原始社会に「霊魂」という概念はなかった・「漂泊論B」16 

     1・原始時代の場合
現在の人間社会は、三角関係の上に成り立っている。
この関係を上手に生きることができる人間が出世をする。
われわれは、先験的に三角関係の中に置かれている。
2対1になって第三者を排除してゆくという関係。そうやって、人と人の結束が強化される。
猿の社会では、余剰の個体は追い出される。追い出しながら、群れとして結束してゆく。まあ、これと同じだ。
しかし原初の人類は、群れが密集しても余剰の個体を追い出すことなく、それぞれが二本の足で立ち上がってゆくことによって、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保していった。
原初の人類は、猿社会の余剰の個体を追い出すという習性を捨てて、猿から分かたれた。
おそらく、サバンナの中の孤立した小さな森であったために、追い出すことが不可能だったし、誰も逃げ出そうとしなかったのだ。
その密集状態から押されるようにして二本の足で立ち上がっていった。
人類の歴史は、三角関係を捨てたところからはじまっている。
現在の共同体の制度は外部を排除して集団の結束と維持をはかってゆく三角関係の上に成り立っているが、それは猿の時代に先祖がえりするかたちであって、原始人の集団はそのようにして成り立っていたのではない。
いまどきの人類学者は、現在の人間集団のかたちをそのまま当てはめて原始時代を語っているが、そうではないのだ。
たとえば彼らは、原始時代も他の集団との緊張関係があった、と考えている。それが人間集団の普遍的なかたちだと思っている。そうやって、ヨーロッパのネアンデルタールもアジアの先住民もアフリカからやってきたホモ・サピエンスに滅ぼされた、などととんでもないことを言い出す。
原始時代の旅人は、つねに先住民に助けられながら旅をしていたのだ。原始時代の旅は、死に瀕するほど困難で疲れ果てる行為だったのであり、人間はそういう弱っているものを介護しようとする本能を持っている。そのようにして原始時代や古代の旅が成り立っていた。
原始時代の集団どうしに、現在の世界のような緊張関係などなかった。
個人と個人のあいだだって、現代社会のような競争関係はなかった。
人間は、猿の時代のそういう関係を捨てて人間になったのだ。それが、直立二足歩行の起源が意味するところである。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、猿よりももっと弱い猿になった。
猿よりも弱い猿として逃げ隠れして生きていたから、自然に集まってきてしまう。
だからその集団には、猿社会のように弱いものを排除しようとする衝動も、弱いものより優位に立とうとする衝動もなかった。
猿よりももっと弱い猿として、みんなで身を潜めて暮らしていた。このようにして人類の歴史がはじまったのであり、これが原始人の習性である。
彼らは、ライバルのチンパンジーからできるだけ遠く離れて集団の住みかをつくった。
だから、同じ人間の集団どうしだって、緊張関係が起きないようにできるだけ離ればなれになり、たがいのテリトリーのあいだに緩衝地帯をもうける習性があった。
そういう習性を持っていたから、地球の隅々まで拡散していったのだ。
彼らは、猿よりももっと弱い猿としてみんなで身を潜めて暮らし、弱いものを排除しようとしたり弱いものより優位に立とうとしなかったから、その集団はとうぜん猿よりも大きな規模の集団になってしまう。
大きな集団をつくろうとしたのではない、避けがたく大きな集団になってしまったのだ。そうして猿のくせに猿の限度を超えて大きな集団をいとなんでいるのだから、いやになって逃げ出すものも出てくる。そうやって、旅の習性が生まれてきた。
原始人の集団は、好きでつくっている集団ではないから、集団を離れてうろうろするものがいつもたくさんいた。そういうものたちがその「緩衝地帯」にどこからともなく集まってきて「祭り」の場が生まれ、新しい集団が生まれていった。そうやって人類は、地球の隅々まで拡散していった。
人間の新しい集団は、「生産集団」ではなく、つねに「祭りの集団」として生まれてきた。だから、住みにくいことも厭わず地球の隅々まで拡散していった。
