「漂泊論」・55・自我はこの世界の裂け目で孤立している

自我は孤立している。他者の自我の複製ではない。
人間は、根源的には、関係がくっつきすぎること、すなわち他者の自我にまとわりつかれることに鬱陶しがるという拒否反応を持っている存在である。
日本的にいえば、それは「けがれ」という状態である。だからわれわれは、ひとまず深くお辞儀して、そこから関係をはじめる。それは、たがいの自我を相手にまとわりつかせない、という作法である。
一方西洋では、抱きしめ合うところから関係をはじめる。これは、たがいの自我を相手にインストールし合う、という作法だろうか。数万年前のネアンデルタールのころの、氷河期の北ヨーロッパという彼らの原始時代は、何はともあれ抱きしめ合わずにいられない環境だった。そのとき彼らは、自分(自我)忘れて抱きしめ合うという心のタッチを持っていた。
今でもそうだろう。彼らはその行為に自我などこめていない。しかしそれは、自我をインストールし合うという行為になってしまう危険も常にはらんでいる。だから、「握手」という作法が生まれてきたのかもしれない。彼らにとってそれは、たがいの自我をインストールし合わないという作法であるのかもしれない。日本人どうしが握手するのとは、おそらくちょっとニュアンスが違う。
西洋人だって、たがいの自我をインストールし合うことの鬱陶しさはちゃんと知っている。自我を忘れていられる関係になって、はじめて抱きしめ合う。基本的には、そういうことだろう。
ところが近代になって、自我をインストールし合う関係になること、すなわちJ・ラカンの「人間の自我は他者の自我の複製である」というというとんでもない説が人間の真実であるかのように流布される時代状況になってきた。
これは、病理的な状況である。おそらくJ・ラカン自身が精神を病んでいたのだろう。彼が精神を病むのは彼の勝手だが、それが人間の真実であるかのように規定されては困る。
他者の自我が自分にまとわりついて自分の自我が他者の自我の複製になってしまうなんて、こんな鬱陶しいこともないではないか。しかし現代社会においては、それを自分が生きる作法にしている人がいる。そういう人が成功する社会になっている面がある。それが鬱陶しさではなく、自己愛の満足になっている人がいる。
というか、今の時代は、人の心をそのようにしてしまう社会の構造がある、ということだろうか。
これは、おそろしいことだ。
心がそのように動いて社会にうまく適合してゆけば成功者になれるし、適合できなければ病理現象を起こして鬱病になったり引きこもりになったりしてしまう。
自分の自我と他者の自我がつながっていると思えるなら、社会に適合しているものにとってはみんなから好かれている気分でこれほど安心できることもないだろうし、適合できないものがそれでも自分の自我と他者の自我がつながっていると思えば、みんなが自分の悪口をいっているような気になり、怖くて街を歩けなくなってしまう。
普通は、誰だって社会に適合できない孤立した自我を抱えている。この「孤立した自我」が「複製の自我」に覆い尽くされている状態で病理現象が起きてくる。
自分の自我が「他者の自我の複製である」と思い込んでしまう病理。
西洋人の多くが抑鬱剤を常用しているという話もある。
しかし人間の自我は、根源的には、この社会の外(裂け目)に立たされ孤立した「観察者」として機能している。そういう原始人の自我が、今なおわれわれの中でも機能している。
誰もが「複製の自我」に邁進して生きられるわけでもない。
われわれは、「孤立した観察者の自我」で人にときめき連携して生きている。よほどの成功者になってこの社会の甘い汁をたっぷり吸うか、よほど鈍感な人間になるかしないことには、「複製の自我」だけでは生きられない。そうして「複製の自我」だけになったら、社会に適合できなくなったとたんに精神を病まねばならない。
そういう病理的な自我を、現代人は、自我の本質であるかのように合唱している。
しかし、人間の自我は他者の自我の複製であるということが、自我の本質であるあるはずがないじゃないか。他者の自我にまとわりつかれたら鬱陶しいに決まっている。
日本列島には、そういうことの鬱陶しさを「けがれ」として自覚してゆく伝統がある。そういう伝統が、われわれを生きにくくしている。われわれは、「複製の自我」になりきれない。
どんなに彼らが「複製の自我」を自我の本質だと合唱しようとも、それでも人間は、「孤立した観察者としての自我」を携えて存在している。この自我によってわれわれは、恋をし友情をはぐくみ他者と連携し、生きてあることのカタルシスを汲み上げている。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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