抱かれて、また「いやよ」とすねたりする。それは、相手に怒っているのではない。その関心は、あくまで関係の「なりゆき」にある。じゃあどうすればいいのかと聞けば、「わからない」という。どうすればいいという方法などない、「なりゆき」が解決する。解決しようとするその思いが解決を阻んでいる。
人間は、連携しようとして連携するのではない。
「なりゆき」に反応して、気がついたら連携していた。これが、人間的な連携の起源であり究極のかたちなのだ。
たとえば、ネアンデルタールが集団で狩りをしているとき、仲間が疲れてきて「あーあ」とため息のような声を出す。自分だってそんなときはそんな声を出す。じゃあそれは「疲れている」という意味だなあ、と気付く。
その声は、誰に向けて発したのでもないし、自分自身発しようと思ったのでもない。それでもその音声を聞けば、誰もが「ああ、疲れているのだなあ」と気付く。それは「状況=なりゆき」に気づくということである。
その音声のニュアンスに気づくということは、連携が育ってきたことの「成果」であるが、その音声=言葉が連携をつくろうとしているのではない。なぜならその音声には、他者に伝えようとする意思どころか、自分自身がその音声を発しようとする意思すらともなっていないのだから。
それでも誰もが、その音声を聞いて「ああ疲れているのだなあ」と気付いていった。言葉が「意味」として育っていった契機はここにある。
原初の言葉は、「意味」として発せられたのではない。発せられたあとに「意味になった」のだ。「なりゆき」に気づく意識が発達したことによって、さまざまな音声を発するようになり、その音声の意味に気づくようになっていった。
「なりゆき」をつくろうとしたのではない。「なりゆき」に反応して連携が生まれ、言葉が生まれ育っていったのだ。
原初の言葉は、伝達のための道具ではなかった。そのとき世界=状況の「観察者」である自我が世界=状況に対する「反応」として発せられたのであって、世界=状況をつくろうとしたのではない。
原初の言葉は、人と人の関係に対する「反応」として生まれることはあっても、人と人の関係(世界=状況)をつくるための道具ではなかった。
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   2・自我の孤立性
内田樹先生をはじめとする多くのインテリが、ラカンの「自我は他者の自我の複製である」という説を借りていっぱしの人間通のような顔をしている。
彼らの思考の流儀は、既成の権威を借りて自分を表現し正当化しようとすることにある。これだってひとまず、「他者の自我の複製」になることだ。そういう人間にかぎって、自己愛が強く、俺が俺がと騒ぎ立てる。なにしろ彼らの自我は、既成の権威の「複製」としてのお墨付きを持っている。
内田先生にいたっては、「ラカン老師が……」などと気取った物言いをして悦にいっていやがる。まるで、俺こそがラカンのいちばんの弟子だ、といわんばかりにさ。
悪いけど、それがあなたたちの限界だ。
われわれの自我は孤立している。既成の権威の腰巾着になって自分を正当化しようとするような趣味はない。自分の論理は、自分の素手で掘り進んでいる。
誰の自我だろうと、根源においては孤立している。
人間は「関係=なりゆき」に対する「観察者」としてそれに「反応」してゆく存在であって、「関係=なりゆき」をつくろうとする存在ではない。
人と人のあいだには、「関係=なりゆき」をつくることが不可能な「空間=すきま」が横たわっている。かんたんに「他者の自我の複製である」などといってもらっては困る。
人間は、世界の「なりゆき」の外に立つ「観察者」としてそれに反応してゆく存在であって、世界=なりゆきの渦中にいて「世界の一部=複製の自我」になってしまっているのではない。
渦中にいたら、「なりゆき」そのものになって「なりゆき」は見えない。しかし人間は、この世界の裂け目に立つ孤立した存在として、避けがたく「なりゆき」が見えてしまう。だから「なりゆき」に「反応」する。「なりゆき」の外に立つ存在だから「なりゆき」をつくることはできないが、「なりゆき」に反応することができる
猿は「なりゆき」そのものになって、「なりゆき」に反応できない。
人間は「なりゆき」が見えてしまう。
恋人どうしは、二人の仲がぎくしゃくしてきていることが見えてしまう。それで、泣いたり怒ったりすねたりする。猿は、そんなことはしない。
つまり、「なりゆき」の渦中にいる猿の自我はおたがい「他者の複製」であるが、人間の自我は孤立している。孤立しているから泣いたりすねたりという反応をしてしまうのだが、反応しないでかけひきしてゆくこともある。これは、渦中に入って「なりゆき」をつくろうとしている行為である。このとき人は、「なりゆき」に対して鈍感になってしまっている。人類の歴史は、この「かけひき」という制度性を発達させてきたが、それはすなわち「なりゆき」に気づく感性や知性が退化してゆくことでもあったのだ。
たとえば、昔の日本人は木の枝ぶりや葉と葉のあいだの空間のニュアンスに気づいてゆく知性や感性を持っていたが、現代人は木全体をひとつの塊のように見てしまう傾向が出てきた。かけひきが上手になるとは、まあそのように鈍感になることだ。「なりゆき」に鈍感になった方が、かけひきには有利だ。
原始人は、「なりゆき」に身をまかせて「かけひき」をしなかった。それほどに「なりゆき」に敏感だった。
現代人は、「なりゆき」に身をまかせることをしないで、コミュニケーションという名のもとに支配し合うことばかりするようになっている。
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   3・言葉の外部
「人間存在は言葉の中に投げ入れられてある」だってさ。言葉を使ってものを思ったり考えたりし、言葉でしかわかり合えない……とかなんとか。