原始人の集団は基本的には「お祭り(遊び)の集団」であり、ひとりひとりが「身体が消えてゆく」カタルシスを汲み上げてゆくことの上に成り立っていた。人間が二本の足で立っているということは、自分を消してゆく姿勢なのである。そういう「お祭り=遊び」の場として原始人は、猿よりも大きな集団をいとなんでいた。
原始人の社会には、猿社会のような緊張関係がなかった。猿は緊張関係によって集団を成り立たせているが、原始人は、緊張関係を消すことによって集団をいとなんでいた。したがってその集団はいかようにも大きくなることができると同時に、かんたんに崩れたり、逃げ出すものが生まれてきたりする。そうやって人類は、地球の隅々まで拡散していった。
原始人は、集団をつくろうとする衝動はなかったが、避けがたく大きな集団になってしまう習性を持っていた。だから、彼らには、集団をいとなむための「制度」をつくろうとする意欲も希薄だった。最初は「お祭り=遊び」の場でも、だんだん鬱陶しくて退屈な集団になってくる。そうなればもう、逃げ出したいものはどんどん逃げだしてゆき、また新しい集団が生まれていった。
人類が地球の隅々まで拡散していったということは、原始人には集団を維持し結束するための社会制度をつくろうとする意欲は希薄だったことを意味する。
いまどきの人類学者は、人間には大きな集団をつくろうとする衝動があるという前提で、原始人もあれこれ社会制度をつくっていたと考えている。
そうではない、原始人にとっての集団の運営は、生きるための「仕事」ではなく「お祭り=遊び」であり、なりゆきまかせだったのだ。その点は、猿の集団の方が、順位制をはじめとしてずっと厳密厳格な制度を持っている。


     2・縄文時代の場合
原始人の集団には、猿の社会のような、仲間どうし結束して外部を排除しようとするような「三角関係」の意識は希薄だった。
お祭り騒ぎでワイワイやっていただけなのだ。
人間は、猿よりもずっと「薄ぼんやり」な生き物なのである。お祭り騒ぎで生きていた原始人は、猿よりもずっと「自分という意識」が希薄だった。
原始時代は、人間の集団どうしよりも猿の集団どうしの方がはるかに強い緊張関係があった。直立二足歩行をはじめた原初の人類は、そういう緊張関係を生きることのできない猿よりももっと弱い猿だった。そうしてその生態が人間の本性として原始時代の歴史をつくっていた。そうやって人類は、地球の隅々まで拡散していったのだ。
したがって、そんな原始人の集団から「霊魂」という概念が生まれてくるはずがない。
「霊魂」という概念は、人間が猿の時代に先祖がえりして共同体(国家)という仲間どうし結束して外部を排除しようとする衝動をたぎらせる集団をいとなむようになってから生まれてきたのだ。
人間は、結束しようとするのではない、結束してしまうだけなのだ。結束するなんて鬱陶しいだけなのに、いつの間にかときめき合ってそういう関係になってしまう。少なくとも原始人は、そのような「お祭り=遊び」の集団をいとなんでいた。
そして、日本列島の縄文時代は、そういう原始時代を引き継いでいた。
日本列島は海に囲まれていたから、朝鮮半島や中国大陸などの外部の集団を意識することがなかった。これは、原始人ができるだけ離ればなれになって集団をいとなんでいたことをそのまま引き継ぐかたちだった。そうやって外部を意識しなかったから、仲間どうし結束しようとする意識も希薄だった。そのために、ついに共同体(国家)という集団を持つことがなかった。
それは「自分という意識」が希薄だったということであり、「霊魂」という概念が生まれてくる素地を持たなかったということを意味する。
共同体の「霊魂」が共同体を結束させ存続させる。個人の身体に宿る「霊魂」は、個人の身体を支配し存続させる。「霊魂」が離れたら、身体も生きられない。われわれは、そのように「霊魂」をイメージしている。
まあ、国歌や国旗は、共同体の霊魂の「かたしろ」だといえる。
しかし縄文人は、共同体(国家)の存続はおろか、身体の存続を意識することもなかった。男たちは、ひたすら「身体が消えてゆく」カタルシスを汲み上げながら山道を歩きまわっていた。そういう「お祭り=遊び」の社会だった。


     3・やまとことばの「たま」とは「霊魂」のことだったのか
では、「身体が消えてゆくカタルシス」とは、身体が消えて「霊魂」だけの存在になってしまう体験であるのか?
