「漂泊論」・57・自我は「観察者」である

   1・自我は、この世界から孤立している
このブログは、人間の起源からわれわれの「いまここ」を照射する試みとして書いている。
ひとまず起源論のことばかり書いているが、けっきょく気になるのは、「人間とはなにか」ということであり、自分がこの世に生まれてきてしまったことにどうけりをつけるかということだ。そういう「いまここ」の問題抜きにしては、どんな思考も成り立たない。
これはたんなる感想文で、哲学をしているという自覚などないが、哲学ではない、ともいえない。
魚屋が魚を売ることにも哲学はあるし、ノーベル賞の科学者の思考にだって哲学は必要だろう。
われわれは、哲学をして生きているわけではないが、誰もが哲学を基礎にしてこの生を紡いでいる。
自分は「いまここ」に生きてある、という意識は哲学の問題だろう。そういう意識は誰もが持っているし、そういう意識の上にこの世界と関わって生きている。下町の魚屋だろうと病人だろうと赤ん坊だろうとノーベル賞の科学者だろうと、みんなそういう哲学の上で生きている。そしてそういう自覚は自分において気付くことができるだけで、まわりの他人も持っているのかどうかはわからない。人の心なんかわからない。
われわれにわかることができるのは、他者の姿であり他者の言葉だけである。
われわれは、他者の姿や言葉の「観察者」としてこの世界に存在する。<自分は「いまここ」に生きてある>という自覚を共有しているわけではない。共有しているはずだが、誰もが「他人の心はわからない」というかたちで存在している。そのとき他人はあくまで「行為者」であり、「私」はその「観察者」になっている。自分だけが<「いまここ」に生きてある>ということを自覚していて、他人の中にその自覚があることはけっしてわからない。
あるはずなのに、わからない。
だからわれわれは、けんめいに他者の姿や言葉を「観察」する。人が人にときめくのも、おしゃべりの花が咲くのも、われわれが「他者の心はわからない」という前提を持っているからである。この「不可能性」を携えてわれわれは人と関係している。<自分は「いまここ」に生きてある>という実感をどうしても共有できないという、その「不可能性」の上に人と人の関係が成り立っている。
この「わからない」という心が、人間を人間たらしめている。
わからないよ、人の心なんて。だから「私」は、この世界の「観察者」になるしかない。人は、孤立した「観察者」になることによって「わからない」という気持ちをなだめようとして生きている。
人間がなぜこんなにも「わからない」という心の動きを深く持ってしまったかといえば、<自分は「いまここ」に生きてある>という思いを深く抱えてしまっているからだろう。
そしてなぜそんなにも深く抱えてしまったかといえば、二本の足で立ってきわめて不安定な存在の仕方をしているからであり、生まれ落ちたときにまったく無力な存在として生きさせられたというトラウマもある。
そうして、この思いにしがみついてあくせく生きようともすれば、この思いにけりをつけようとしてみずから死を選ぶこともする。
人間は、孤立した「観察者」としての「自我」を持ってしまっている。このことを考えようともしないで、J・ラカンやその信奉者たちは「人間の自我は他者の自我の複製である」と合唱してやがる。
他者の自我の複製にはなり得ないところに人間の人間たるゆえんがあり、他者の自我の複製になりきることがこの社会で上手に生きてゆくための流儀になっている。現代人の自我は、そのように二つに引き裂かれている。
他者の自我の複製になり切れたやつが勝ちの世の中だ。
それでも人は、孤立した「観察者」としての自我を抱えて生きている。そこに、われわれの生きにくさがある。
孤立した「観察者」としての自我を放棄しては、文化や文明の発達もない。恋も友情も学問の知性も芸術の感性も、孤立した「観察者」としての自我から生まれ育ってくる。そういう自我を放棄して、内田樹先生のようなしょうもない人格者ぶったインポおやじがあらわれてくるのだ。彼らは、みごとに「他者の自我の複製」の自我になり切っている。だから、自我=自分に執着する。
孤立した「観察者」としての自我は、自我=自分に執着できない。それは「わからない」という「不幸=けがれ」の自覚であり、自分を忘れて自分の外の世界や他者にときめいてゆくことによって解放される。それが「観察者」という態度だ。
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   2・そんなものはただの俗物根性としての自意識なんだよ