どうしてこんなステレオタイプなことをいってわかったような気になってしまうのだろう。
それでも人の心はわからないし、それでも言葉以前にたがいの身体のあいだに横たわる「なりゆき」に気づけば豊かな連携も生まれてくる。
思ったことが言葉になるのであって、言葉が思ったことになるのではない。彼らは、言葉の根源的な性格をなんにもわかっていない。
われわれは言葉を使って思っているのではない。思ったことが言葉になってしまう状況を生きているだけだ。
悲しい、という言葉を使って悲しんでいるのか。アホらしい。悲しいという感慨は、言葉以前の心の動きなのだ。われわれは、言葉でものを思っているのではない。言葉は、ものを思ったことの結果なのだ。ものを思ったり考えたりしなければ言葉が生まれてくるはずがないじゃないか。そんなことは当たり前だろう。
ヘレン・ケラーは、言葉を知らなかったときには、ものを思ったり考えたりすることをしていなかったのか。
言葉を知らない赤ん坊だってものを考えているし、その思考が形而上的な問題であっても不思議ではない。おおいにあり得ることだ。言葉がなくてもそういう問題を考えることはできる。形而上、という言葉を持たなかった原始人は形而上の問題を考えていなかったのか。そんなことはあるまい。たとえば、自分はなぜここに存在するのか、という問題は、われわれよりもたぶんもっと深く考えていた。
金を稼ぐことやうまいものを食うことばかり考えて生きているおまえらが、えらそうなことをいうな。
何が正義か悪かと決めてそれ以上考えることをしない現代人よりも、そんな物差しを持たなかった原始人の方がずっとそれ以上深く考えていた。
とにかく、それがまるいかたちをしているから「まるい」と思うのであって、「まるい」という言葉がなければ四角に見えるわけでもないだろう。
青い空が青く見えるのは、青い空だからだろう。青いという言葉があるからより青く見えるということはあるかもしれないが、それでも、心(意識)は自我=自分の外側の「なりゆき」に気づくことによって生まれてくるのであって、言葉を持っている自我=自分から生まれてくるのではない。
心=意識は、自分と世界の狭間から生まれてくる。その「はざま」に立って自分(の身体)や世界に対する「観察者」となり、自分(の身体)や世界に対する反応として心=意識が生まれてくる。
言葉は、心(意識)のはたらきの「結果」であって、「原因」ではない。
なんでもかんでも言葉にしてしまう世の中ではあるが、それでも心=意識は、言葉以前のはたらきなのだ。
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   4・自我は言葉から旅立ってゆく
われわれは、それを言葉にすることによって、ひとまず「わかった」という気分になる。生きることは「わかる」ことだという俗物は、言葉によって生きていると思う。
しかし心(意識)は、「何・なぜ?」という問いとして発生するのだ。言葉として納得するかたちで発生するのではない。
悲しみとは、「何・なぜ?」という言葉以前の問いである。で、「悲しい」といってしまった瞬間に悲しくなくなってしまったりする。まあ言葉は、悲しみをそそぐ機能がある。しかし、悲しいという言葉によって悲しみが生まれてくるのではない。
われわれは、言葉の氾濫によってものを思わないもの考えない社会で生きている。ろくにものを思わないものを考えない俗物が、「人間は言葉の内部で生きている」などと愚にもつかないことを言い出すのだ。
人間は、言葉の「外部」でものを思ったり考えたりし、それを言葉にしているだけだ。こんなこと、あたりまえじゃないか。まるく見えたから「まるい」という言葉が浮かぶのであって、「まるい」という言葉によってまるく見えているわけではない。それは、「言葉の外部を生きている」ということだろう。
言葉は、ひとまず世界を納得させる機能を持っているが、と同時にわれわれは、言葉から旅立って新たな「何・なぜ?」という問いの世界に分け入ってゆくこともする。
ただ「まるい」というだけではすまない。それは食べられるか食べられないか、硬いかやわらかいか、という新たな問いがそこから生まれてくる。
人類は、新たな問いを紡ぎながら文化や文明を発展させてきた。
そして、共同体や宗教による新たな問いを封じる規範(=制度・戒律)も積み上げてきた。そういう制度性に囲い込まれた人間が「自我は他者の複製である」とか「人間は言葉の内部で生きている」などと合唱している。
それでもわれわれの孤立した自我は、新たな問いに旅立ってゆく。言葉という規範に囲い込まれてまどろんでいることはできない。
万葉人が恋の歌で「近江(あふみ)」という言葉を使うとき、「逢ふ身」という意味も懸けている。そうやって心が「近江」という言葉から旅立ってゆくことによって、その歌の情趣が生まれてくる。それは、言葉の内部でも外部でもあり内部でも外部でもない場所、すなわちそのとき、詠み手の自我も聞き手の自我も、この世界の裂け目に立っている。
自我は、この世界の外部において生成している。しかしわれわれは、この宇宙に外部があるのかどうかなどわからない。そういう外部ではなく、「いまここ」の異次元の空間としての「外部=裂け目」を、人間の意識はどうしてもイメージしてしまう。人が思うことや考えることは、避けがたくそういう場に立ってしまう。意識は、そこではたらいている。
だから人は、旅をする。この世に生きてあること自体が、すでに漂泊の旅であり、そういう思いは、おそらく誰の中にも疼いている。そうやって、誰の自我も孤立している。
おまえらみたいな俗物に「自我は他者の自我の複製である」などといわれてもありがたくもなんともないんだよ。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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