そうだともいえる。
しかしその「霊魂」は、身体に宿っていない。意識が「身体=脳」から離れたところで生成していることは、とうぜん原始人だって感じている。そういう意識のことを、縄文人「たま」といった。それは、身体の中に宿っているのではなく、身体から離れたところで生成している意識のことである。
身体のはたらきをつかさどって身体を維持している意識ではない。身体のことを忘れてしまう意識である。
身体のことを忘れてしまってそれだけで完結している意識のことを「たま」といった。
「たま」とは、「自立」とか「完結」というような意味である。だから、「自立」し「完結」している例外的な体験のことを指して「たまに」とか「たまたま」という。「霊魂=意識」が身体の中に宿っていたら「たま」とはいわない。
縄文人は、そもそも共同体(国家)がなかったのだから。共同体(国家)をつかさどっている「霊魂」というイメージはなかった。同様に、身体をつかさどっている「霊魂=意識」というイメージもなかった。彼らの「意識=たま」はあくまで身体の観察者として、「身体が消えてゆく」感覚を生きていた。
そういう意味では、原始人や縄文人こそ心身二元論で、「霊魂」という概念を持っていることの方が心身一元論だともいえる。このあたりの定義の仕方はややこしい。
まあ、一元論とか二元論とか、そんな議論はどうでもよい。
とにかく縄文人にとっての「たま」は、身体に宿っている「霊魂」のことではなく、身体から離れた身体の観察者としての「意識」のことだった。
彼らは身体を維持しようとする意識が希薄だった。未来に向かって身体を維持してゆくことよりも、「いまここで身体が消えてゆく」カタルシスを汲み上げて生きていた。


     4・縄文人の埋葬はネアンデルタールのそれと似ている。
縄文人の寿命もまた、ネアンデルタール同様、30数年しかなかった。それは、彼らが寿命が延びるための工夫を何もしていなかったからだろう。
彼らは、「未来を思わない」という作法で生きていた。「霊魂」が身体をつかさどるというメンタリティを持っていなかった。
彼らは、乳幼児の死体は家の床下に埋めていた。この習慣は奈良時代まで続いていたのだが、「霊魂」という意識があったら、そんなことをする気にはならない。霊魂の離れた身体など何の価値もない。しかし彼らは、その死体そのものに人格を見ていた。そうやって床の下に埋めたのであり、それは、親が子供のことを思い出すためのよすがとしてなされていたのだろう。
「霊魂」がどこかに旅立ってゆくとか、そういう意識はなかった。身体がちゃんと消えてゆくまでそばに置いておきたかった。身体が消えてもまだそばに置いておきたかった。
日本列島のいちばん古い葬送の習俗は、「もがり」という、肉体が溶けて骨だけになってから埋葬するというものだった。身体が消えてなくなるまでは死者はまだこの世に存在している、という意識。死んだら「霊魂」だけがさっさとどこかに行ってしまうというような意識はなかった。
縄文人は、「霊魂」などというものは知らなかった。死体そのものに人格を見ていた。
日本人は、「霊魂」という意識が希薄だから、死体そのものに人格を見てしまう。たとえ意識がなくなろうと、死体の存在そのものが人格なのだ。こうなると心身一元論になってしまうし、そこから幽霊のイメージも生まれてくる。
とにかく縄文人が子供の死体を家の床下に埋めたのは、「霊魂」という意識がなかったからであり、死体にまだ「霊魂」が宿っていると思ったからではなく、死体の存在そのものを人格として見ていたからだ。
死体にまだ「霊魂」が宿っていると思ったら、土に埋めてしまうことなんかできない。死体は死体なのだが、死体であることそれ自体に人格を見ていた。そうして、この下に眠っている、と何かにかにつけて思い出していた。
ネアンデルタールだって、そのようにして子供を洞窟の土の下に埋めることをはじめたのだろう。そうすれば、何かにつけてありありと思い出すことができたからだ。そうやって「霊魂」と対話していてのではない。「思い出していた」のだ。
「霊魂」と対話できると思うのなら、床下に埋める必要はない。どこに埋めようと身体から離れて目の前の空間に浮かんでいる、と思うことができる。
原始人や縄文人は、「霊魂」が死体から離れてあの世に旅立ってゆく、というようなイメージは持っていなかった。それは、つまるところ、外部を排除して集団の結束と維持をはかるという「三角関係」の意識を持っていなかったからだ。
集団の結束と維持のための「霊魂」が、そのまま身体に宿る「霊魂」のイメージでもある。
現代人は「霊魂」という概念を持ってしまっているから、つい生きる「目的」とか「意義」というようなものを追いかけてしまう。
しかし原始人は、そんなものを追いかけて生きていたのではない。ただもう「いまここ」で消えてゆくカタルシスに身を浸しながら「お祭り=遊び」で生きていた。
どちらが幸せかということなど僕にはよくわからないが、とにかく現代社会の物差しで原始人の暮らしや人間の自然や普遍性を語られても納得できないのだ。
人間社会に「霊魂」という概念が生まれてくることは、彼らが考えるほどかんたんなことではないし、自然なことでもない。
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