人間は、「他者の自我の複製の自我」だけでは生きられない。それはつまり、立派な「市民」あるいは「社会人」というスタンスだけでは生きられないということであり、立派な「市民」あるいは「社会人」だからといって人間的であるわけでも魅力的であるわけでもない、ということだ。
少なくとも、自然な存在である赤ん坊の自我は、「他者の自我の複製」にはなっていない。ラカンは、そこのところがわかっていないから、彼の理論は現在の発達心理学の有効な解答になり得ていない。
ラカンの信奉者である哲学者も心理学者も、なあんもわかっていない。彼らは、そうやって自分のナルシズムやエゴイズムや制度性をラカンに正当化してもらい、それに安心し居直っているだけである。文句があるなら、誰でもいいからいってこいよ。おまえらみんな、アホだよ。
「人間の自我は他者の自我の複製である」という論理など、ナルシズムやエゴイズムや社会の制度性の正体を語っているだけのことだ。
たしかにこの世の中には、他者の自我を自分の自我としてインストールしてしまう傾向が強い人がいる。そういう傾向のことを「アスペルガー症候群」といったりするが、それは人間の自然でも本質でもない。
まあ、アスペルガー症候群を現代人の病理的な傾向として発見したアスペルガー博士の知性は、少なくともラカンよりははるかに高度であり、人間として誠実である。
ラカンのいう「人間の自我は他者の自我の複製である」というパラダイムは、人間の制度性や病理として問い直されなければならない。それを人間の本質や自然として見ているかぎり、人間とはなにかということの答えは何も見えてこない。
ラカンはおそらく、ひといちばいダイナミックなアスペルガー症候群だったのだ。
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   3・人間の性根はそうかんたんには変わらない。
僕の友人にも、そういう人間がいた。彼は、「人間は生まれてすぐに制度性の網をかぶせられる」といっていた。つまり「他者の自我の複製の自我」で生きるようにさせられてしまう、ということだ。
そうやって彼は、自分に執着することに居直って生きていた。それが人間の自然であり本質である、と。
まあ、人間なんて「三つ子の魂百まで」というくらいだから、生まれ持った性癖はなかなか変えられないのかもしれないが、それが人間の自然であり本質であると居直ることはなかろう。
それが人間の自然であり本質であると居直って、孤立した「観察者」としての自我を抱えて四苦八苦して生きている人たちを見下したり追い詰めたりすることもなかろう。内田樹先生は、ラカンの説に同調しながら、まさにそうした人たちの自我を見下し追いつめている。そうして僕の友人は、呆れるくらい内田先生にシンパシーを抱いている。まあ、内田先生のいうことが、彼の生きる支えになっている。
内田先生も彼もそのようにしか生きられないのならそう生きればいいのだが、それが人間の自然であり本質であると規定されることは困る。それは、自我の病理的な傾向であって、自然でもなんでもない。
内田先生も彼も、いちおう知能指数は高いが、学問的な知性も芸術的な感性も人にときめく心も体を動かすセンスも、あまり豊かとはいえない。そのくせ、自分に対する執着はひといちばい強い。まあ、俗物である。彼らは、社会をつくっている一員であるが、孤立した「観察者」の自我が希薄である。社会的な物差しで人を値踏みする視線はたくましいが、そういう物差しを持たない孤立した「観察者」の視線で他愛なくときめいてゆくということはしない。
彼らは、用心深い。つねに社会的な物差しで人を値踏みしている。社会的な物差しを持っているとは、「他者の自我の複製としての自我」になり切っている、ということだ。
だから、どうしても孤立した「観察者」の目で人や世界を見れない。だから、どんなに知能指数が高くても、学問的な知性や芸術的な感性が育たなかった。
そうして孤立した「観察者」としての自覚がなく、他者の自我を自分にインストールすることばかりしているから、自分の身体を外側から見える姿、すなわち他者の視線からどう見えるかということばかりにこだわって、この世界から孤立している即自的な身体の輪郭をひとつのスケールとして自覚するイメージが希薄である。だから、自意識過剰で鈍くさい運動オンチになってしまう。
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   4・自我は「観察者」である
人間は、みずからの身体を、他者の目に映る姿としてではなく、即自的な身体のスケールとしてイメージしながら動かしている。そういうイメージが希薄だから彼らは、スポーツのときの身のこなしが鈍くさく、いちいちわざとらしい。
素人は、自分がスポーツをしているときの姿をビデオで映してみると、思った以上に自分が野暮ったい動きをしていることに驚く。
「あんがいさまになっているんだな」と思う人は少ない。そういう人は、ふだんから自分の姿(フォーム)なんか意識していないし、運動神経が鈍いものほど意識している。
誰だって、身体がうまく動くときは、外から見た自分の姿を忘れ、この世界から孤立した存在としてのみずからの身体のスケールだけを意識している。
スポーツをするときはどうしても自意識過剰になってしまうから、つい外から見た自分のフォームを意識してしまう。しかしわれわれがふだんの暮らしをしているときは、孤立したみずからの身体のスケールを物差しにして世界の風景を解釈し、体を動かしている。そのとき、自分の身体なんかほとんど意識していない。そういうときには、人は、孤立したこの世界の「観察者」になっている。
身体を上手に動かす人は、身体のことを忘れている。身体のことを忘れる「自我」を持っている。しかしこの自我のかたちは、ちょっとややこしい。そのとき、外から見た身体の姿(画像)のことは忘れて、この世界から孤立した即自的な身体のスケール(輪郭)が意識下で自覚されている。そのとき「私」の身体は、この世界の裂け目において自覚されている。そういう「非存在」の身体が、即自的な身体のスケール(輪郭)のイメージである。
そういう即自的な身体意識は、他者の自我を自分にインストールするという外から見た身体の姿に対する意識を消去したところに成り立っている。つまり、「複製の自我」による身体意識ではなく、「孤立した自我」による身体意識によって身体はうまく動く。
人間が根源的に持っている「身体意識=自我」とは、このようなものだ。「他者の複製の自我」ではない。
あのビルは高いとかこの道は広いと思うとき、われわれの自我は、身体のスケールを物差しににしながらその差異をはかっている。だから、子供のころに通った道を大人になってから再訪したとき、「こんなに狭い道だったのか」と驚いたりする。
小さい犬がかわいいといっても、自分の身体がその犬より小さければ、かわいいともいっていられないだろう。
また、そばにいる人が自分よりも背が高いか低いかは、われわれは背比べをしなくてもたちまちわかってしまう。それは、自分の身体の正確なスケールを無意識レベルの「自我」として持っているからだ。
自我は、「観察者」なのだ。
海の底の魚が狭い岩のあいだをすりぬけてゆけるのも、生き物ならちゃんとそういうみずからの身体のスケールを把握しているからだ。それは、外から見た画像ではない。「非存在」の「身体のスケール=輪郭」なのだ。魚だって、そういう「自我」を持っている。
人間だって自分の姿の画像を自我として生きているのではない。見ることも語ることもできない「非存在」の「身体のスケール」を自我として生きている。
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   5・近代の病理
「自我とは他者の自我の複製である」などと合唱している連中は、このような根源的な自我のはたらきが希薄になってしまっている。そうして、とどのつまりは、しょうもないインポおやじになる。インポおやじは、人間ほんらいの姿なのか。「他者の自我の複製である」などと合唱しているおまえらはそういってるんだぞ。
それは、人間性の自然でも本質でもなく、近代社会の病理なのだ。
内田樹先生は、その病理を見事に体現しておられる。内田先生は、鈍くさい運動オンチであることだけでなく、学問的な知性においても芸術的な感性においてもまったくみすぼらしいありさまだと思うが、それをいうと今のところ水かけ論になってしまいそうなので、ひとまず生き物としての根源的な身体意識のレベルでその病理を指摘してみた。
アスペルガー症候群のことは最近知ったばかりだからあまり深くは語れないのだが、とにかく「内田樹アスペルガー症候群=J・ラカン」という図式で僕は考えている。
そしてこの症状のややこしいところは社会的な成功者にも失敗者にもあらわれることで、われわれ現代人の誰もが多かれ少なかれ抱え込んでいる傾向だということにある。
しかし、ラカン理論=アスペルガー症候群、というレベルで再考してみてもいいのではないかと思える。
それはけっして、人間の自我の自然でも本質でもない。
人間の自我の根源は、孤立した世界に対する「観察者」としてはたらいてる。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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